Here,is
振り返った先には、何もなかった。
ソウマはしばらく、その廊下を見つめていた。
視線は、ただ前へ向けられているだけではなく、まるで廊下そのものの奥行きを探るように、空気の層を一枚ずつ剥がすように、ゆっくりと伸びていく。
廊下は以前として停止している。
その静止は、単に動きがないというだけではなく、時間が動くことを拒絶しているかのような奇妙な静けさを孕んでいた。
柱が並んでいる。
その柱は、石材の冷たさを保ったまま、触れられることも、押されることも、倒されることもなく、ただそこに“存在しているという事実だけ”を示していた。
壁が立っている。
壁の表面には、微細な凹凸があり、光源がないにもかかわらず、その凹凸が影らしきものを生み出していた。
燃えることを止めた炎がある。
炎は、揺らぎを失った瞬間の形を保ち、まるで「動く」という概念そのものを忘れてしまったかのように固まっていた。
先ほど見た絵画も、そこにある。
絵画の表面に刻まれた筆跡は、時間の停止によってその意味を奪われ、ただの「線」としてそこに残っているように見えた。
それだけだった。
誰かがいるわけでもなく、何かが動いたわけでもない。
音がしたわけでもない。
ただ、自分が見られているような感覚だけが、廊下の空気に薄く残っていた。
その感覚は、視線のようであり、気配のようであり、しかしどちらでもない曖昧な“何か”だった。
「…………」
ソウマは躊躇いながら視線を外した。
視線を外すという行為が、まるで自分の中の何かを切り離す儀式のように感じられた。
考えすぎだ。
そう判断するのが一番簡単だった。
この場所に入ってから、何度も異常を見てきた。
時間が止まり、音が消え、世界から切り離されたような王城の中を、一人で歩いている。
正常な場所でさえ疑ってしまうのは、ここまで積み重なったものを考えれば不思議ではない。
だから、今の感覚もただの錯覚だ。
そう決めて、歩き出した。
足音は鳴らない。
それゆえ、歩いているはずなのに、歩いているという実感が薄い。
数歩進んだところで、ソウマは立ち止まった。
目の前に、扉がある。
古い木製の扉だった。
取っ手は黒く、表面には細かな傷がいくつも刻まれている。
傷は、誰かが触れた痕跡のようにも見えるが、ただの経年劣化のようにも見えた。
王城の中では珍しいものではない。
これまでにも似たような扉をいくつも見てきた。
ソウマは扉を見る。
見るだけだった。
開ける必要はない。
今は、ただ――
確認する。
扉はそこにある。
それだけを確認する。
「…………」
ソウマは扉から視線を外した。
右を見る。
壁。
壁の表面にも、微細な凹凸があり、この世界でもその質感だけは確かに存在していた。
左を見る。
柱。
柱の影は、光源がないにもかかわらず、なぜか“影らしきもの”としてそこにあった。
もう一度、正面を見る。
扉。
当然、変わっていない。
ソウマはそのまま歩き出した。
一歩。
二歩。
廊下を進む。
三歩。
四歩。
五歩。
そこで、ふと足を止める。
――今の扉は、どこにあった?
振り返って見ると、先ほどと同じ場所に扉がある。
ソウマはそれを確認して、再び前を向いた。
今度は振り返らず、気にもせず、そのまま歩いた。
十歩ほど進んだところでは、廊下が左へ折れていた。
角を曲がると、先ほどの廊下は見えなくなってしまった。
ソウマはそこで立ち止まった。
自分の中に、不可解な疑問が浮かんでいるのだ。
――あの扉は、最初から閉まっていた。
当たり前のことだった。
自分が扉を開けていないのだから、閉まっている。
しかし、ソウマはそこで違和感を覚えた。
自分は「閉まっていた」と思っている。
『それを本当に確認したのか?』
扉を見た。
その扉の、取っ手も傷も見た。
『閉まっていることまで確かめたか?』
「――くだらねぇ」
そう呟いた言葉に反して、ソウマは来た道を戻った。
角を曲がると、先ほどの廊下が再び現れる。
そして、お目当ての扉がある。
ソウマは足を止めた。
扉は閉まっていた。
何もおかしいところは見つからない。
それでも――
「……違う」
思わず、言葉が零れた。
扉の、何かが違う。
形でも、場所でもない。
もっと別の――
根本的な何かが。
ソウマは扉の前まで歩いた。
木目を見る。
取っ手を見る。
傷を見る。
記憶の中にある扉と重ねる。
――同じだ。
少なくとも、自分にはそう見える。
ならば、問題はない。
そう考えたところで、ソウマは気づいた。
「同じに見える」だけだ。
その瞬間、ソウマの指が止まった。
見える。
また、その言葉だった。
自分はずっとそれで判断している。
見えるから、ある。
同じに見えるから、同じ。
変わっていないように見えるから、変わっていない。
では、もし――
「見え方そのものが変わってた時って……どうすればいいんだ?」
ソウマは扉から手を離した。
そのまま、しばらく動かなかった。
ソウマは扉から手を離した。
指先に残った木の感触が、妙に“自分のものではない”ように思えた。
そのまま、しばらく動かなかった。
動けなかった、という方が正しい。
呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
自分の呼吸なのに、どこか遠くで誰かが息をしているような、そんな錯覚が混じる。
やがて、周囲を見渡す。
壁。
一定間隔で並ぶ柱。
左右一本ずつの燭台。
永遠に続く床。
すべて、そこにある。
――あるはずだ。
しかし今のソウマには、それらが「存在している」という事実よりも、「存在しているように認識できている」ということの方が気になっていた。
認識できている。
その言葉が、胸の奥で重く沈む。
そして、それは先ほどの疑問へ繋がった。
(自分が見たから……そうなったのか?)
馬鹿げた考えだ。
自分が扉を見た。
今も扉はそこにある。
だからといって、自分の視線が扉を存在させたことにはならない。
……はずだ。
それくらいは分かる。
しかし、それを否定する証拠もない。
「……」
ソウマは眉を寄せた。
ならば、試せばいいと思った。
自分が見たことによって何かが変化するなら、それを確かめればいい。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
試す。
その行為自体が、何か取り返しのつかないことを呼び込んでしまう。
そんな予感はしている。
しているのだが――
止まれなかった。
ソウマは扉の前から離れ、廊下の反対側に立つ。
そして、扉を見る。
見続ける。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きない。
扉は動かない。
当然、変化もない。
……はずだ。
それでも、変化が起きないことを確認するたび、胸の奥がじわじわと冷えていく。
ソウマは目を閉じた。
暗闇。
そのまま十秒待つ。
十秒が、やけに長い。
時間が止まっている世界で、十秒を数えるという行為が、どこか矛盾しているようにも思えた。
目を開ける。
扉がある。
変わっていない。
「……」
当然だ。
何も起きない。
ソウマは少しだけ肩の力を抜いた。
やはり考えすぎだったのかもしれない。
そう思った瞬間――
扉の横にある燭台が、目に入った。
一本。
二本だった燭台は、いつの間にか一本へと変化していた。
「……」
ソウマは動きを止めた。
まずは自分の記憶を疑った。
先ほど見たときは、確かに二本あった。
左側に一本。
右側に一本。
今は、左側にしかない。
『本当に?』
ソウマは目を閉じて、開いた。
左に一本。
変わらない。
廊下の反対側を見る。
そこには別の燭台が一本ある。
戻ってもう一度確認する。
一本だけなのだ。
一本、だけなのだ。
「……なんで」
声にならない声が喉の奥で震えた。
ソウマはしばらく考え、そして来た道を戻った。
角を曲がり、前の廊下へ出る。
先ほど見た場所を、もう一度確認する。
燭台は一本だった。
一本であることが、まるで“当然の事実”であるかのように。
世界の側から押し付けられているように、そこに存在していた。
「……」
それから数歩進む。
壁際に、古い絵画がある。
さっき見たものだ。
ソウマは流すように絵画を見て、足を止めた。
絵画には、古衣装を身につけた男は描かれていなかった。
描かれているのは、ソウマの脳内にいつも焼き付いている、あの構造線のある世界だった。
「――――」
ソウマは無意識のうちに、絵画へ近づいていた。
額縁に額がつくほど近づいて、絵画を見ていた。
視線を忙しなく往復させる。
何度も、何度も。
自分の頭に残っている、あの光景との、違いを探すように。
比べるように。
あるはずもない、違いを見つけるように。
ソウマの息、足、目線、体の動き、鼓動さえも早くなる。
何度も、何度も。
あのことを考えてきた。
しかし、一回も。
一度も、一度も。
あの光景も、「時間停止」という能力も、「構造線」も。
誰にも、言ったことがないのだ。
何度も。
何度も。
何度も確認する。
同じだ。
違う。
同じなのか。
違うのか。
分からない。
分からない。
分からない。
しかし、それだけは分かる。
この光景を、自分は知っている。
この光景を、自分だけが知っているはずだった。
なのに。
何故。
何故、ここに。
何故。
どうして。
どうして。
どうして。
ここに。
ここに。
ここに。
ここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここにここに――
【今回の小ネタ】
『嘘』
『嘘』は、言語の産物ではありません。
『嘘』は、認識の構造そのものに内在すると考えます。
量子力学では、粒子は観測されるまで複数の状態が重なって存在し、観測が行われた瞬間に、その重なりは一つの状態へと収束します。
この収束は、「世界はこうである」という確定を、観測者が世界へ押し付ける行為です。
しかし、その確定は本当に“真”なのでしょうか。
それとも、観測者が世界を理解するために必要とした『嘘』なのでしょうか。
変化盲は、「変わっていない」という『嘘』を脳が生成する現象です。
脳の補完は、「見えている」という『嘘』を構築する機能です。
再固定化は、「覚えている」という『嘘』を記憶に刻み直す過程です。
自己欺瞞は、「自分は自分を理解している」という『嘘』を維持するための仕組みです。
懐疑主義は、「確かめられる」という『嘘』を前提にしています。
意味飽和は、「言葉は意味を持ち続ける」という『嘘』が崩壊する瞬間です。
ソライティーズ・パラドックスは、「境界は存在する」という『嘘』を暴く構造です。
『嘘』は、世界を騙すために存在するのではありません。
『嘘』は、世界を成立させるために存在するのです。
認識は、世界を正しく写す装置ではありません。
認識は、世界を“そうであるように見せる”ための調整機構でなのです。
その調整の過程で、脳は必ず『嘘』をつきます。
『嘘』は、世界の欠損を埋めるために生まれ。
『嘘』は、認識の穴を塞ぐために生まれ。
『嘘』は、存在の不連続を滑らかにするために生まれます。
そして、『嘘』は静かに、しかし確実に、世界の側へと滲み出します。
扉がそこにある。
燭台が一本になっている。
それらは、世界が変わったのではなく、認識が変わったのでもなく、ただ脳が“そうである”という『嘘』をついた結果である可能性を排除できません。
『嘘』は、世界を形作る。
『嘘』は、認識を形作る。
『嘘』は、存在を形作る。
世界が嘘をついたのか。
認識が嘘をついたのか。
それとも、嘘という概念そのものが世界を構築しているのか。
その答えは、どこにもありません。




