未帰の証
投稿遅れました。
ごめんなさい。
歩いていた。
ソウマは、ただ王城の中を歩いていた。
足元には、もう見慣れ始めた石床がある。左右には高い壁があり、その壁面には一定の間隔で柱が並んでいる。燭台には火が灯っているが、その炎は微動だにしない。
そんなことに驚くはずもない。疑うはずもなく、この世界は停止している。
風はない。音もない。炎は燃えているように見えて、実際には燃えてすらいない。
それでも、ソウマは歩いた。
足を出して、床を踏み、次の一歩を出す。
その繰り返しだった。
以前なら、そんなことを意識することなんてない。
この空間へ入ってから、ソウマはずっと周囲を見てきた。
柱を見る。
床を見る。
壁を見る。
扉を見る。
その先に何があるのかを確かめ、異常がないかを探し、何かを見つければ、それが何を意味するのかを考える。
そうやってここまで来た。
だから、今回も同じようにすればいいと思っていた。
柱を見る。
何もない。
床を見る。
何もない。
壁を見る。
何もない。
この空間にとっての「当たり前」が、変わらずあった。
――しかし。
ソウマは、そこで足を止めた。
何が引っ掛かったのか、自分でも分からなかった。
ただ、何となく。
何となく、今までとは違う気がした。
「……」
目の前にある柱を見た。
灰色の石でできた、何の変哲もない柱だ。表面には細かな傷がいくつかある。右側の下部に、小さな欠け。その少し上に、縦へ走る細い亀裂。
ソウマはそれを見つめた。
見た。
確かに見た。
その事実を、頭の中で確認する。
それから、ゆっくりと視線を外した。
廊下の先を見る。
何もない。
数秒だけ、そのまま歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
そして、振り返った。
柱はそこにあった。
同じ位置に、同じ形で。同じ傷を残したまま。
「……」
ソウマは何も言わなかった。
当然だ。
柱がある。
それだけのことだ。
しかし、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
自分は、何を確かめようとした?
柱があることか、
それとも――
自分が見たものと、今見えているものが同じであることか。
考えたところで、答えは出なかった。
ソウマは分からないことを延々と考えても意味はない、と思い、再び前を向いた。
歩く。
ただ、歩く。
しばらくして、また立ち止まった。
今度は壁だった。
目の前にある壁を見つめる。
何の変哲もない壁だ。石の継ぎ目があり、その一つに細い黒ずみがある。
ソウマはそれを覚えた。
黒ずみと、その位置。その大きさ。
周囲にある石の形。
それらを覚えようとした。
そして、目を閉じた。
暗闇。
何も見えない。
当然だった。
ゆっくりと目を開ける。
壁がある。
黒ずみもある。
変わっていない。
ソウマは息を吐いた。
――何をしている。
自分でもそう思った。
こんなことをして、何になる。
壁が変わっていないことを確認して、それで何が分かる?
しかし、その疑問を抱いた瞬間、別の疑問が浮かんだ。
変わっていないと、どうして言える?
ソウマの眉が僅かに動いた。
(今、確かに同じものを見た。それは分かる。でも、それは「見たものが同じだった」というだけだ)
(目を閉じていた間も、この壁が存在していたと、考えるのは簡単だ。今までだってそうだった)
(見ていない場所にも、物はある。自分が目を逸らしても、世界はそのまま続いている。それが普通だ。それが当たり前だ)
――では。
「この城では……?」
ソウマはゆっくりと周囲を見た。
長い廊下。
並んだ柱。
閉じた扉。
止まった炎。
どれも、そこにある。
見えている。
だから、ある。
見えている=存在している。
そんな考えが、今まで疑うことすらなかった前提が、妙に薄く感じられた。
「……馬鹿らしい」
声に出してみても、返事はない。
当然だ。
ここには誰もいない。
少なくとも、ソウマが確認できる範囲には。
その自分で言った言葉に、自分で引っ掛かった。
確認できる範囲には。
そんな言葉は、本当に自分が思ったことなのか。
まるで、自分が見えていない範囲には、誰かがいるかのような物言いだ。
その向こうに何があるのかを、自分は知らない。
少なくとも、それは事実。
ただ、ソウマが見えない範囲なら――?
そこまで考えて、ソウマは思考を切った。
(考えても分からないことは、考えない)
「見える範囲」に関してはもう考えない。その前のことなら、考えても良い。いや、考えるべきだ。考えなければ、分からない。
「知らない。」
知らないというだけなら、今までだってそうだった。
王城に入ったばかりの頃から、知らないことはいくらでもあった。
それでも歩けた。
知らないものを見つけて、知ろうとした。
だが今は――
知ろうとするために必要な「見る」という行為そのものが、信用できなくなり始めている。
ソウマは視線を落とした。
自分の足が見える。
右足。
左足。
その先に床が続いている。
ならば、床はある。
そう思っても、結局は同じだった。
自分が見ている。
だから認識している。
認識している。
だから、存在していると判断している。
「その間に、本当に何も挟まっていないのか……?」
ソウマはゆっくりと顔を上げた。
廊下の先に、一本の柱がある。
さっきのものとは違う。
今度は見ず、視線を逸らしたままその横を通り過ぎた。
数歩進んでも、振り返らない。
そのまま歩く。
柱が、
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
そこで、ソウマは足を止めて振り返った。
柱がある。
当然のことだ。
しかし、ソウマは見つめたまま動かなかった。
さっきまでなら、何も思わなかっただろう。
今は違う。
自分が見ていなかった時間を、証明できない。
柱がそこにあったことを証明するものがない。
ならば――
「――――馬鹿だな、俺は。それもどうしようもない、馬鹿だ」
ソウマは小さく息を吐いた。
そんなことを考え始めたら、何も信じられなくなる。
床も。
壁も。
自分自身さえも。
――自分自身。
その言葉が、妙に重く残った。
ソウマは目を閉じた。
ただの、暗闇。
何もない。存在していない。
いや。
何もないように見える。
その言葉に、自分で嫌になる。
見える。
見えない。
存在する。
存在しない。
聞こえる。
聞こえない。
感じる。
感じない。
触れる。
触れない。
可能と、不可能。
その境界が、今まで思っていたよりずっと曖昧だったことに気づいてしまった。
目を開けると、王城がある。
何も変わっていない。
だからこそ、ソウマは一歩だけ後退した。
――何も変わっていない。
本当に?
自分が変化に気づいていないだけじゃないのか?
そんな疑念が浮かぶ。
だが、それを確かめる方法がない。
確かめようとすれば、また見るしかない。
見れば、その瞬間の世界しか分からない。
その前も。
その後も。
自分が見ていない時間のことは、結局分からない。
「……観測」
知らず、口から言葉が漏れた。
その言葉が、静かな廊下に落ちる。
観測。
今まで何度もしてきた、その行為。
異常を探すため。
危険を見つけるため。
生き残るため。
目の前にあるものを見て、そこから世界を判断してきた。
だが。
もし、見ること自体が世界との関係を変えているのだとしたら。
もし、自分が見たものによって「そうだった」と認識しているだけなのだとしたら。
観測は、世界を知るための行為ではなくなる。
――世界を、自分の認識に合わせて切り取る行為になる。
「……違う」
ソウマは首を振った。
そこまで考える必要はない。
今はまだ、何も起きていない。
証拠もない。
ただ自分が考えすぎているだけだ。
そう結論づけようとして――
ふと、壁に掛けられた絵画が目に入った。
人物画だった。
王城に入ってから何度か見たものだ。
古い衣装を身につけた男が描かれているもの。
ソウマは、その絵の前を通り過ぎた。
数歩進む。
そして、止まった。
何かがおかしい。
振り返る。
絵画は、そこにあった。
しかし。
「……?」
ソウマは戻った。
絵の前まで歩く。
額縁に触れはしない。
ただ、見る。
先ほどまで壁の中央にあったはずの絵が、ほんの僅かに左へ寄っている。
自分の気のせいかもしれない。
ソウマには分からなかった。
本当に動いたのか。
それとも。
最初から、この位置だったのか。
ソウマは絵から目を離した。
廊下を見る。
柱を見る。
床を見る。
壁を見る。
もう一度、絵を見る。
位置は同じだ。
当然だ。
動いていない。
ソウマはしばらく黙って、その絵を見続けていた。
やがて、ソウマは、絵の前から離れた。
今度は振り返らない。
確認しない。
確かめない。
ただ歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
そのまま、いつまでも廊下を進んでいく。
やがて、ソウマは立ち止まった。
背後を振り返りたい、という気持ちが、ソウマの中で次第に膨らんでいるのだ。
だが、振り返れば確認してしまう。
確認すれば、また考える。
考えれば、疑う。
疑えば、何もかもが分からなくなる。
だから振り返らない。
そう思った。
――その、瞬間だった。
背後から、何者かの視線を感じた。
「――――」
ソウマの足が止まった。
振り返らない。
気配でもない。
音でもない。
殺気でもない。
ただ、自分の背中に視線がある。
そんな感覚だけがある。
ソウマはゆっくりと手を握った。
自分以外の誰かがいる。
そう考えれば簡単だった。
だが、気配は感じない。
足音もない。
呼吸の音もない。
何も、ない。
しかし、見られている。
ソウマは、ゆっくりと振り返った。
誰もいない。
長い廊下が続いている。
変わらない、
柱。
壁。
床。
止まってしまった炎。
そして、少し離れた場所に、先ほどの絵画がある。
ソウマはそこまで歩いて戻り、その絵画を再び見た。
何もない。
視線を逸らした。
何もない。
もう一度、見る。
やはり何もない。
それでも――
胸の奥に残った感覚だけは、消えなかった。
「見られている」
ソウマは一歩、後ろへ下がった。
そこでソウマが初めて辿り着いたのは、この今までの前提を根本から否定する考え。
『ソウマ→王城』
自分がずっと、王城を見ていたと思っていた。
柱を。
壁を。
床を。
扉を。
この場所にあるものを、一つずつ観測してきた。
だが。
もし、それが逆だったなら。
もし、自分が見ているのではなく。
自分が見ているという事実そのものを、何かが見ているのだとしたら。
その考えを否定する材料は、どこにもない。
肯定する材料も、どこにもない。
だからソウマは、ただ立っていた。
停止した王城の中で。
初めて、自分の視線を信用できないまま。
そして――そのときだけは、目を逸らすことができなかった。
『 ???
⇩
ソウマ→王城 』
【今回の小ネタ】
「体験談」
書き終えたあと、机の前の壁に貼った、構成を書き記した紙が一枚だけ、いつまでも「戻ってこない」気がしていました。
そこにあることは間違ってないはずです。
しかしその紙は、そこに留まっているように見えませんでした。
触れても、動いていない。
エアコンの風でもない。
それでも、位置がわずかにずれているような、ずれていないような、そんな曖昧な気配だけが残っていました。
もちろん、気のせいと言い切ることはできます。
しかし、見ていない間のことを証明できないのは、ソウマも私も同じようです。
物が動いたのか、認識が揺れたのか、それとも「揺れたように見える」という事実だけが、静かに残ったのか。
そのどれでもよかったですし、どれでもなくてもよかった。
帰るべき認識の場所が、どこにも定まらないまま、ただ揺れている。
帰らないものには、帰らない理由がある。
その理由がどこにあるのかを探す旅の途中に、この章は置かれています。




