◇◇という前提
「……」
ソウマは、目を細めた。
何かがおかしい。
止まっている。
確かに、時間は止まっている。
落下していた身体も。
崩れた床も。
空中へ舞った石片も。
砕けた石の一片さえ、落ちる途中の形を保ったまま、そこに留まっている。
音がない。
風もない。
何かが崩れ続けるはずの気配すらない。
いつもの停止◇◇。
そう判断しかけて、ソウマはふと上を見た。
さっきまで自分が立っていた廊下。
そこに空いた穴。
その周囲の床。
壁。
扉。
柱。
――全てが、止まっている。
当然だ。
この停止は、ソウマによって時間が止められたのだから。
今まで何度も見てきた光景だ。動いているものが動きを失い、落ちているものが落下をやめ、◇◇そのものが一枚の絵のように固定される。
ソウマはゆっくりと視線を動かした。
廊下を見る。
自分がいた場所を見る。
そして、落ちてきた方向を見る。
視線だけを動かす。
首を動かす。
身体を捻る。
それだけの動作なのに、今までとは違う何かが見えてくる。
壁の位置が、妙に遠い。
いや、遠いのではない。
向きがおかしい。
さっきまで、廊下の左右にあったはずの壁。
それが今は、巨大な一枚の構造物として、自分の落下方向に沿って伸びている。
「……何だ、これ」
ソウマは宙に浮いたまま、壁へ近づいた。
壁そのものが変形しているわけではない。
石の表面も。
継ぎ目も。
崩れかけた部分も。
見慣れた王城の壁と、何一つ変わらない。
だからこそ、おかしい。
壁は壁として存在している。
なのに、その壁が存在している向きだけが、ソウマの知っている王城とは噛み合っていない。
触れる。
当たり前に硬い。
ただの石だ。
指先から伝わってくる感触に、幻覚のような曖昧さはない。
確かな質感がある。
冷たく、ざらついていて、長い年月を経た石材特有の微かな凹凸まで感じ取れる。
しかし、その隙間から見えた、壁だと思っていたものの裏側には――。
「……意味がわかんねぇ」
先ほどの廊下ではない、別の廊下があった。
否。
もはや廊下と呼べるものではない。
廊下に見える構造物が、もう一つ。
そのさらに向こうにも。
さらに、その向こうにも。
幾重にも重なっている。
ソウマは視線を奥へ向けた。
すると、さっき見えていた廊下のさらに向こう側に、また別の壁が見えた。
その壁の向こうには、また別の床がある。
床の向こうには柱があり、その柱の向こうには扉がある。
それぞれが別々の場所にあるはずなのに、空間として切り離されていない。
王城の内部が、一つの構造物を複製し、貼り付け、巨大な構造物を構成しているように重なっている。
まるで、王城そのものを一枚ずつ剥がし、それを本来なら存在しない方向へ並べ直したようだった。
ソウマは息を呑んだ。
自分は、ただ落ちているだけではなかった。
少なくとも、それだけではない。
落下しているという★★そのものが、正しいのか。
その疑問が、遅れて浮かび上がった。
足場から離れた。
穴へ落ちた。
重力に従って下へ向かっている。
それは確かだった。
だが、「下」とは何だ。
自分が今まで下だと思っていた方向は、本当に下なのか。
王城の床に対して垂直な方向。
それをソウマは無意識に「下」と呼んでいた。
しかし、もし床そのものの配置が意味を失っているのなら。
下という言葉もまた、意味を失う。
ソウマは無意識に眉を寄せた。
王城側が、王城の何かを支配し、異常を発生させている。
そんな一見不可解な見解がソウマに浮かんだ。
しかし、今まで遭遇してきた異常を考えると、そうとしか考えられない。
★★が狂う。
存在していたはずのものが消える。
存在しないはずのものが現れる。
空間そのものが、知っている形から外れていく。
その一つ一つを別々の現象として考えれば、どれも理解できない。
だが、それらが同じ原因から生じているのだとすれば。
話は変わる。
王城そのものが、何かによって干渉されている。
その干渉によって、空間や★★の境界が崩れている。
そう考えれば、目の前の光景にも一応の筋は通る。
しかし、仮に支配をしたとして、意図も容易く異常を発生できるものなのだろうか。
そもそも「支配」という言葉自体が正しいのか。
何かが王城を操っているのではなく、王城そのものに最初からこういう性質があったとしたら。
いや。
それなら、今まで見てきたものは何だった。
しかし、現にソウマの能力は時間静止であり、一見理に適っていないことも存在する可能性もゼロではない。
自分自身の能力だって、まともな理屈では説明できない。
死ぬ寸前だけ時間が止まる。
その条件も。
停止した◇◇で自分だけが動けることも。
そして、その力が何故自分に与えられているのかも。
ならば、◇◇の側に理解できない現象が存在したとしても、不思議ではない。
しかし、この王城の異常の数は多すぎる。
しかし、一つなら偶然で済ませられ、二つでもまだ別々の原因を考えられる。
しかし、これだけ重なれば、何か一つの根に繋がっていると考えた方が自然だった。
しかし、一つの歯車がズレた時、必然的に全てがズレていくように、連鎖的に発生することも考えられる。
しかし、それは◇◇が全て繋がっていると考えた場合だけだ。
しかし、実際一つの大きな空間なのである。
しかし、それが関係するとは考えづらい。
しかし、そう考えた方がこの◇◇で遭遇した異常の説明はつくような気がしていた。
しかし。
しかし。
しかし……。
思考が同じ場所へ戻ってくる。
否定して。
また否定して。
その否定をさらに否定して。
考えれば考えるほど、答えから遠ざかっていく。
逆説の逆説。
否定しては否定し、最終的な答えに辿り着けない。
そのループの繰り返し。
ソウマはそこで、考えることを一度やめた。
これ以上考えても、今は何も出ない。
何かを理解するためには、まず理解できる場所に立たなければならない。
だが、今の自分は立ってすらいない。
宙に浮いている。
否。
それすらも、正確ではないのかもしれない。
ソウマは、さっきまで自分が歩いていた場所を見上げた。
あの廊下も。
あの扉も。
あの壁も。
全部、繋がっている。
しかし、繋がっているようには見えない。
「……そういうことか」
ソウマの言葉が漏れた。
まだ、完全には理解できない。
だが、一つだけ分かったことがある。
自分は今まで、王城を一つの「空間」だと捉えていた。
歩けば進む。
曲がれば方向が変わる。
扉があれば、その向こうへ行ける。
そんな、ごく普通の空間として。
だが、もしそれ自体が違っていたら。
廊下というものが、廊下として存在しているのではなく。
壁というものが、壁として存在しているのではなく。
自分がそう★★しているから、そのように見えていただけなら。
では――。
今、自分が立っている場所は、何なのか。
ソウマは答えを出せなかった。
出せない。
今はそれでいいのだ。
答えが出せてしまうと、逆に深く考えてしまう。
分からないなら、分からないままでいい。
少なくとも、今は。
時間は止まっているが、自分は動ける。
ならば、見る。
考える。
行動する。
そして、生き抜く。
そうする他ないのだ。
ソウマは、少し頭が軽くなったように感じ始めていた。
答えを探すことを、一度手放したからかもしれない。
ソウマは周囲を見渡した。
上。
下。
左右。
どこを見ても、王城の一部がある。
しかし、それはもはや「王城の一部」という言葉だけでは収まりきらない。
壁の向こうに別の廊下がある。
その廊下の向こうに別の部屋がある。
さらにその向こうには、また別の構造が重なっている。
視線を動かすたびに、◇◇の奥行きが増えていく。
遠くなっているのではなく、増えている。
その違いが、ソウマには何より気味が悪かった。
壁の向こうの廊下には足場があるが、到底辿り着けそうにはない。
距離の問題だけではない。
その廊下へ至るための道そのものが、どこにも存在していない。
視認できる隙間は狭く、手を通すことすら難しく見える。
身体を押し込む余地もない。
ならば、あそこへ行くことはできない。
少なくとも、今の状態では。
ソウマはもう一度、周囲を見た。
どこにも足場はない。
手を掛けられる場所もない。
身体を支えるものもない。
ただ、上に一つ。
落下した亀裂が、残っている。
先ほど見たよりも近いような――。
ソウマは目を細めた。
距離を測る。
感覚だけではない。
周囲の壁との位置関係。
自分が落下してきた軌道。
亀裂の大きさ。
それらを頭の中で重ねる。
そして――
「――は?」
声が漏れた。
明らかに近い。
近すぎる。
先ほどまでなら、到底届かない場所だった。
それが今は、もはや手を伸ばせば届いてしまうのではないかというほど、亀裂は近づいている。
否。
近づいたのは、亀裂なのか。
それともソウマの方が、そこへ近づいているのか。
その区別すらつかなかった。
理覚が告げる。
戻れる。
あそこへ戻ればいい。
理由はない。
根拠もない。
ただ、ここでずっと止まっているわけにもいかない。
「……行くしかないか」
ソウマは身体を捻った。
空中で姿勢を変える。
わずかな動きでも、身体の感覚が変わる。
足場はない。
手を伸ばしても、掴むものはない。
それでも、足が動けば、再び◇◇が動き出す。
その事実を知っている。
知っているからこそ、慎重になった。
停止◇◇では、時間が止まっている。
しかし、自分の身体まで止まっているわけではない。
だからこそ、自分が何かに触れた瞬間。
自分が何かを動かした瞬間。
この静寂は終わる。
その先に何が待っているのかは分からない。
落下が再開するのか。
別の異常が起きるのか。
あるいは、何も起こらないのか。
分からない。
それでも身体を動かす。
手を亀裂に向かって伸ばす。
――届かない。
指先のすぐ先にあるように見えるのに、触れられない。
もう一度、伸ばす。
肩を前へ。
腕を限界まで伸ばす。
願いを、祈りをのせた指先は空を切った。
――届かない。
ソウマは歯を食いしばった。
身体を捻る。
角度を変える。
今度は腕だけではなく、身体そのものを亀裂へ向ける。
さらに身体を捻る。
肩が痛み、身体中の関節が悲鳴を叫ぶ。
それでも伸ばす。
届かせる。
何度も失敗する。
そのたびに指先が虚空を掴む。
それでもやめない。
ここで止まれば、本当に何も変わらない。
時間が止まっているからこそ、できることがある。
誰にも邪魔されない。
何にも急かされない。
◇◇が動き出すまでの、ほんの僅かな時間。
死ぬ寸前まで追い込まれたことで与えられた、この僅かで、永久の時間を。
この◇◇の中で、自分だけが持っている時間を。
無駄には、しない。
指先が、石の縁を掠めた。
ソウマは身体をさらに伸ばした。
指先が、もう一度触れる。
今度は確かに触れた。
ざらついた石の感触。
その感触だけが、停止した◇◇の中で確かな現実として指先に残る。
ソウマは手を開いた。
指を掛ける。
一つ。
二つ。
石の縁を掴む。
――掴んだ。
その瞬間。
止まっていた◇◇が、動き出した。




