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観測の書庫

 

 半開きの扉は、廊下の静寂へ溶け込むようにそこにあった。

 ソウマは立ち止まる。

 剣を握る右手へ、自然と力が入る。

 開いている。

 ただ、それだけだった。

 なぜ開いているのか。

 誰が開けたのか。

 いつから開いていたのか。


 ――考えない。


 胸の内で、自分へ言い聞かせる。


(事実だけを見ろ)


 この城は、理由を探そうとした瞬間、思考へ霧を流し込む。

 だから今は違う。

 開いている。

 それだけが事実だった。

 ソウマはゆっくりと歩き出す。

 一歩。

 また一歩。

 白い扉との距離が少しずつ縮まる。

 途中、何度か視界の端で柱が揺れたような気がした。

 しかし振り向かない。

 確かめようともしない。

 今は扉だけを見る。

 それだけを守り続けた。

 やがて扉の前へ辿り着く。

 厚い木材で作られた重厚な扉だった。

 金色の取っ手。

 細かな彫刻。

 王家の紋章らしき意匠。

 隙間の向こうは薄暗く、奥までは見えない。


「……」


 ソウマは耳を澄ます。

 何も聞こえない。

 当然だ。

 この世界には音が存在しない。

 だから確認できるのは視覚だけ。

 いや。


(違う)


 視覚も信用するな。

 見えるものではなく、変化を見る。

 そう考え直す。

 ソウマは扉へ視線を固定したまま、ゆっくりと横へ一歩動いた。

 隙間から見える景色が少しだけ変わる。

 暗い室内。

 本棚。

 机。

 椅子。

 窓。

 止まった埃。

 その順番だけを頭へ刻む。

 もう一歩歩くと、景色が少し広がった。

 本棚は三つ。

 机は一つ。

 椅子は二脚。

 変わらない。

 さらに一歩。

 まだ変わらない。


(……)


 ソウマは初めて、小さく息を吐いた。

 ここへ来てから初めてだった。

 確認した情報が、消えていない。

 思い返しても曖昧にならない。

 本棚は三つ。

 机は一つ。

 椅子は二脚。

 覚えている。

 思い出せる。

 それだけで胸の奥の緊張が、ほんの僅かに緩んだ。


「……部屋の中は」


 認識が狂わない。

 そう結論づけようとして、口を閉じる。


(違う)


 まだ早い。

 法則は、一度では法則にならない。

 偶然かもしれない。

 自分が勘違いしているだけかもしれない。

 だから決めつけない。

 言えるのは一つだ。

 今は記憶できている。

 その事実だけを胸へ刻む。

 ソウマは扉へ手を伸ばした。

 冷たい金属が掌へ触れる。

 そのままゆっくりと力を込める。

 重い扉は抵抗もなく静かに開き、薄暗い部屋の全貌が少しずつ姿を現した。


 そこは王族の私室でも謁見の間でもなかった。

 壁一面を埋め尽くす本棚。

 中央へ置かれた大きな机。

 書類が宙へ舞ったまま静止し、机上の羽根ペンから零れた一滴の黒いインクだけが、空中へ浮かび続けている。

 窓際には、一人の老人が座っていた。

 書物を開いた姿勢のまま。

 眼鏡へ手を添えたまま。

 その時間だけが永遠に切り取られている。


「……書庫か」


 その言葉を口にした瞬間だった。

 視界の端に映る、本棚と本棚の隙間を何かが横切った。


「――!」


 ソウマは反射的に剣を構えた。

 視線を向ける。

 本棚と本棚の間。

 誰もいない。

 積み上げられた書物。

 止まった燭台。

 空中で静止した紙片。

 それだけだった。


「……」


 見間違い。


 そう結論付けようとして、ソウマは思考を止める。


(……違う、決めつけるんじゃねぇ。見えた。それも事実だが、いなかった。それも事実だ……)


 矛盾していても、この空間では両方とも受け入れなければならない。

 ソウマはゆっくりと剣先を下ろした。

 部屋へ一歩踏み込む。

 靴底が赤い絨毯を踏む。

 音はない。

 停止した空間は、書庫の中でも変わらなかった。

 壁一面の本棚には、革張りの分厚い書物が隙間なく並んでいる。

 題名は読めない。

 しかし、形だけならーー?


「……っ。危ねぇ」


 視線を逸らす。


 (覚えるな。理解しようとするな)


 ソウマは本棚ではなく、部屋全体を見る。

 中央の机。

 椅子が二脚。

 窓際の老人。

 静止した羽根ペン。

 宙へ浮いた一滴のインク。


(変わらない)


 さっき見た配置と一致している。

 少なくとも、この部屋へ入ってから認識は保てている。

 その時だった。

 窓際へ座る老人へ視線が止まる。


「……」


 老人は本を開いたまま停止している。

 皺だらけの手。

 白く長い髭。

 豪奢ではないが上質な衣服。

 王族というより、学者のようだった。

 ソウマは老人の前まで歩く。

 当然、動かない。

 呼吸もない。

 瞬きもない。

 時間だけが、その人間を閉じ込めていた。

 ソウマは老人の視線の先が気になっていた。

 開かれた本。

 ページは途中で止まっている。

 そこには細かな文字がびっしりと並んでいた。


「……」


 覚えない。

 そう決めていた。

 それでも、一行だけなら。

 そんな誘惑が頭をよぎる。

 ソウマは無意識に視線を落とした。

 一文字だけ、覚える。

 その瞬間。


「――っ!」


 激しい頭痛が走り、視界が白く滲んだ。

 覚えた。

 見た。

 そのはずだった。

 どういう形で、どういう並びだったのか、まったく思い出せない。文字そのものが最初から存在しなかったかのように、記憶が切り落とされ、見たという事実さえ消し飛んでいた。


「はぁ……っ」


 額を押さえ、数歩後退する。

 浅い呼吸を繰り返す。


(駄目だな)


 文字は危険だ。

 覚えようとした瞬間、認識そのものへ干渉される。

 ソウマは目を閉じる。

 ゆっくりと呼吸を整え、再び部屋を見渡した。

 老人。

 本棚。

 机。

 椅子。

 配置は変わらない。

 しかし。


「……?」


 ほんの僅かな違和感が胸を掠めた。

 机の上に、さっきまで宙へ浮いていたインク。

 黒い雫がーー


「……二滴?」


 思わず呟く。

 一滴だった気もする。

 二滴だった気もする。

 思い返そうとした瞬間、その記憶はまた曖昧になる。


「……違う」


 ソウマは首を横へ振った。

 比較するな。

 今、この瞬間だけを見る。

 その時、部屋の一番奥。

 本棚の陰から、白い衣の裾が静かに引っ込んだ。


「……!」


 ソウマの身体が反射的に動いた。

 本棚の陰へ向かって駆ける。

 視線は逸らさない。

 見失えば、もう二度と辿れない。

 そんな直感だけが、身体を突き動かしていた。

 本棚を回り込み、辺りを見回す。

 しかし、誰もいない。

 あるのは壁だけだった。


「いたよな……」


 確かに見た。

 白い衣の裾を、ほんの一瞬だけ見た。

 しかし、そう思った直後には、その"白い"という確信すら揺らぎ始める。


(黒だったか……?)


 灰色?

 そもそも衣?


「……くそ」


 ソウマは奥歯を噛み締めた。

 まただ。

 思い出そうとするほど、記憶が形を失っていく。だから追うことをやめ、部屋全体を見渡す。

 本棚。

 机。

 老人。

 窓。

 止まった埃。

 変わらない。

 少なくとも、自分が認識できる範囲では。


(法則を探せ)


 胸の内で繰り返す。

 恐怖ではなく、観察。

 理解ではなく、記録。

 ソウマは静かに部屋を歩き始めた。

 本棚へ近付く。

 革張りの背表紙が整然と並んでいる。

 文字は見ない。視界に入れず、背表紙の色だけを見る。

 黒。

 茶。

 深緑。

 紺。

 その配列だけを頭へ刻む。

 五歩進む。

 振り返る。

 配列は変わっていない。


(……保たれている)


 少なくとも、この部屋の中では、外ほど激しく認識は乱れない。

 そう考えた、その時だった。

 ふと、窓際の老人が視界へ入った。


「……?」


 さっきまで本を読んでいた。

 そう思っている。

 だが。


(本は……閉じていた?)


 開いていた。

 いや、閉じていた。


「開いてたよな……」


 確かめようとして老人を見る。

 開いている。

 間違いない。

 だが、その瞬間。


「……」


 自分が何を確認しに老人を見たのか、それが頭から抜け落ちた。

 思考が途中で途切れ、理由が消えて結果だけが残る。


「……駄目だ」


 ソウマはゆっくり目を閉じた。

 比較するな。

 過去と現在を重ねた瞬間、この城はそこへ入り込んでくる。

 ならば、今だけを見る。

 そう決めて目を開く。

 老人は本を開いている。

 それが今の事実だ。

 それ以上はいらない。

 ソウマは踵を返し、部屋の出口へ向かった。

 この空間の法則は一つ見えた。

 比較しようとすると、認識が崩れる。

 それが分かるだけで十分だった。

 扉の前まで戻る。

 廊下は静かだった。

 白い柱。

 赤い絨毯。

 止まった燭台。

 何も変わらない。

 ソウマは書庫を最後に一度だけ振り返る。


「……」


 老人。

 机。

 本棚。

 そこまでは見えた。

 その奥。

 本棚のさらに奥。

 暗がりの中で、誰かがこちらを向いて立っている。

 そう認識してしまった。

 顔は見えない。

 輪郭も曖昧だった。

 それでも、見られている。

 その感覚だけは、嫌というほど鮮明だった。

 ソウマは息を止める。

 瞬きすら忘れ、その暗がりを見つめ続けた。


 ソウマは瞬きすら忘れ、その暗がりを見つめ続けた。

 しかし、本当にいたのか。

 その認識だけが、指の隙間から零れ落ちる砂のように崩れていく。


「……」


 ソウマは動かない。

 いや、動けなかった。

 暗がりの奥。

 誰かがいる。

 そう認識している。

 それでも、その姿を言葉へ変えようとした瞬間、思考は白く途切れた。


(駄目だ)


 説明しようとするな。

 理解しようとするな。

 そう自分へ言い聞かせる。

 それでも、本能は"何を見ているのか"を知ろうとする衝動を、ソウマは歯を食いしばって押し殺した。

 観察する。

 見えている事実だけを拾う。

 するべきことはそれだけだ。

 暗い。

 立っている。

 こちらを向いている。

 それ以上は考えない。

 その時だった。

 視界の端で、老人の指先が揺れたように見えた。


「……!」


 反射的に目を向ける。

 老人は本を開いたまま、微動だにしていない。

 見間違いと片付けることもできた。

 しかし、それも判断しない。

 揺れたように見えた。

 それだけを事実として受け止める。

 再び暗がりへ視線を戻す。


「……まあそうだよな」


 誰もいなかった。

 さっきまで感じていた視線も、圧迫感も全て、暗闇の中へ溶けるように消えている。

 ソウマはゆっくりと息を吐いた。

 安堵でも、恐怖でもない。

 ただ一つ、確信だけが残っていた。


(この城には、何かが動いている)


 それだけは間違いない。

 見えても、説明できない。

 思い出そうとすれば、記憶から零れ落ちる。

 それでも存在だけは消えない。

 まるでこの"王城"という空間そのものが、その存在を認識することを拒絶しているかのようだった。

 ソウマは静かに書庫を後にし、重い扉を抜け再び赤い絨毯の廊下へ戻った。

 止まった燭台。

 白い柱。

 静止した衛兵。

 変わったものは、一つだけだった。

 ――ソウマの見方だ。

 もう答えは探さない。

 法則だけを見る。

 その意志を胸に、一歩を踏み出した時だった。

 廊下の先の、これまで閉ざされていたはずの大扉がゆっくりと開いていることに気付く。


「……?」


 開いていても、何も考えない。

 比較しない。

 ただ、今開いている。

 その事実を受け入れる。

 ソウマは剣を握り直し、その扉へ向かって歩き始めた。

 白い廊下の奥。

 開かれた扉の向こうからは、何も見えない。

 何も聞こえない。

 それでも、そこには何かが待っている。

 ソウマは立ち止まらなかった。

 この城が認識を狂わせるのなら、その狂気ごと踏み越えて進むしかない。

 一歩。

 また一歩。

 やがて、ソウマは暗闇の向こうへ消えていった。


【今回の小ネタ】

人間の脳は、「矛盾した情報」をそのまま抱え続けることが苦手だと言われています。

この状態は心理学で「認知的不協和(にんちてきふきょうわ)」と呼ばれています。

例えば、「この人は絶対に優しい」と信じていた相手に冷たくされたとします。

すると脳は、「本当は優しくなかった」「今日は機嫌が悪かっただけ」「自分が何か悪いことをしたのかもしれない」と、どれか一つの説明を作ろうとします。

それは矛盾した二つの情報を同時に抱え続けることが、大きな精神的負担になるからです。

実は、この働きは日常のあらゆる場面で起きています。

買ったばかりの商品を「やっぱり良い買い物だった」と思いたくなったり、一度信じた情報をなかなか疑えなかったりするのも、その一例です。

私たちは、必ずしも「正しい答え」を選んでいるわけではなく、自分の中で矛盾が少ない答えを無意識に選び続けています。

しかし、未知の世界では、その性質が弱点になることがあります。

分からないものへ無理に意味を与えたり、説明できない出来事へ安易な理由を付けたりすると、本当に見るべき事実を見失ってしまうからです。

今回のソウマは、それと正反対の選択をしました。

「見えた」

「でも、いなかった」

その二つは矛盾しています。

普通なら、どちらかを間違いだと決めつけたくなるでしょう。

ですがソウマは、あえて結論を出しませんでした。

「見えた」という事実も、「そこにはいなかった」という事実も、そのまま受け入れています。

矛盾を消そうとせず、事実だけを積み重ねる。

科学でも、未知の現象を調べるときは、先に都合の良い説明を作るのではなく、まず観察を積み重ねることが大切だとされています。

「分からない」を認めることは、「理解する」ための第一歩なのです。

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