忘却の回廊
短めです。
重い扉が、ゆっくりと閉じ切った。
白い前庭は完全に遮断され、見えなくなる。
厚い木材と鉄で補強された大扉は、外界との境界そのもののように静かに佇んでいた。
ソウマはその場へ膝をつく。
肩で息をする。
肺は焼けるように熱く、心臓は今にも胸を破りそうなほど激しく脈打っている。
全身が汗で濡れていた。
「助かった……」
掠れた声が漏れる。
ようやく。
ようやく逃げ切れた。
あの靴音から。
あの理解できない存在から。
しばらく、そのまま動かなかった。
乱れた鼓動を落ち着かせると、剣を握る右手から少しずつ力が抜けていった。
静かだった。
何も聞こえない。
自分の呼吸も、鼓動も、衣服が擦れる音も。
この空間では、それが当たり前だった。
「……」
ソウマはゆっくり顔を上げる。
王城の内部。
高い天井。
赤い絨毯が真っ直ぐ奥まで続き、その左右へ白い大理石の柱が等間隔に並び、上にある豪奢な燭台は炎が灯ったまま静止し、空中には細かな埃が幾つも浮かび続けていた。
世界は、ここでも止まっている。
少し離れた場所には、近衛兵が一人いて、剣へ手を掛けた姿勢のまま停止している。
視線は正面。
瞬きもなく、呼吸もなく。
まるで生きた彫刻のような立ち姿だった。
さらに奥。
侍女が盆を持ったまま立っている。
銀の皿へ載せられた茶器は、揺れることなく、零れることなく、空間へ固定されていた。
「……誰も動かない」
当然だった。
王城へ入れば変わるなどという保証は、最初からどこにも無かったが、それでも無意識のどこかで期待していた。
ここだけは違うと。
ここへ辿り着けば終わると。
ソウマは苦く息を吐く。
(勝手に安心しただけ、か)
理由は何もない。
城へ入っただけで、安全だと思い込んだ。
何も解決していない。
何一つだ。
剣を握り直し、立ち上がる。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
赤い絨毯を踏む。
足音はしない。
それでも、柔らかな感触だけが足裏へ伝わってくる。
左右を見渡す。
壁。
柱。
燭台。
止まった衛兵。
止まった侍女。
異常はない。
ただし、この世界においては。
ソウマは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
閉ざされた大扉は、まだ確かに閉まっていた。
ソウマは少し安堵する。
出口は分かっている。
もし何かあれば、すぐ戻ればいい。
「……」
その考えが、ふと止まった。
(戻る?本当に戻れるのか?そもそも何を根拠にそんなことを)
「まず何で戻るんだ……?」
首を振る。
(考えすぎだ)
この空間では考え始めるほど思考が濁る。
確かなものだけを見る。
見えるものだけを信じる。
そう決めたはずだ。
ソウマは廊下の奥へ視線を向ける。
長い。
どこまでも真っ直ぐ続いている。
一歩。
また一歩。
歩く。
衛兵の横を通り過ぎる。
止まったまま。
侍女の横を通る。
止まったまま。
景色は何一つ変わらない。
数十歩ほど進んだ頃だった。
ソウマは何気なく後ろを振り返る。
「……」
閉ざされた大扉が見える。
赤い絨毯。
白い柱。
燭台。
何も変わらない。
そのはずだった。
「……?」
柱。
ソウマは目を細める。
さっき見たとき、この柱は。
(……四本だったか?)
違う。
五本だったような気もする。
(そもそも最初から数えていたのか?……分からない。俺は何を見ていたんだ?)
思い返そうとする。
扉に入った。
衛兵がいて。
侍女がいて。
柱が――
「……」
続かない。
柱だけが思い出せない。
何本並んでいたのか。
どう並んでいたのか。
その部分だけが、白い霧へ溶けるように曖昧だった。
「気のせい、か……」
そう呟き、前を向く。
気にするな。
考えるな。
「進め」
それだけだ。
ソウマは再び歩き出す。
その背後で、誰にも気付かれないまま、一番手前の柱が最初からそこに在ったかのように静かに佇んでいた。
ソウマは光を手に置きながら歩き続けた。
赤い絨毯が、王城の奥へ真っ直ぐ伸びている。
左右には白い柱が等間隔に並び、そのさらに奥には豪奢な扉が規則正しく続いていた。
静止した衛兵。
空中へ浮いたままの燭台の炎。
天窓から差し込む白い光。
何もかもが同じように止まっていても、外とはどこか違った。
視線だ。
誰かに見られている。
そんな感覚が、王城へ入ってから一度も消えていなかった。
ソウマは足を止める。
ゆっくりと振り返る。
閉ざされた大扉。
赤い絨毯。
静止した衛兵。
誰もいない。
それでも胸の奥の圧迫感は消えない。
剣を握る手へ力が入る。
落ち着くことだけを意識して、再び歩き始めた。
歩幅は一定。
周囲を警戒しながら、一歩ずつ進む。
不意に視界の端へ、一枚の肖像画が映った。
白髪の老人。
王冠を戴き、椅子へ腰掛けている。
威厳のある顔立ちだった。
その隣にも絵画。
若い女性。
さらにその隣には、鎧姿の男が描かれている。
どれも動かない。
止まった時間へ閉じ込められたまま、永遠にそこへ飾られている。
ソウマは何気なく視線を逸らした。
二歩進む。
その時だった。
「……?」
違和感の棘がソウマの胸に刺さった。
何に引っ掛かったのか分からない。
ただ足だけが止まる。
ゆっくりと振り返る。
そこには、先ほどと変わらない肖像画が並んでいた。
「……気のせいか」
そう思っても、やはり何かがおかしい。
白髪の老人。
若い女性。
鎧姿の男。
確かにその並びだった。
(……よな?)
違った気もしてきた。
いや、最初からそうだったような気もする。
「……」
記憶を辿る。
輪郭だけが霧の向こうへ溶けていく。
駄目だ。
消えるな。
そう願っても、思い出そうとした瞬間その記憶が曖昧になる。
ソウマは目を閉じかけ、すぐに止めた。
視線を前へ戻す。
そして再び歩き出した。
一歩。
また一歩。
王城は静かだった。
静かすぎる。
音がないだけではない。
空気そのものがソウマという存在を忘れているかのような静寂が、王城の奥に行けば行くほど深く濃くなってきていた。
不意に、柱の一本へ目が止まる。
白い大理石。
根元に、小さな欠け跡があった。
爪で削ったようなごく小さな傷だったが、隅々まで整備されている王城には似合わない。
ソウマは無意識にそれを覚えた。
理由はない。
ただ、何となくだ。
そのまま歩き続ける。
階段はまだ遠い。
衛兵の横を通り過ぎる。
さらに柱を一本。
二本。
三本。
どれほど進いただろうか。
視界の端へ、また白い柱が映る。
その根元。
「……」
小さく欠けていた。
同じ場所。
同じ形。
同じ傷。
ソウマは立ち止まる。
「……偶然か」
呟く。
聞こえない。
だが、自分でもその言葉を信じ切れていなかった。
王城の柱は無数にある。
同じような傷など珍しくない。
そう考えれば説明はつく。
そう考えたい。
しかし、胸の奥だけが静かに警鐘を鳴らしていた。
ソウマは柱へ近付き、欠けた部分へそっと指を触れる。
冷たい。
石の感触。
それだけだ。
何も起きない。
何も、おかしくない。
それでも。
「……どうして覚えてる」
この傷だけは、記憶から消えていない。
そう思った瞬間だった。
頭の奥へ鈍い痛みが走る。
「っ……!」
視界がわずかに霞む。
まただ。
この世界は、思考そのものを拒絶する。
ソウマは額を押さえ、小さく息を吐いた。
それ以上考えるのをやめる。
今は前へ進むしかない。
剣を握り直し、再び歩き始める。
その背中を、誰かが見送っていることにも気付かないまま。
ソウマは歩みを止めた。
白い廊下。
左右へ並ぶ柱。
止まった衛兵。
何一つとして動かない。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
音は聞こえない。
吐息も。
衣擦れも。
静寂だけが、自分という存在を包み込んでいた。
ソウマは光を消さなかった。
視線だけを左右へ巡らせる。
柱。
燭台。
肖像画。
衛兵。
どれも止まっている。
違和感は見つからない。
それでも、違和感だけが消えない。
消えないままでいい。
この世界では、答えを探そうとした瞬間、記憶が濁る。
だから考えない。
見たものだけを受け入れる。
それだけでいい。
ソウマは再び歩き始めた。
一歩。
また一歩。
歩幅は一定。
視線も一定。
ただ前だけを見据える。
三歩。
四歩。
五歩。
何かが動いたような気がした。
しかし振り向いても何もない。
静止した空間だけが広がっている。
「……」
額へ汗が滲む。
本当に見えたのか。
それとも、自分が勝手に見たと思い込んだだけなのか。
その区別さえ、もう付かなかった。
歩き続ける。
歩くたびに、視界の端で何かが揺れる。
振り向けば消える。
振り向けば、最初から存在しなかったようにも思える。
ソウマは歯を食いしばった。
(違う)
見間違いじゃない。
そう思う。
だが、その根拠だけがどこにもなかった。
もし、本当に何も無いのだとしたら。
見えていると思っている、この自分の方が壊れているのではないか。
そんな考えが胸をよぎる。
「……っ」
思わず頭を押さえた。
違う。
違う。
そんなはずはない。
外で聞いた靴音も。
あの石像も。
あの存在も。
あれは現実だった。
現実だったはずだ。
なのに、その"はず"という言葉だけが、ひどく頼りなく感じられる。
ソウマはゆっくりと目を閉じた。
数秒。
何も考えない。
そして静かに目を開く。
白い廊下は、変わらずそこにあった。
「……進むしかない」
その言葉だけは、まだ自分の意思だ。
立ち止まっても、答えは出ない。
考えても、答えは逃げていく。
ならば前へ進む。
その選択だけは、自分で決められる。
ソウマは剣を握り直し、再び王城の奥へ歩き始めた。
――その先に待つ、王城の深奥へ。
【今回の小ネタ】
人は、目の前で起きた変化に驚くほど気付けないことがあります。
例えば、誰かと会話をしている最中、相手が別人と入れ替わっても気付かないという有名な実験があります。
また、映画ではカットが切り替わるたびに小道具や人物の立ち位置が変わっていても、多くの人は違和感を覚えません。
この現象は「チェンジ・ブラインドネス(変化盲)」と呼ばれています。
私たちの脳は、目から入る膨大な情報をすべて処理しているわけではありません。
必要だと判断した情報だけを選び、それ以外は「見たこと」にして補完しています。
つまり、人間は世界をそのまま見ているのではなく、脳が作り上げた「世界の要約」を見ているのです。
だからこそ、変化がゆっくり起きたり、視線が一度外れたりすると、その変化は驚くほど簡単に見落とされます。
見えていなかったからではありません。
見えていたのに、認識されなかったのです。
私たちが「見た」と信じている世界は、案外あやふやなものなのかもしれません。




