保持出来ない貌
――コツ。
乾いた靴音が、石像のすぐ後ろで鳴った。
ソウマの瞳が鋭く開かれる。
反射的に石像の脇へ踏み込み、その背後へ剣先を向けた。
白い芝生。
止まった木々。
誰もいない。
それでも、ほんの一瞬前まで、確かに誰かがそこへ立っていたような気配だけが、静かにその場へ残っていた。
――コツ。
まただ。
乾いた靴音が、静寂を裂く。
一定だった。
焦ることもなく、急ぐこともなく。
ただ一歩ずつ。
誰かが歩いている。
ソウマは振り返らない。
振り返れば、何かが消える。
そんな確信だけが、理由もなく胸の奥へ生まれていた。
呼吸を整える。
耳を澄ます。
音は一定の間隔を保ったまま続いている。
――コツ。
――コツ。
距離は分からない。
近付いているのか。
遠ざかっているのか。
その判断すらできない。
音だけが存在し、距離という情報だけが抜け落ちていた。
「……」
ソウマは静かに歩き出した。
石畳を踏む。
自分の足音は聞こえない。
聞こえるのは、後ろの靴音だけだった。
歩く。
音も歩く。
止まる。
音も止まる。
「……っ」
胸の鼓動だけが速くなる。
試している。
向こうも、自分を。
再び歩く。
少しだけ速くしても、靴音も変わらない。
速くも遅くもならない。
ただ、決して途切れない。
「何なんだよ……」
呟いた瞬間。
靴音が止まった。
「……!」
反射的に身体が固まる。
静寂。
何も聞こえない。
今までずっと体験させられてきたその静寂。
その沈黙だけが、かえって恐ろしかった。
数秒。
それ以上だったのかもしれない。
待った時だった。
やがて。
――コツ。
今度は前から聞こえた。
「……は?」
ソウマは目を見開く。
正面には誰もいない。
白い石畳。
庭木。
止まった噴水。
それだけだ。
それでも、音だけが前方から響く。
――コツ。
――コツ。
一定だった。
まるで目の前に誰かがいるように。
しかし何も見えない。
「幻覚か……?」
その言葉さえ、自信がなかった。
ソウマは一歩だけ横へ動く。
靴音も横へずれた。
「……!」
もう一歩。
また音が動く。
追従している。
見えない何かが。
違う。
音だけが、自分の位置を知っている。
そんな狂気の感覚だった。
ソウマは剣へ手を掛けた。
ゆっくりと抜く。
銀色の刀身だけが静かに光を反射する。
誰もいない空間へ剣先を向ける。
「出てこい」
返事はない。
「早く出てこい!」
音も止まる。
また静寂。
何もない。
何も。
「……」
剣を下ろしかけたその瞬間だった。
視界の端で黒いものが走った。
「……違う」
確かにいた。
視界の端へ。
しかし思い返した瞬間、その記憶が薄れる。
(黒かった。……白かったか……?人であったことは確か……違う。影だったような……)
「……くそ」
思い出せない。
見たはずだ。
見たはずでも、その姿だけが記憶から滑り落ちる。
昔の記憶を引っ張り出す時のように。
頭で想像した物語のように。
輪郭だけが崩れていく。
ソウマはゆっくりと息を吐いた。
この空間は、目だけでも耳だけでもない。
記憶そのものへ触れている。
理解した瞬間。
身体の奥底から冷たいものが這い上がった。
もし、このまま忘れ続けたら。
リリアを。
フィアを。
あの過去を。
あの放棄を。
あの渇望を。
あの憎悪を。
あの恐怖を。
あの自己否定を。
あの孤独感を。
すべて忘れてしまうのではないか。
「……!」
その考えだけは。
(壊れる……)
必死に頭から追い出した。
忘れてはいけない。
絶対に。
何を忘れても、それだけは。
ソウマは強く拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
痛みだけが、ソウマという存在を繋ぎ止めている。
その時だった。
――コツ。
靴音が、すぐ背後で鳴った。
ソウマは反射的に振り返る。
「……!」
誰もいない。
白い石畳。
門。
止まった噴水。
静止した庭木。
そこには、先ほどまでと何一つ変わらない景色だけが広がっていた。
「……違う」
聞き間違いではない。
確かに聞こえた。
耳ではなく、理覚がそう断言していた。
ソウマは剣を構える。
切っ先が静かな空気を裂く。
呼吸だけが浅くなる。
目を凝らす。
何もいない。
それでも、何かがいる。
その矛盾だけが、空間全体へ染み渡っていた。
ゆっくりと一歩退く。
その瞬間だった。
視界の端。
白い柱の陰に、何かが立っていた。
「っ!」
反射的に目を向ける。
そこには――
「……」
誰かがいた。
そう思った。
人影だった。
いや。
本当に人だったのか。
長い衣を纏っていた気がする。
違う。
鎧だったか。
顔は。
顔は――
「……あれ?」
思い出せない。
たった今見た。
ほんの一瞬前まで視界へ映っていた。
それなのに、どんな姿だったのか、一つも思い出せなかった。
「何だ……今の」
海馬が拒絶している。
記憶へ刻もうとした瞬間、その情報だけが崩れ落ちる。
まるで、最初から見ていなかったことへ書き換えられるように。
ソウマは剣を握る手へ力を込めた。
汗で柄が滑る。
視線だけは柱から逸らさない。
「もう一度現れろ……。今度こそ見逃さない……!」
そう思った。
しかし、何も現れない。
静寂だけが続いている。
「……出てこい!」
返事はない。
数秒。
あるいは数分。
ソウマはゆっくりと息を吐く。
その時。
――コツ。
右だ。
音だけが移動していた。
「……!」
振り向く。
誰もいない。
――コツ。
左だ。
また振り向く。
誰もいない。
――コツ。
今度は正面。
まるで遊ばれている。
試されている。
音だけが、自分を囲むように位置を変えていく。
「くそ……!」
このまま立ち止まるのは危険だ。
理由はない。
だが、理覚だけが警鐘を鳴らしていた。
ソウマは駆け出す。
白い石畳を蹴る。
王城へ。
あの城へ辿り着けば何かがある。
そう信じるしかなかった。
全力で走る。
風はない。
それでも身体は確かに前へ進んでいる。
王城だけを見据える。
あと少し。
そう思った。
だが。
「……遠い」
城が近付かない。
走っている。
全力で。
それでも景色だけが変わらない。
噴水は同じ場所。
庭木も同じ場所。
王城も同じ距離。
床だけが後ろへ流れ続けているようだった。
「そんな……!」
足を止めない。
止めた瞬間、消えて無くなる。
そんな予感だけが胸を締め付ける。
息が荒くなる。
脚が悲鳴を上げる。
それでも距離は縮まらない。
そして。
――コツ。
靴音だけが近付いた。
「っ!」
背中。
もう背後だった。
振り向けない。
振り向いても、何かを見て、そして忘れる。
その繰り返しになる。
走る。
走る。
走る。
それでも。
――コツ。
――コツ。
――コツ。
音は、一歩ずつ迫ってくる。
一定だった。
急がない。
焦らない。
相手が逃げ切れないことを知っている者の歩き方だった。
「はぁ……っ、はぁ……!」
心臓が激しく脈打つ。
肺が焼ける。
視界が揺れる。
それでも王城は遠い。
永遠に届かない。
その絶望が、ゆっくりと形を持ち始める。
そして、背中へ冷たい何かが触れた。
「――っ!!」
反射的に身体を捻る。
剣を振る。
銀色の軌跡だけが白い世界を裂いた。
何も斬れない。
だが、その空振りの直後。
ソウマの全身へ、死の予感が雷のように走った。
経験してきた。
何度も、命が尽きる、その寸前だけ訪れる感覚。
身体より先に、魂が理解する終焉。
「………!」
まずい。
時間が――。
止まった。
白い石畳の上へ浮かんでいた塵が静止する。
止まった噴水。
止まった光。
止まった空気。
ソウマだけが、その静止した世界の中で呼吸を続けていた。
「……世界停止」
掠れた声が漏れる。
死の寸前。
その瞬間でのみ発動する、自分の能力。
何度も命を救ってきた力だった。
だが今回は違う。
この世界そのものが、すでに止まっている。
だから静止した景色は何一つ変わらない。
変わったのは、一つだけ。
音は聞こえないはずだ。
――コツ。
聞こえない、はずだった。
「……」
音がした。
全てが止まり、音も無いはずの世界で。
ソウマは恐怖に震えながらゆっくりと振り返る。
誰もいない。
そう思った。
しかし、最初からそこにいたものを自分の認識だけが遅れて捉え始めた。
白い景色の中で、人の形をした何かが立っている。
輪郭はある。
それでも形が定まらない。
目を向けるたびに、背丈が変わる。
衣服が変わる。
男。
女。
老人。
子供。
そのすべてが同時に成立し、そのすべてが同時に崩れていく。
「……何だ、お前」
返事はない。
ただ、一歩。
ソウマに向かって歩いた。
――コツ。
たった一歩。
それだけで、ソウマの頭から何かが抜け落ちた。
「……?」
何を考えていた。
剣を構えていた理由は。
なぜここへ立っている。
数秒前まで当たり前だった思考が、白紙になっていく。
「違う……!」
頭を抱える。
忘れるな。
忘れるな。
必死に叫ぶ。
それでも、目の前の存在を見続けるほど、自分の中から言葉が剥がれていく。
リリア。
その名前だけを思い浮かべる。
忘れるな。
フィア。
ラドック。
ファインセ。
一つずつ、大切な名前を心の中で繰り返す。
それだけが、自分という存在を繋ぎ止める錨だった。
――コツ。
また一歩。
近付く。
姿は見えている。
それでも、目を逸らした瞬間にはどんな姿だったのか思い出せない。
「……認識、できない」
見えている。
しかし保持できない。
脳が。
記憶が。
この存在を拒絶している。
いや、そもそも保持するという機能そのものが成立しない。
だから思い出せない。
だから説明できない。
だから恐ろしい。
――コツ。
あと数歩。
その距離だけは理解できた。
このままでは間に合わない。
ソウマは視線を逸らした。
その瞬間だった。
胸を締め付けていた圧迫感が、ほんの僅かに薄れる。
「……そうか」
見続けること自体が危険なのだ。
見て理解したその内容さえ、すぐに忘れそうになるのだから。
ソウマは王城へ身体を向ける。
そのまま足を蹴って走り出した。
世界停止が解除される。
走る。
今だけは距離が縮んでいる。
石畳を蹴る。
王城の大扉。
あと少し。
あと数歩。
身体の奥が軋む。
能力の限界だった。
「間に合え……!」
全力で跳ぶ。
肩から大扉へぶつかる。
重い音もなく扉は開き、ソウマは勢いのまま内部へ転がり込んだ。
ソウマは閉まる扉の隙間から、その景色を見る。
白い前庭。
静止した噴水。
門。
そして、そこには何かが立っていた。
「……」
見えない。
見えている。
何かがいるのが分かる。
分からない。
重い扉がゆっくり閉じる。
隙間が狭まる。
最後に見えたはずの何かは、もう思い出せなかった。
扉が完全に閉まる。
ソウマは荒く息を吐き、その場へ膝をついた。
静かだった。
音はない。
何も聞こえない。
「助かった……!」
そう叫んだ、その時。
扉の向こうから。
――コツ。
一度だけ、乾いた靴音が響いた。
もう二度と、その音は聞こえなかった。
【今回の小ネタ】
「見たはずなのに思い出せない」
一見すると不思議な現象ですが、実は私たちの脳は世界を映像として丸ごと保存しているわけではありません。
脳は膨大な情報を処理しきれないため、「重要そうなもの」だけを選び、それ以外は積極的に捨てています。つまり、人間の記憶は「保存する能力」だけでなく、「忘れる能力」によって支えられているのです。
さらに興味深いのは、私たちは「見たもの」を記憶しているのではなく、「理解できたもの」を記憶しているという点です。
例えば、一瞬だけ視界を横切った物体が何だったのか分からなかった経験はありませんか?
あとから「あれは人だった気がする」「黒い影だったかもしれない」と記憶が揺らぐのは、脳が曖昧な情報を無理に意味のある形へ補完しているからです。
そして、人間の記憶は一度保存したら終わりではありません。
思い出すたびに記憶は再構築され、少しずつ書き換えられていきます。
だからこそ、「絶対に見た」と信じていることでも、実際には細部が変わっていたり、存在しない記憶が付け足されていたりすることがあります。
もし、脳が「これは理解できない」と判断する存在が目の前に現れたらどうなるでしょう。
見えないのではありません。
記憶できないのでもありません。
「認識した瞬間から、その認識を保持できない。」
そんな存在が本当にいたとしたら、私たちは相手を説明することも、思い出すことも、恐れる理由さえ言葉にできなくなるのかもしれません。




