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輪郭なき来訪者

 

 ――コツ。


 乾いた音が、静寂へ落ちた。

 ソウマは反射的に剣を抜き放つ。

 白刃が止まった光を映し、細く輝いた。

 呼吸を殺す。

 視線だけをゆっくりと巡らせた。

 白い石畳。

 左右へ並ぶ庭木。

 止まった噴水。

 白亜の王城。

 門。

 何もいない。

 人影はおろか、動くものすら一つも見当たらなかった。


「……誰だ」


 掠れた声が漏れる。

 その瞬間だった。

 ソウマは眉を寄せる。

 聞こえない。

 自分が喋ったはずなのに、その声だけが耳へ届かなかった。

 口は動いた。

 喉も震えた。

 息を吐いた感覚もある。


『………………』


 だというのに、世界は何事もなかったように沈黙したままだった。


「……」


 試すように、もう一度口を開く。


「聞こえてるなら出てこい」


 やはり何も聞こえない。

 唇の動きだけが、自分が言葉を発したという事実を伝えている。

 ソウマは無意識に喉へ触れた。

 声が出なくなったわけではない。

 違う。

 この場所では、自分の声という現象だけが世界から切り離されている。

 それでも、さっきの靴音だけは、確かに聞こえた。

 その矛盾が、じわりと肌を粟立たせる。


 静寂。


 あまりにも深い静寂だった。

 風が吹かない。

 葉も揺れない。

 噴水は空中へ水を巻き上げたまま、硝子細工のように止まっている。

 それらはもう見慣れた景色だった。

 だが、今は違う。

 この空間には、自分以外にも"音を生み出せる何か"がいる。

 その事実だけが、白く閉ざされた世界に新たな輪郭を与えていた。

 ソウマは剣を構え直す。

 足裏へ力を込める。

 一歩。

 石畳を踏む。

 当然のように足音はしない。

 自分の身体だけが動き、その結果だけが世界へ残されない。

 奇妙な感覚だった。

 まるで、自分だけが音という概念から切り離されてしまったような錯覚。

 もう一歩。

 門へ近付き、白い柱の陰を覗く。

 誰もいない。

 柱の裏側。

 門の外。

 停止した王都。

 見渡す限り、静止した人々が街並みに取り残されているだけだった。

 ソウマはゆっくりと身体を戻す。


 (いや……)


 門ではない。

 あの音はもっと近かった。

 数歩先。

 それくらいの距離だったはずだ。

 思い返す。

 どこから聞こえた。

 右か。

 左か。

 あるいは背後か。

 記憶を辿ろうとした瞬間、思考が鈍く霞んだ。


「……また」


 小さく歯を噛む。

 この場所では、考えようとするほど記憶が曖昧になる。

 ついさっきの出来事なのに、自信が持てない。

 本当に右だったのか。

 いや、背後だったような気もする。

 あるいは最初から位置など分かっていなかったのではないか。

 そんな疑念まで生まれてくる。

 ソウマは首を振った。


(駄目だ……。疑い始めれば終わりがない。確かなものだけを信じろ)


 見たもの。

 触れたもの。

 それだけだ。


 ゆっくりと視線を巡らせる。

 庭木。

 噴水。

 石畳。

 王城。

 どれも変わらない。

 どれも、止まっている。

 異常なのは、自分だけなのではないかという考えが、何度も頭をよぎる。

 その時だった。


 ――コツ。


 今度は左。

 音は一度だけ鳴り、再び世界は沈黙した。

 ソウマは迷わず駆け出す。

 石畳を蹴る。

 身体が前へ躍る。

 しかし、自分の走る音だけはどこにも存在しない。

 衣服の擦れる音も。

 呼吸も。

 剣が揺れる金属音さえ。

 何一つ聞こえない。

 聞こえるはずだった世界が、自分を拒絶している。

 数歩で音のした場所へ辿り着く。

 そこには白い庭木が一本。

 その足元へ影が落ちている。

 それだけだった。


「……」


 いない。

 隠れられる場所などない。

 庭木の幹は細く、人一人が身を潜められるほど太くはない。

 噴水までは距離がある。

 門も遠い。

 誰かが走って逃げたのなら、姿くらいは見えるはずだった。

 だが、何も見えなかった。

 ソウマはその場で立ち尽くす。

 剣を握る手へ、じわりと汗が滲む。

 冷たい。

 この世界には、自分しかいない。

 そう思い始めた矢先に現れた、たった一つの音。

 それだけで、この王城という空間そのものの意味が変わってしまった。


 誰かがいる。


 いや――。


 何かがいる。


 ソウマはその場から動かなかった。

 剣先だけが、わずかに揺れている。

 目を閉じることはしない。

 瞬きさえ惜しかった。

 視界から何かが消える一瞬の隙すら、この空間では致命的な気がしたからだ。


 静寂。


 世界は何事もなかったように止まっている。

 耳を澄ませる。

 何も聞こえない。

 自分の鼓動すら。

 生きている実感は、胸の奥で規則正しく脈打つ振動だけが教えてくれていた。


「焦るな……追い掛けても意味はないことは分かっただろ?これは収穫だ……」


 まるで自分を騙すかのように言い聞かせる。

 さっきまでのように音を追えば、そこには誰もいなかった。

 ならば逆だ。

 動くのは向こう。

 自分は待つ。

 ソウマは剣を正眼に構え直した。

 切っ先は胸の高さ。

 肩の力を抜く。

 足はいつでも踏み込めるよう半歩だけ開く。

 呼吸だけを整えた。

 時間が過ぎる。

 あるいは、過ぎていないのかもしれない。

 この場所では、時間の流れさえ信用できなかった。

 空中へ舞い上がった噴水は落ちず、木々は揺れず、光は傾かない。

 影の長さも変わらない。

 世界は一枚の絵画になったように停止している。

 だから、自分が何分立っていたのか、それとも数秒しか経っていないのか、その境界さえ曖昧だった。

 ふと、奇妙なことに気付く。

 喉が渇かない。

 汗は流れる。

 筋肉は緊張している。

 だが、時間と共に訪れるはずの肉体の変化だけが極端に遅い。

 疲労という概念すら、この空間では足踏みをしているようだった。


「……」


(考えるな)


 考え始めれば、この世界はいくらでも疑問を生み出す。

 なぜ呼吸をしている。

 なぜ歩ける。

 なぜ自分だけ動ける。

 答えはない。

 考え続ければ、また全てが曖昧になるだけだ。

 ソウマはゆっくりと視線を巡らせる。

 王城。

 門。

 噴水。

 庭木。

 石畳。

 どこにも異変はない。

 いや、異変しかない。

 その異変が当たり前になり始めている自分が恐ろしかった。

 その瞬間。


 ――コツ。


 すぐ右だった。

 ソウマは動かない。

 剣先だけを滑らせるように右へ向ける。

 視線を走らせる。

 白い石畳。

 庭木。

 その奥。

 何もない。

 音は一度だけ鳴り、また世界は沈黙した。

 来る。

 そんな確信だけがあった。

 音は少しずつ近付いている。

 距離を測る術はない。

 それでも、耳ではなく理覚がそう感じていた。

 静寂の中へ落とされるたった一つの靴音。

 その一歩ごとに、何かが自分へ近付いている。

 見えないまま。

 姿を持たないまま。

 ソウマは唇を固く結び、同時に考えた。

 もし本当に誰かがいるなら、なぜ見えない。

 この止まった世界の住人なのか。

 それとも、自分と同じように動ける誰かなのか。

 しかし、人間なら呼吸がある。

 衣擦れがある。

 足音は二歩、三歩と続くはずだ。

 しかし聞こえるのは、いつも一歩だけ。

 たった一度。

 世界へ印を刻むように鳴り、それきり消える。歩いているはずなのに、歩き続ける音がしない。その不自然さが、理解できない恐怖となって胸へ沈んでいく。

 ソウマは自分の立つ位置を確認した。

 石畳の中央。周囲には遮蔽物がない。もし襲われても、死角は少ない。だが、それは"見える相手"の話だ。見えないものには意味がない。

 その考えが脳裏をよぎった途端、背筋へ冷たいものが走った。

 もし。

 もし最初から見えていないだけだとしたら。

 今、この瞬間も。

 自分のすぐ隣へ立っているのだとしたら。

 ソウマは反射的に半歩下がる。

 何もない。白い空間だけが広がっている。

 それでも胸の圧迫感は消えなかった。

 誰かが見ている。

 そんな感覚だけが、首筋へ張り付いて離れない。

 ゆっくりと息を吐く。

 ただ、吐いた感覚だけがあるだけ。音はない。世界は依然として、自分から生まれる全てを拒絶していた。

 そして、不意に視線が止まる。


「……?」


 庭木の向こう。

 白い石畳から少し外れた場所。

 そこに、何か白いものが立っていた。人影ほどの高さ。細長い輪郭。

 光の加減でそう見えただけかと思い、目を細めて見る。確実に、何かがあった。白く、滑らかな表面。人の形をしているようにも見える。

 ソウマは無意識に一歩だけ踏み出した。


「……あれは」


 距離があるせいではっきりとは見えない。

 だが、石ではない。

 木でもない。

 自然にそこに生えているものでは決してなかった。

 見覚えがあるような気もした。

 だが、それがいつからそこにあったのかだけは、どうしても思い出せなかった。


「……最初から、あったか?」


 自分に問い掛ける。

 答えは返らない。

 思い出そうとした瞬間、その記憶だけが薄い霧の向こうへ遠ざかっていく。


 (あったよな?いや、なかったか……?)


 どちらも確信できない。

 ソウマは白いそれを見つめたまま、小さく息を呑んだ。

 白いそれは、庭木の向こうで静かに佇んでいた。

 人影のようにも見える。

 だが、動かない。風が吹かないこの世界では、衣服も髪も揺れるはずがない。それでも、生きた人間とは違う。輪郭があまりにも整いすぎていた。

 ソウマは剣を構えたまま、一歩だけ近付く。

 石畳を離れ、庭へ足を踏み入れる。短く刈り揃えられた芝は青々としたまま停止しており、踏み締めても音はしない。足裏へ柔らかな感触だけが返ってくる。

 距離が縮まる。

 輪郭が少しずつ鮮明になっていく。

 やがて、その正体がはっきりと見えた。


「……石像」


 男だった。

 どこか不自然な石像だ。

 剣を構えたその姿には、何の感情もこもっていないように見える。

 戦っているのか。

 それともただ構えているだけなのか分からない。

 短いその髪は、その一本一本まで丁寧に彫り込まれている。

 衣服の皺も、指先の形も、まるで本物をそのまま白い石へ閉じ込めたような精巧さだった。

 顔立ちは穏やかだった。

 微笑んでいるわけではない。

 悲しんでいるわけでもない。

 ただ静かに目を伏せ、何かを待ち続けているような表情だけが刻まれている。

 しばらく見つめていたその時だった。

 ソウマはそのバランスの悪さの原因に気付いた。


 右腕が無かった。


 本来あるはずの右腕は失われている。しかし、断面は凸凹しており、意図したものではないことが分かる。

 ソウマはしばらく見つめていた。

 敵意は感じない。魔力の気配もない。

 ただの石像。

 そう結論付けようとした。

 その時だった。


「……」


 違和感の小さな棘が胸の奥へ刺さる。

 ソウマは眉を寄せた。

 こんなものがあっただろうか。

 王城へ向かって歩いた時。

 門からここを見渡した時。

 さっきまで、自分はこの庭を何度も歩いた。

 噴水も。

 庭木も。

 白い石畳も。

 何度も見ている。

 それでも、この石像だけは、一度も見た記憶がない。


「……いや」


 本当にそうか?

 見ていなかっただけではないのか?

 視界へ入っていても、気に留めなかっただけではないのか?

 いくつもの問いが浮かぶ。

 思い返そうとする。

 最初に門を越えた時の景色。

 王城。

 噴水。

 庭木。

 石畳。

 そして――


「……」


 その先が続かない。

 記憶の端へ手を伸ばした瞬間、輪郭だけが水へ溶けるように滲んでいく。

 思い出せそうで、思い出せない。

 確かに景色は見た。

 それでも、その景色を構成していたものだけが、少しずつ曖昧になっていく。

 ソウマは額へ指を当てた。

 この空間では、記憶を辿ろうとするほど記憶そのものが崩れていく。

 まるで考えるという行為自体が、この世界では許されていないかのようだった。


「最初から……あった?」


 問い掛ける。

 答えは出ない。

 あると思えば、あった気もする。

 なかったと思えば、そんな気もする。

 そのどちらも否定できない。

 曖昧さだけが、静かに胸の中へ積もっていく。

 ソウマは石像の周囲をゆっくり歩いた。

 背面へ回る。

 台座は円形だった。

 白い大理石で作られ、苔一つ生えていない。長い年月を経ているようには見えない。それでも新品のようにも見えなかった。

 いつからそこに在ったのか。

 誰が作ったのか。

 何のために置かれたのか。

 何一つ分からない。

 台座へ文字は刻まれていない。

 紋章もない。

 ただ、人の形をした石だけが、王城に挑むように剣を構えている。

 ソウマは石像の正面へ戻り、その無気力な瞳を見つめた。

 白い石。

 当然、瞳は動かない。

 視線も合わない。

 それでも、奇妙な一体感があった。

 石像が自分を見ているのではない。

 もっと別の何かが、この石像を通して自分を眺めている。

 根拠はない。

 ただ、理覚だけがそう告げていた。

 ソウマは一歩下がる。

 距離を取る。

 それでも視線は外さない。

 外してはいけない気がした。

 目を逸らした瞬間、何かが起こる。

 そんな確信にも似た不安が胸を締め付ける。

 静寂。

 何も聞こえない。何も動かない。世界は相変わらず停止している。

 そのはずだった。


 ――コツ。


【今回の小ネタ】

人は他人に嘘をつきます。

しかし一番多く嘘をついている相手は、自分自身かもしれません。

心理学ではこれを「自己欺瞞(じこぎまん)」と呼びます。

例えば、本当は傷ついているのに「大したことじゃない」と考えたり、本当は認めたくない現実を「そんなはずはない」と無意識に遠ざけたり。

興味深いのは、多くの場合、それが「嘘をついている」という自覚すらないことです。

人の脳は、強すぎる苦痛や矛盾を前にすると、心を守るために記憶や感情、物事の意味づけまで少しずつ書き換えてしまうことがあります。

それは単なる言い訳ではなく、精神が壊れないための防衛機構です。

だからこそ、人は「自分は客観的に物事を見ている」と信じていても、実際には自分でも気づかないうちに、本心を見失っていることがあります。

私たちは、自分の心の持ち主でありながら、その心のすべてを知っているわけではないのです。

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