白夢幻
門を越えた瞬間、ソウマは思わず足を止めた。
何かが変わった。
そう思ったのではなく、本当に何かがなくなった。
耳を澄ましても何も聞こえない。
それは今さらだった。
王都へ足を踏み入れてから、音はずっと止まっている。
しかしそれとは違う。
この静けさは、それまでの静寂とは決定的に異なっていた。世界から音が失われたのではなく、最初から音という概念が、この場所だけ存在しない。
そんな錯覚だけが、皮膚へまとわりついていた。
ソウマはゆっくりと前を見る。その目線は、真っ直ぐ伸びる白い石畳を捉えていた。
続く先には、巨大な王城。
王都を見下ろすように聳える白亜の城は、遠目に見た時よりもなお壮大だった。
崩れていない。
割れていない。
黒く侵されてもいない。
あれほど街を飲み込んでいた異変が、ここだけを避けて通ったかのようだった。
「……」
不自然だった。だが、その不自然さを考えるより先に、石畳を進んでいた。
しばらく歩くと、一本道だと思っていた石畳は途中で静かに枝分かれしていることに気がついた。
三本。
どれも同じ幅。どれも同じ白い石畳。
ただ、進んだ先にあるものが違う。
正面には、赤い絨毯が奥まで続く広い回廊。おそらく中央の通りだろう。
右には、人ひとりがようやく通れるほど細い石造りの階段があり、階段を降りるにつれ段々と明かりがなくなっているのが分かる。
左には、長い柱廊が伸び、その壁には等間隔に肖像画の額縁が並んでいた。
ソウマは三つの道を見比べる。
どこも静かだった。
どこにも人影はなく、止まった人間すら、一人もいない。
「どこを通るべきだ……?」
考えても分からない。
どこを選んでも、王城へ着く。
そう思った。
だからソウマは、左へ歩いた。
理由はない。
なぜか視線だけが、その廊下から離れなかった。柱は白く磨かれ、床へ細長い影を落としている。窓から差し込む光も止まっており、塵が一粒、空中へ浮いたまま動いていなかった。
しばらく進むと、人の描かれた額縁が見えてきた。
一枚目。
王冠を戴いた威厳溢れる老人。
二枚目。
まだ若く初々しい印象を残しながらも、意志の強さを感じる目力を持った男。
三枚目。
腰まである長い白髭を蓄えた、柔らかい印象の老人。
王冠を戴く人物ばかりだった。
しかしソウマはじっくりと見るわけではなく、流す程度でしか見ていなかった。見ても意味がないとソウマは分かっている。なぜならこの国の歴史など、何一つ知らないのだから。
歩く。
また一枚。
また一枚。
ソウマの目に止まったのは、人物の描かれていない絵画だった。
人物の描かれていない額縁が、一枚だけ混じっている。
庭園だった。
白い花が咲き、小さな丸卓が置かれている。
椅子は三つ。
そのうち二つだけが卓へ寄せられ、残る一つは少しだけ離れていた。
卓の中央には、白い花を編んで作られた小さな花冠が置かれている。
それだけだった。
「……?」
王の肖像画の並ぶ場所に、ただの風景画。
あまりにも不可解だ。
だが、それ以上は考えない。
考えるだけ無駄なことだと分かっている。
ソウマは意識を切り替えて、また前を向いた。
歩き続ける。
次の肖像画を見る。
その次。
また次。
何枚目だったか。
ふと、違和感が指先へ引っ掛かった。
王冠の形が変わっていた。
装飾こそ少ないが、決して質素ではない。
しかし、それだけだった。
誰なのか。
いつの王なのか。
そんなことは知らない。
知らないまま、ソウマは視線を前へ戻す。
廊下の終わりが見えていた。
白銀の縁取りが施された、大きな両開きの扉が視界の中で段々と大きくなってくる。
他の道を確認しようと、ソウマは何気なく振り返る。
――正面の通りが、なかった。
ソウマは目を細めた。
もう一度、視線をゆっくりと滑らせる。
白い石畳。
右下から流れる地下道。
肖像画の並ぶ柱廊。
それだけだった。
正面を続いていた大きな通りは、どこにもない。
「……」
眉を寄せる。
確かにあった。
見た。
しかしその通りは選ばず、肖像画の並ぶ道を進んだ。
それだけのことだ。
それでも、思い出そうとすると、その通りだけ記憶の輪郭が曖昧になる。
大きく明るかった。
赤い絨毯が敷かれていた。
……その先は。
「…………」
分からない。
最初から、そこには何もなかったような気がしてくる。
ソウマは小さく首を振った。
(考えるべきことだ。それでも……)
やはり分からない。
ソウマは無理矢理思考を途切れさせ、王城へ行くという目的だけを頭に叩き込んだ。
歩みを止める理由にはならない。
そう自分を説得するしかなかった。
前を向く。
廊下の突き当たりにある大扉は、さっきより少し近く見えた。
歩き始める。
額縁がまた一枚、視界を横切る。
先ほど見た庭園の絵だった。
白い花。
二つの椅子。
花冠。
何気なく通り過ぎようとしたソウマの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……?」
額縁へ近づく。
庭園は静かだった。
卓の上には花冠がある。
白い花びらが編み込まれた、まだ結び目の残る小さな冠。
それ以外は何もない。
ソウマは額縁から目を離す。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感だけが残った。
やがて肖像画は終わりを迎えた。
最後の一枚。
若い男だった。
王冠を戴き、真っ直ぐ正面を見つめている。
他の肖像画より、妙に鮮やかだった。
それでもソウマは立ち止まらず、そのまま進み大扉の前へ立つ。
白銀の装飾。
磨き上げられた木目。
傷一つない、厳かなる扉。
ソウマは扉へ手を掛けた。
冷たい。
木製なのに、石へ触れたかのような冷たさを感じた。
ゆっくりと押しても、抵抗はない。
この先に答えがある。そう信じるように、ソウマは扉を押し開いた。
扉は抵抗なく開いた。
「っ……!」
ソウマの視界に眩いほどの白い光が差し込み、思わず目を細めた。
一歩。
扉を越える。
眩しさが薄れ、視界が開く。
「ぇ……」
ソウマは息を止めた。
前庭だった。
理解できなかった。
白い石畳。
左右へ整えられた庭木。
止まった噴水。
王城。
門。
すべて、さっき見た景色だった。
ソウマは振り返る。
そこにあるはずの廊下はない。
肖像画も、三つの道も、白銀の大扉も、何一つ残っていなかった。
あるのは、王都とこの空間を隔てる、あの門だけだった。
◆◇◆
ソウマは、その場から動けなかった。
前庭だった。
それ以外の言葉が浮かばない。
白い石畳は門へ向かって真っ直ぐ伸び、左右には手入れの行き届いた庭木が並んでいる。噴水は水を高く巻き上げたまま止まり、その向こうには白亜の王城が静かに佇んでいた。
最初に見た景色と何一つ変わらない。
「……なんで」
掠れた声だけが漏れる。
返事はない。
それどころか、自分の声さえ、この空間へ溶けることなく消えていったような気がした。
ソウマは振り返る。
あるはずだ。
肖像画の並ぶ柱廊が、三つに分かれた石畳が。
そして、自分が通ってきた白銀の大扉が。
しかし何もない。
巨大な門だけが、静かに開かれている。
まるで最初から、それ以外の道など存在しなかったかのように。
「違う……」
歩いた。
確かに歩いた。
壁一面に肖像画が並び、その中へ一枚だけ風景画が混じっていた。
花冠。
白い花。
三つの椅子。
そうだ。
三つ――
「……」
三つだったか。
そうだ。
三つだった。
(……本当に?)
思考が止まる。
胸の奥へ小さな違和感が沈んだ。
詳しく思い返そうとする。
しかし、思い返した瞬間、その景色だけが水面へ落ちた雫のように揺らぎ始めた。
椅子はあった。
花冠もあった。
それだけは覚えている。
だが、その配置だけが曖昧になる。
「なんで思い出せない……」
額へ手を当てる。
熱も頭痛もない。意識ははっきりしている。
だからこそ余計に気味が悪かった。
そんな感覚だけが、頭の奥へ静かに広がっていく。
ソウマは深く息を吸った。
「落ち着け……」
考えろ。
順番に行動を確認しろ。
門を越えた。
前庭を歩いた。
三つの道があった。
左を選んだ。
肖像画を見た。
最後に扉を開いた。
そして――
「前庭に戻った」
そこまではいい。
そこまでは思い出せる。
だが、その途中だけが妙に薄い。
一本道だった柱廊が、どれほど長かったのか。
肖像画を何枚見たのか。
若い王の顔がどんな顔だったのか。
思い出そうとするたび、記憶は輪郭を失っていく。
まるで、自分の記憶ではないものを無理に掴もうとしているようだった。
ソウマは門へ目を向ける。
門は開いている。
ほんの数十歩先。
「あそこまで戻れば、何か分かるか……?」
そう思ったソウマは、石畳を踏む。
一歩。
また一歩。
門へ近づく。
しかし歩いている途中、不意に違和感が生まれた。
「……遠い」
門まで、こんなに距離があっただろうか。
立ち止まって、門を見つめる。
門は変わらずそこにある。
近付いている。
そのはずなのに、距離だけが縮まっている実感を伴わない。
(錯覚だ)
そう言い聞かせて歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
気付けば門の前へ着いていた。
「……」
振り返る。
王城は、先ほどと同じ場所に建っていた。
遠ざかった気配もない。
近付いた気配もない。
距離という概念だけが、この空間では曖昧になっている。
ソウマは小さく息を吐いた。
「考えても何も分からない……」
ソウマは門を見上げた。
白い石造りの巨大な門は、王都とこの空間を隔てる境界として静かに佇んでいる。
ここを通れば戻れる。
そう考えること自体は、ごく自然なことだった。
「……行くしかない」
小さく呟き、石畳を踏む。
一歩。
また一歩。
門は確かに近付いている。
そのはずだった。
やがて門の真下へ辿り着く。
見上げれば、白い柱が空へ突き刺さるように伸びていた。
ソウマは躊躇なく門を越える。
一歩。
境界を踏み越えた。
その瞬間――
何も変わらなかった。
「……」
静寂。
風はない。音もない。
ゆっくりと前を見る。
そこには白い石畳。
左右へ並ぶ庭木。
止まった噴水。
白亜の王城。
前庭だった。
「……は?」
反射的に振り返る。
門は背後にある。
確かに今、門を通った。
そのはずだった。
それでも門はまだ、自分の後ろにある。
「通った……よな」
ソウマは門へ歩み寄り、柱へ手を触れた。
冷たい。
石の感触だ。
夢ではない。
ゆっくりと門をくぐった後、もう一度振り返る。
やはり前庭だった。
「……違う」
小さく首を振る。
考えろ。
焦るな。
何か確認できるものが必要だ。
ソウマは足元へ落ちていた小さな石を拾い上げる。
石畳の中央へ置く。
その隣へ剣を抜き、小さな傷を刻んだ。
目印。
これなら分かる。
石から十歩離れる。
一、二、三。
十歩。
立ち止まり、振り返る。
石はあった。
傷もある。
ソウマは安堵の息を漏らした。
さらに十歩歩く。
振り返っても、石はまだある。
それなら、今度は戻る。
一歩。
二歩。
三歩。
石畳の中央。
「…………」
何もなかった。
石はない。
傷もない。
綺麗な白い石畳だけが、静かに続いている。
「……違う」
目を凝らす。
(見落としているだけだ)
しゃがみ込み、指で石畳をなぞる。
傷はない。
削った感触すら残っていない。
ソウマはゆっくりと立ち上がった。
「消えた……?」
違う。
消えたのではない。
最初から存在しなかった。
胸の奥で、小さな不安が形を持ち始める。
ソウマは額へ手を当てた。
何を確認しようとしていた。
石を置いた。
そうだ。
石を――
「……石?」
何のために?
思考が止まる。
石。
傷。
門。
前庭。
頭の中で言葉だけが浮かんでも、その意味は繋がらない。
「俺は……何を」
(思い出せ……考えろ)
門を越えた。
戻ろうとした。
そのために何を?
「……」
分からない。
分からない。
分からない。
思い出そうとするほど、記憶は薄く霞んでいく。
夢から覚めた直後のようだった。
確かに何かを見ていた。
何かを考えていた。
それだけは分かる。
しかし、手を伸ばした瞬間、その輪郭が静かに溶けていく。
ソウマは顔を上げる。
王城は変わらずそこにあった。
門。
庭木。
噴水。
石畳。
石像。
何一つ変わらない。
変わっているのは、自分だけだった。
自分の記憶だけが、この場所へ少しずつ呑み込まれている。
そう理解した瞬間だった。
――コツ。
乾いた音が響いた。
ソウマの身体が強張る。
音。
この場所で、この空間で、この世界で聞くはずのない――
音。
ゆっくりと振り返る。
誰もいない。
門だけが静かに立っている。
しかし――
――コツ。
ソウマは息を潜めた。
自分は動いていない。
それでも、音がする。
それでも、誰かが歩いている。
まるで――
音だけが、この無音の世界をゆっくりと歩いているようだった。
【今回の小ネタ】
私たちの記憶は、録画映像のように保存されているわけではありません。
思い出すたびに脳は記憶を「再構築」しており、その過程で細部が書き換わることがあります。
心理学ではこれを「再固定化(Reconsolidation)」と呼びます。
つまり、人は思い出すたびに少しずつ記憶を作り直しているのです。
「確かに見たはずなのに思い出せない」
「最初からそうだった気がする」
そんな感覚は、実は現実でも決して珍しいものではありません。
だからこそ、人は自分の記憶を疑うことが、とても苦手なのかもしれません。




