永劫の檻
意図的な文字化けがあります。
ソウマは、その場から目を離せなかった。
前だけを見つめたまま止まっている人々は、誰一人として耳を塞いでいなかった。
叫び声を上げようとしている子供も、幼い子供を抱き寄せた母親も、剣を振り上げた騎士も、全員が同じだった。
まるで、音など最初から存在していなかったかのようなその情景に、ソウマは唖然とした。
「……俺だけなのか」
掠れた声が漏れる。返事はない。石畳へ吸い込まれ、そのまま消えた。
ソウマはもう一度確かめるようにゆっくりと周囲を見渡す。誰か一人でも、少しでも耳を塞ぐ仕草をしていないか。
――いない。
一人として。
違和感はそれだけではなかった。今さらのように気付いたのは、彼らの表情だ。
恐怖。
絶望。
焦燥。
確かにそういう感情は浮かんでいる。だが、その視線だけは妙に静かだった。何かへ驚いている目ではない。襲われた人間の目でもない。もっと違う。諦めとも違う。理解した者の、理解させられた者の目だった。
「……」
胸の奥がざわつく。あの一瞬で、彼らは何を見た。何を知った。その答えだけが、この王都から綺麗に切り取られている。考えようとしただけで、頭の奥に鈍い痛みが走った。
ソウマは視線を逸らし、歩き始める。これ以上考えても答えは出ない。
王城へ向かう。
その目的だけは変わらない。
足音だけが静寂へ響く。
コツ。
コツ。
コツ。
一定の間隔。
一定の速さ。
その規則正しさが、逆にソウマの不安を煽った。
歩きながら、ふと目に留まったのは、一軒の古風なパン屋だった。看板には焼きたてのパンを描いた古びた絵が描かれている。
入口は半分だけ開いている。
中は薄暗い。
棚には、焼き上がったままのパンが並んでいた。
香りさえ漂ってきそうなほど、どれも焼き色が美しい。
それでも、一匹の蝿さえ飛んでいない。
床へ落ちた僅かなパン屑も、そのままだ。
それどころか、食品の腐敗すら止まっている。
ソウマはあることに気が付いた。
時計の時間だけが止まっているのではない。
これは――
譎る俣縺ョ邨碁℃さえも止まっているのだ。
◇◆◇
ソウマは店の前を通り過ぎる。ふと、店内の奥へ視線が向いた。
店主らしき男が一人、窯の前で止まっていた。
両手を前へ伸ばしている。今まさにパンを取り出そうとした、その姿勢で。
その横顔を見た瞬間。
ソウマは足を止めた。
男は笑っていた。
他の全員が逃げ惑う王都の中で。
ただ一人だけ、穏やかに口元が緩んでいる。
「……違う」
笑っているのではない。
震えていた。
笑顔の形のまま。
細かく。
細かく。
震え続けている。
ソウマは目を凝らした。大きく動いてはいない。
止まっている。
止まっているはずだ。
それでも――
その震えだけが、頭から離れなかった。
ソウマは店から目を逸らした。
見続けてはいけない。
見続けた時には、蟄伜惠縺瑚ヲウ貂ャ縺輔l縺ェ縺上↑繧気さえした。
歩く。
歩くしかない。
王城はもはや目の前だ。城壁が建物の隙間から大きく見え始めている。
視界の端で何か白いものが横切った。
そちらへ視線を向けても、誰もいない。
何もない。
それでも、確かに見えた。
白い何かが、建物と建物の隙間を、音もなく横切った。ソウマはしばらく、その路地を見つめていた。
暗い。
奥は見えない。
吸い込まれそうな闇だけが続いている。そして気づく。その路地には人が一人もいなかった。王都のどこへ行っても、人はいた。
逃げる途中の者。
倒れた者。
助けようとした者。
剣を振る者。
祈る者。
必ず誰かが時間へ閉じ込められていた。
しかし、この路地だけは違う。
誰もいない。
綺麗だと感じてしまうほどの空白だった。ソウマは知らず知らずのうちに、その暗闇へ一歩近付いていた。
足が止まる。
胸の鼓動だけが、静かな世界で大きく響いた。
路地の奥は、こちらからは何も見えない。
それでも、相手からは見られている。
そんな感覚だけが、ゆっくりと背中を這い上がっていた。
ソウマは足を止めた。
自分でも、なぜ立ち止まったのか分からなかった。
路地は暗い。
ただそれだけだ。
どこにでもあるような変哲のない細い裏道。
両脇の石壁にはひびが入り、崩れた瓦礫が半ばまで道を塞いでいる。
その向こうは影になっていて見えない。
それだけの場所だった。
それでも、身体はその路地に進むこと、入ること、見ること全てを拒んでいる。
ソウマは小さく息を吸った。
肺へ流れ込んだ空気は冷たい。
だが、その冷たさは外気から来るものではなかった。
暗闇そのものが冷えているかのような冷気だった。
「……何も、ない」
自分へ言い聞かせるように呟く。そう言いながらも、ソウマは路地から目を離せないでいた。暗闇は何も隠していないように見えるが、見えていない部分の方が多い。視線が奥へ届かない。
闇が深いからではない。
距離があるからでもない。
まるで、"そこから先"を目が認識できないような感覚だった。
ソウマは眉を寄せる。
見えない。
見ようとした瞬間に、意識が逸れてしまう。
頭の中で思考が滑る。
「……どうして」
その一言だけが漏れた。
視線を外す。
胸の鼓動が少しだけ落ち着いた。
(……もう行こう。王城はすぐそこだ。寄り道をする理由なんてない)
ソウマは身体の向きを変え、大通りへ戻ろうとした。
ヒュン
視界の隅に映る路地の入口の石壁へ、細長い影が映っていた。
ソウマは反射的に振り返る。
影はない。
そこにあるのは線模様の石壁だけだった。
「……」
瞬き一つ。
その間の出来事だった。
(気のせいだ。実際に起きてなんかない)
そう思った、その時だった。
頭の中で違和感が生まれる。
先ほどまで見ていた石壁は、何かが変化していた。
ソウマは不審に思い近付いた。
冷たい石に手を伸ばし、指先でなぞる。
そうしてやっと気付いた。
模様ではなく、無数の引っかき傷だった。
石を削るほどの深い傷。
縦に。
斜めに。
交差するように。
壁一面へ刻まれている。
古くからあるものではない。
白く砕けた石粉が、傷口の周辺に残っていた。
つい先ほど付いたような跡。
「……誰が何のためにこんなものを……?」
ソウマは傷を目で追う。
一本。
また一本。
そのどれもが、路地の奥から外へ向かって刻まれていた。逃げるように、何かを掴もうとしたように見える。
何十本も、何百本も、数えられないほど多くの線が刻まれていた。
「……っ」
歯がガタガタと震える。ソウマは理解してしまった。
この壁に傷をつけた人々。
彼らは、この路地に進もうとしていたのではない。この路地から、逃げようとしていたのだ。
ソウマの背中を冷や汗が伝う。
考えるより先に身体が動いた。
一歩。
路地から離れる。
もう一歩。
――ハタッ……。
石畳へ、小さな音が落ちた。あまりにも軽い音。木の葉が落ちるより小さく、それでいて確かに聞こえる。
ソウマは視線を下げる。
何もない。何も落ちていない。
聞き間違い。
そう思った直後。
――ハタッ……。
すぐ後ろから、全く同じ音が聞こえた。
ソウマは振り返らなかった。
振り返れば、何かが起きてしまう、そんな確信がある。
もちろん、根拠などない。
この世界では自分しか動けないということは、もう確定したこと。
ならば今の音も、きっと聞き間違い。
そう考えようとする。
だが、身体は納得してくれない。
肩へ力が入り、緊張のあまり喉の奥が乾く。
焦るように呼吸が浅くなり、肺が空気を取り込むことを拒否しているかのような息苦しさがソウマを襲う。
――ハタッ……。
――ハタッ……。
距離が分からない。
近いと思えば遠く、遠いと思えばすぐ足元で鳴っているようにも聞こえる。
音に場所がない。
ソウマはゆっくりと目を閉じる。
自分の鼓動だけが聞こえる。
ドクン。
ドクン。
その合間へ、小さな音が紛れ込む。
――ハタッ……。
規則性はない。
二度続けて鳴ることもあれば、しばらく何も聞こえないこともある。
だからこそ待ってしまう。
次の音を。
人は、来ると分かっている恐怖よりも、いつ来るか分からない恐怖の方が耐え難い。ソウマはそれを知識として知るのではなく、身をもって知らされていた。
恐る恐る目を開いても、視界は変わらない。
止まった王都。
止まった人々。
止まった炎。
何も変わっていない。
変わっているのは、自分だけだった。
「……帰りたい」
無意識に零れたその声は、この止まった世界へ来てから初めて口にした心からの音だった。
(……誰かに助けてほしい。俺一人ではどうにもならない」
気付けば声に出していた。
そのあとでソウマは乾いた笑い声を上げた。
「はははっ、はははは、ははははは……は…………」
途中で馬鹿みたいに思え、寂しく、虚しい気持ちになる。
「来られるはずがない。ここは、自分しか動けない世界なのだから」
そう自虐的に呟いた。
その瞬間だった。
キラリ
視界の端で、何かが光った。
ソウマは反射的に顔を向けた。
二階建ての小さな民家の前にある、割れた縦鏡だった。
その鏡が燃え盛る炎を反射している。
ただ、それだけ。
……のはずだった。
鏡の向こうに、人影が映っていた。
ソウマは鏡に映る人物を凝視した。
「誰だ……?」
鏡にはソウマは映っておらず、別の見知らぬ人物が映っていた。
しかし振り向いても、誰もいない。
ソウマはますます何も分からなくなった。
しかしそれは、絶対に忘れることのない人物だった。
ソウマは気付けないでいた。
その姿は――
変わり果てた、自分自身だということに。
◆◇◆
ソウマはまだ鏡を見ていた。
目を逸らさず、瞬きすらしない。
奇妙なほど確かな既視感のあるその姿の正体を、知ろうとしていた。
しかしいつまで経っても分からない。
当事者とは、事実によって決まるものではない。
自らを当事者だと認識した、その瞬間にだけ成立する概念だ。
だからこそ、その者の言葉は他者の誰より重く、「真実」という力を持つ。
逆に、その認識を失えばどうなるのか。
たとえ事実として同一人物であっても、世界はそれを同じ存在として扱わない。
ソウマは、その矛盾の中に立っていた。
鏡へ映る姿が神凪ソウマであろうと、ソウマ自身がそれを自分だと理解できない限り、それは神凪ソウマではない。
名も知らぬ、赤の他人。
ソウマは記憶を辿り続ける。記憶の奥底まで漁り、考え得る限りを尽くしても分からないその正体。
分からない。
そのたった一つの事実だけが、ソウマの困惑は深め、静かな恐怖を育てていく。
ソウマは鏡から目を逸らした。
限界まで探しても分からないままならば埒が開かない。
さらに向かうべきは王城だ。
目的を失ってはいけない。
そういう判断だった。
ソウマは歩き始めた。
もう振り返らない。
振り返ったところで、答えがあるとは思えなかった。
今の王都には異常が溢れている。
一つ一つ確かめていては、いつまで経っても王城へ辿り着けない。
だから前を見る。前しか見ない。
それを繰り返した。
石畳は次第に幅を広げ、左右へ並んでいた建物も少なくなっていく。
視界が開ける。
王城を囲む巨大な外壁が、ようやくその全貌を現した。
近くで見ると、その大きさは想像以上だった。
白石を幾重にも積み重ねた城壁は、周囲のもの全てを断絶する山脈のように高く、庶民の生活の営みを拒む高貴さと威厳があり、遥かな大空へ向かってそびえ立っていた。
しかし今はところどころに亀裂が走り、崩れた石材が地面へ散乱している。
それでも、不思議と崩れ落ちることは絶対にないと確信できた。
ソウマは立ち止まり、ゆっくりと門を見上げる。
門は半ばまで開いていた。
薄く、しかし硬すぎる鉄と白い石で造られた巨大でありながら上品な門。
人の力だけでは到底動かせそうにない。
その隙間から、王城の前庭が僅かに見える。
静かだった。
あまりにも静かだった。
街の静寂とは別種。
音が止まっているのではない。
音という概念そのものが存在していない。
そんな錯覚を覚えるほど、門の向こうは異質な静けさだった。
ソウマは知らず知らずのうちに息を潜めていた。
胸の奥が、僅かに熱を帯びる。
「……?」
心臓ではない。
脳内のどこかだった。
鼓動とは別に、何かが脈打っている。
ドクリ。
目の前にある王城に本能が応えたような感覚だった。
ソウマは胸へ片手を当てる。
熱はすぐに消えた。
しかし、依然として指先と脳内にはまだ鼓動とは違う余韻が残っている。
視線を門へ戻す。
開いた隙間は、人一人が通るには十分だった。
それでも、あと数歩、それだけの距離がひどく遠いように感じる。
「なんで……?」
足が動かない。恐怖でも警戒でもない。
もっと根源的な感情。
理覚?
拒絶?
生存本能?
それとも――
「――あっ」
境界。
ふと、その言葉がソウマの脳裏をよぎる。
あの広場で老騎士が口にした言葉。
『既に境界は破られている』
意味は分からない。
だが今、その言葉が妙な重みを持って胸へ沈んでいく。
王都でも、停まった世界でもない。
ここから先は、空間そのものが違う。
ソウマはゆっくりと拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
その痛みを確かめるように、一度だけ深呼吸をした。
「……行くしか、ない」
絞り出した声は震えていても、確かな一歩を踏み出した。
石畳を踏む乾いた音が、止まった世界の空間に響いていた。
◇◇◆
その音は門を越えた瞬間、すっと消えた。
全く音がしない。
反響もせず、音そのものの存在が定義されていない。
最初から音など存在しないと、この空間そのものに示された。
ソウマは思わず足元を見る。
石畳は同じだ。
材質も敷き詰め方も変わっていない。
だが確かに、世界の手触りだけが変わっていた。
空気は重くも、変に冷たくもない。
しかし呼吸をするたび、自分が少しずつ空間から切り離されていくような感覚があった。
ソウマは後ろを振り返る。
停止した王都の街並みと、動かなくなった人々、戦闘で崩壊した建物。
すべてが門の向こうに残されている。
ほんの数メートル。
その数メートルが、ひどく遠い。
もう二度と戻れない場所を見ているような寂しさが流れる。
その謎の寂しさを振り切るように、ソウマはゆっくりと前を向く。
門の先には、白い石畳が王城の入り口まで真っ直ぐ続いている。
その奥は、薄い白靄に包まれていた。
もう王城なのか、それとも別の建物なのか。
それはまだ判別できない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この先に、自分の求める問いの答えがある。
ソウマは静かに息を吸い、気持ちを整える。
そして、ようやくその白い道を歩き始めた。
【今回の小ネタ】
人間の脳は、「あるはずのもの」が突然なくなると、その異常にすぐ気付けるとは限りません。
例えば、部屋に置いてある時計の音。
普段は意識していなくても、電池が切れて急に止まると「何かおかしい」と感じた経験はありませんか?
これは、脳が無意識のうちに周囲の音を「世界の一部」として処理しているからです。
逆に言えば、その音が消えても、脳はすぐには「音がなくなった」と認識できません。
ただ漠然とした違和感だけが残り、その原因を探し始めるのです。
怖いのは、その違和感に理由が見つからない時。
人は説明できない異常を前にすると、不安や恐怖をどんどん膨らませてしまいます。
もしかすると、本当に恐ろしいのは「何かが現れること」ではなく、「当たり前だったものが、静かに消えていること」なのかもしれません。
【終わりに】
停止世界編はまだまだ続きます。
お楽しみに。




