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静かなる踊場

 そう言って老騎士は細身の剣を王城に向けた。


 ゴォン――。


 遠くで鐘が鳴る。

 重い音だった。

 一度。

 二度。

 三度。

 周囲の騎士たちの顔色が変わる。

 誰もが王城を見上げる。

 ソウマも振り返った。


 王城の遥か上の空。

 その中心に――


 黒い点が見えた。


 王城の遥か上空。

 立ち入ることも立つことすらもあり得ない場所に。

 人影が見えた。

 揺れない。

 落ちない。

 動かない。

 ただ空を背に立っている。

 ソウマはその姿を見続けていた。

 しかし、まるで"見るな"とでも言っているように拒否反応が起きた。

 そして。

 空の影が。

 ほんの僅かに。

 こちらを向いた気がした。


 頭の奥。

 脳そのものを掻き回されているような不快感。

 ソウマは思わず目を閉じた。

 吐き気が込み上げる。

 呼吸が乱れる。

 膝をつきそうになる身体を無理やり支えた。


「っ……」


 思考そのものへ混ざってくるような異物感。

 あの世界で何度も感じた感覚。

 視界の端が揺れている。

 建物の輪郭が歪む。

 人々の姿がブレる。

 まるで世界そのものへ雑音が混ざっているかのようだった。


 ソウマは再び空を見上げる。

 影はまだそこにいた。

 王城上空。

 歪みの中心。

 黒い点。

 あまりにも遠い。

 顔など見えるはずがない。

 それでも、間違いなくソウマを見ている。

 そんな確信があった。


「……誰だ」


 掠れた声が漏れる。

 当然、返事はない。

 空の人影は動かない。

 ただ存在している。


 ザッ、と言う素早い音が聞こえた。


 広場の空気が変わった。

 騎士たちが一斉に立ち上がる。

 カツカツという少し焦りの伝わる大勢の足音。

 素早い伝令。

 慌ただしい足音。

 何かが起きていた。


「王城正門より後退!」


 誰かが叫ぶ。


「全隊後退だ!」


 広場の緊張が一気に高まる。

 負傷者たちが運ばれる。

 騎士たちが一斉に剣を鞘から抜いた。

 シャキン、という音が所々から聞こえてくる。

 その様子を見ながら、ソウマは眉をひそめた。


 後退。


 その言葉が引っ掛かった。

 戦線が押されている。

 だが少し不可解だった。


 誰も敵について話さない。

 何と戦っているのか。

 どこから来たのか。


 誰一人として口にしない。

 その時。

 広場へ数人の騎士が駆け込んできた。

 金属製の鎧は錆び付いているのかと思うほど血の臭いが染み付き、血に染まり不自然なほど赤かった。

 一人は肩を失っている。

 別の一人は顔面の半分が焼け爛れている。

 惨状だった。

 周囲がざわめく。

 老騎士が静かに、しかし素早く近づく。


「どうした」


 息を切らしながら戻ってきた騎士は答える。


「駄目です……!」


 声が震えていた。


「第三中尉隊も壊滅しました!」


 広場が静まり返る。

 誰も声を出さない。

 戻ってきた騎士は肩で息をしながら続けた。


「近付け……ません!」


「何だ、何がいたんだ」


「分からないんです!ぐっ、ゲホッ!」


 騎士が叫ぶ。

 そして血を吐いた。


「おい、しっかりしろ!おい!」


 老騎士の呼びかけにも、その騎士は応じなかった。


「見えては……いたんです……」


「喋るんじゃない、ゆっくり呼吸をしろ!」


「見えてるのに……分からなかった……」


 沈黙。

 ソウマは思わず老騎士を見る。

 その表情は涙は流していなくとも、大きく歪んでいた。


「……ごめんなさい……団長……」


 そのままその騎士は、息絶えていった。

 沈黙だけが流れている。

 ソウマの背筋へ冷たいものが走る。


「……隊長」


「……何も言うな」


 声は震えてはいなかった。

 老騎士は唇を噛んだ。


「……行くぞ」


 ソウマはだんだんと離れていくその姿を見送った。


 ◇◇◇


 ソウマは再び空を見上げた。

 人影はまだそこにあった。

 その時、あることに気付いた。

 空の人影とは別、城壁の尖塔。

 最も高い塔の先端。

 そこにも、誰かが立っていた。


「……?」


 目を細める。

 距離が遠い。

 顔は見えない。

 その人物は空ではなく、街の方を見下ろしている。

 避難民たちを。

 騎士たちを。

 崩壊していく王都そのものを。

 ソウマは無意識に一歩踏み出した。


 知っている。


 あいつを。

 どこかで。

 確実に。

 見たことがある。

 その瞬間。


 塔の上の人物がゆっくりと顔を上げた。

 距離はある。

 声も届かない。

 それでも、視線が合った。

 そしてその顔を見た時――

 ソウマの呼吸が止まった。


 似ていた。


 あまりにも。

 その姿は――


 あの人を見ているようだった。


 ソウマは動けなかった。

 距離は遠い。

 それでも――

 似ている。

 嫌になるほど。


 髪の長さでもない。

 体格でもない。

 もっと本能的な感覚。

 立ち方。

 視線。

 そこにいるという感覚そのものが、あの人と重なって見えた。


「……なんで、ここに」


 困惑と恐怖の織り混ざった声が漏れる。

 あの人は動かない。

 ただ街を見下ろしている。

 まるで全てを見届けるためにそこへ立っているかのように。


 ゴォン――。


 鐘の重い音が鳴った。

 王都全体を震わせるような低音。

 二度目。

 三度目。

 四度目。

 鐘は止まらない。

 ソウマにも分かった。

 何かが起きている。

 その中でも、王城の上空だけが異様な静けさを保っていた。

 黒い人影。

 尖塔の人物。

 全てがそこにある。

 それでも現実感がない。

 まるで景色だけ別の世界のものになってしまったようだった。

 ソウマの頭へ再びノイズが走った。


 ジジッ――。


 短い。

 だが今までと違った。

 ただの雑音ではない。

 何かが混ざっている。

 言葉だった。

 聞き取れないほど小さい。

 それでも確かに。

 声だった。


『――て』


 ソウマの目が見開かれる。


(……今のは)


 ピピピーッ――。

 雑音が混じる。

 そして。


『見――』


 途切れる。

 頭痛が強くなる。

 呼吸が乱れる。

 だが耳だけはその声を追っていた。

 どこから聞こえる。

 立体音響を聴いているような、内側からの音。


『見つ――』


 言葉が崩れる。

 ソウマは歯を食いしばった。

 聞かなければならない気がした。

 聞き逃してはいけない。

 ソウマは最大限感覚を研ぎ澄ませた。

 そして。

 次の瞬間。

 声は、はっきりと聞こえた。
































『見つけて』
































 ――世界が止まった気がした。



 性別は分からない。

 年齢も分からない。

 聞いたことがある。

 どこかで。

 確実に。

 だが思い出せない。


 ドクン――。


 王城上空の歪みが大きく脈打った。

 空が揺れる。

 景色が波打つ。

 人々の悲鳴が響く。

 そして、歪みの中心から何かが落ちてきた。

 黒い。

 細長い。

 最初はそう見えた。

 だが違う。

 人だった。

 騎士だった。

 鎧を着ている。

 しかし、それはすぐに過去形へと変わってしまった。

 身体が崩れている。

 輪郭そのものが溶けている。

 黒い染みのようなものが全身を覆っていた。

 その騎士は王城の城壁へ叩き付けられた。

 轟音。

 石が砕ける。

 どこからか悲鳴が上がった。

 だが、騎士は立ち上がらなかった。

 動かない。

 血も流れない。

 代わりに、黒いものだけが広がっていく。

 城壁の上を。

 石畳の上を。

 ゆっくりと。

 じわじわと。

 生き物のように。


「……っ」


 ソウマの顔色が変わる。

 知っている。

 あれを知っている。


 足元を這っていた黒い滲み。

 右腕へ触れた異常。

 あれと同じだった。

 その瞬間。


 広場に残っていた騎士たちが後退る。

 誰も近付かない。

 近付けない。

 まるで本能が拒絶しているようだった。

 そして、ソウマだけが見てしまった。


 城壁へ広がる黒い滲みの中。


 何者かが立ち上がるのを。


 輪郭は揺れ、滲む。

 ただ黒い。

 あの世界で何度も見た姿。

 忘れるはずがない。



 黒い人型だった。



「――っ!」


 呼吸が止まる。

 周囲の騎士たちは気付いていない。

 見えているのかもしれない。

 しかし理解は出来ていない。

 それでも、ソウマには分かった。


 あれだ。

 あれが始まりだ。


 あの世界で追い続けた異常の。



 全ての始まりが――そこにいた。


 ◇◆◇


 黒い人型は動かなかった。

 城壁の上。

 黒い滲みの中心。

 ただ立っている。

 それでも、目を離すことは出来なかった。

 ソウマの喉が鳴る。

 広場で。

 路地で。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度だって世界中の鏡面へ映り込んでいた異形。


「なんで……」


 掠れた声が漏れる。

 周囲の騎士たちは後退を続けている。

 誰も近付かない。

 黒い滲みへ恐る恐る剣を向ける者はいる。

 だが踏み込む者はいなかった。

 それどころか、向けた剣全てがガタガタと震えていた。


 しかしソウマはその点には思考を向けていなかった。

 ソウマはあることに気付いていた。


 彼らの視線は黒い人型へ向いていない。

 滲みを見ている。

 そこへ生まれた異常そのものを見ている。


 まるで、黒い人型だけが認識から零れ落ちているような――

 そんな視線。


「……見えてないのか?」


 ソウマは眉をひそめる。

 その時、一人の騎士が前へ出た。

 若い男だった。

 震えている。

 それでもしっかりと剣を握っていた。

 周囲から制止の声が飛ぶ。


「駄目だ、やめろ!」


「危ない、戻れ!」


 騎士は聞かない。

 聞こえていないかのように前に進む。

 一歩。

 また一歩。

 黒い滲みへ近付いていく。

 ソウマは思わず息を止めた。

 騎士が剣を構える。

 距離は十歩ほど。

 黒い人型が顔を上げた。

 その瞬間だった。


 騎士の身体が止まる。

 ぴたりと。

 動かない。

 剣を構えたまま固まっている。

 広場が静まり返った。

 誰も声を出さない。


 数秒。

 あるいは十数秒だったかもしれない。

 やがて。


 騎士の身体が崩れた。


 膝から、糸の切れた操り人形のように。

 ゆっくりと、前へ倒れる。


「おい、しっかりしろ!」


 仲間の騎士数人が駆け寄る。

 そして大声で呼びかけた。

 しかし、返事はない。

 騎士は動かない。


 その身体へ黒い滲みが触れていた。


 じわりと。

 水へ墨を垂らしたように。

 鎧を覆っていく。

 ソウマは目を塞いだ。

 騎士の輪郭が揺れていた。

 黒い人型と同じように。

 ぼやけている。

 滲んでいる。

 存在そのものが曖昧になっていく。


 周りの駆け寄った騎士たちも、同じように体が崩れ――



 消えた。



 音もなく。

 悲鳴もなく。

 血も残さず。

 最初からそこにいなかったかのように――


 消えた。


 広場から息を呑む音が漏れる。

 誰も理解できていなかった。

 ソウマも同じだった。

 見ていた。

 確かに見ていた。

 それでも――


 今、自分は何を見たのか。

 上手く説明できない。

 記憶の輪郭が曖昧になる。

 思い出そうとすると頭が痛んだ。

 その時だった。


 黒い人型が動いた。

 一歩。

 前へ。

 それだけだった。

 しかし、その一歩は王都に大きな衝撃を及ぼした。

 その一歩に連動するように、王都全体が震える。

 耳をつんざくような轟音。

 遠くで建物が崩れる音がした。

 悲鳴。

 怒号。

 地鳴り。

 全てが同時に響いた。

 まるで世界そのものが、その一歩へ反応したかのようだった。


「どうして……」


 ソウマは呟く。

 その声は誰にも届かない。

 黒い人型は再び歩き出した。

 王城ではない。

 広場でもない。

 真っ直ぐ。

 まるで何かを目指しているような足取りだった。

 その足取りの先を見たソウマは気付く。

 その進行方向にあるものを。


 王城の、最も高い尖塔。

 その頂上。


 先ほど見た人影がまだ立っていた。

 王都を見下ろしながら。

 何一つ動かずに。

 黒い人型はその人物へ向かっている。

 違う。

 ソウマは信じ難い様子で目を開いた。

 向かっているのではない。

 最初から、互いを見ていたのだ。

 遠く離れた場所から。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 まるで、再会の時を待っていたかのように。

 その瞬間。


 塔の上の人影が僅かに動いた。

 風が吹く。

 長い銀髪が揺れる。

 そして、人影はゆっくりと剣を抜いた。

 ソウマの心臓が大きく弾けた。


「なんで……ここに……」


 あの細身の剣を。

 あの凛とした立ち姿を。

 あの幼さの残る横顔を。

 あり得ない。

 絶対にそんなはずはない。

 それでも、その確信は強まるばかりだった。

 尖塔の上に立つその人物は――



 どこまでも、リリアに似ていた。



【今回の小ネタ】

認知心理学には「選択的注意」という考え方があります。

人間の脳は、一度に処理できる情報量に限界があるため、視界に映る全てを認識しているわけではありません。

脳が「重要ではない」と判断した情報は、見えていても意識に上らず、そのまま見過ごされてしまうことがあります。

有名な実験では、目の前をゴリラの着ぐるみを着た人物が横切っても、多くの人はその存在に気付かなかったそうです。

つまり、「見えている」と「認識している」は、決して同じではありません。


え?見えているのに誰一人として認識できない存在が、本当にいるとしたらって?

それはもう、ご察しの通りです。

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