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因果の背理

軽い息入れ回です。

 


 何も見えなかった。



 目を開いているのか閉じているのか、それすら分からないほどの暗闇。

 視界は黒く塗り潰されている。

 夜道とも違う。

 洞窟の奥とも違う。

 光が届かないということはどういうことか知っているつもりだったが、全く違うような闇。

 距離が存在しない。

 奥行きがない。

 どれだけ目を凝らしても、何一つ輪郭を見つけることが出来なかった。


 ソウマはゆっくりと息を吸った。

 つもりだった。


 胸が動いた感覚はない。

 肺へ空気が入った感覚もない。

 それでも"動いた"という意識だけははっきりしていた。

 身体があるのかどうかさえ曖昧なのに、自分がここに存在しているという事実だけが、不自然なほど鮮明だった。


「………………」


 声を出した。

 しかし、何も聞こえない。

 理解が出来ない。

 空気が震えたことが分かるだけだ。

 しばらく待っても何も返ってこない。

 自分の呼吸も。

 衣擦れの音も。

 心臓の鼓動すら。

 何も感じない。


 静かだった。

 あまりにも静かだった。

 あの止まった世界の静寂とも違う。

 あの世界には自分の足音があった。

 自分の呼吸があった。

 考える音があった。

 だが、ここには何もない。

 音だけが失われているわけではない。

 時間の感覚も曖昧だ。

 どれほどここにいるのか分からない。

 落ちたばかりなのか。

 何時間も経っているのか。

 それとも――。


 ソウマは考えるのをやめた。

 考えたところで答えが出る気がしなかった。

 代わりに右手を握ろうとした、その時だった。


 ソウマは再生したばかりの右腕の違和感に気づいた。

 感覚が薄い。

 あの世界で感じていた違和感とは少し違う。


 もっと遠い。

 そこにあるはずなのに、そこへ触れられない。

 そんな奇妙な感覚だった。


 握る。

 開く。

 握る。

 開く。


 動いている気はする。

 握れている気はする。

 だが、本当にそうなのか確信が持てない。

 確かめる方法がない。

 見えない。

 触れられない。


 ソウマは眉をひそめる。

 理覚が少しずつざわめいている気がする。

 まるで鬚ィに吹かれるように。

 静かな湖面へ波紋が広がるように。

 嫌な予感がしていた。

 この暗闇に長く留まってはいけない。

 その時だった。


 カラン――。


 小さな音がソウマの耳に響いた。

 思わず身体が強張る。


(……音だ。間違いない)


 硬い何かが転がるような音。

 聞き覚えがある。


 銅貨。


 あの世界で聞いた音と同一なのではないかというほど似ている。

 だが、音は続かない。

 静寂が戻る。

 気のせいだったのかと思わされるほどの静けさ。

 その時。


 今度は別の音がした。


 遠い。

 酷く遠い。

 それでも耳元で囁かれているようにも聞こえる。


「Тебе не следовало сюда приходить.」


「Теперь пути назад нет.」


 誰かが話していた。

 一人ではない。

 しかし、一人で話しているようにも聞こえる。

 言葉は分からない。

 内容も聞き取れない。

 声だけがある。

 意味だけが抜け落ちている。

 夢の中で誰かの会話を聞いている時の音に似ていた。


 ソウマは耳を澄ます。

 何か聞こえるかもしれないと思った。

 しかし駄目だった。

 声は徐々に遠ざかり、やがて静寂へ溶けていく。

 何も残らない。

 再び黒だけが広がった。

 その時だった。


 視界の奥で何かが瞬いた。

 ソウマは目を細める。

 光だった。

 小さい。

 あまりにも小さい。

 最初は見間違いかと思った。

 だが違う。

 確かにそこにある。

 暗闇の中で、微かな光だけが揺れていた。

 そして少しずつ大きくなる。

 近付いているのか。

 自分が近付いているのか。

 分からない。

 ただ距離だけが縮まっていく。

 光は一つではなかった。


 二つ。

 三つ。

 さらに増える。


 気付けば無数の輝く星になっていた。

 暗闇へ散らばっていた光が輪郭を持ち始める。


 炎。

 建物。

 石畳。

 鐘楼。


 ソウマは息を呑んだ。


 見覚えがある。

 見間違えるはずがない。



 アストレアルだった。



 停止した王都。

 自分が歩き続けた街並み。

 抜け出せない広場。

 そしてそこに立つ、黒い人型。

 だが様子が違う。


 炎が揺れている。

 煙が流れている。

 髪が靡いている。

 誰かが走っている。

 楽しげな声が聞こえる。



 世界は、生きていた。



「……なんでだよ」


 思わず呟く。


「俺の時は……!」


 その瞬間だった。


 視界が大きく揺れた。

 景色が一気に迫ってくる。

 身体が引っ張られる。

 浮遊感。

 重力。

 耳鳴り。

 失われていた感覚が一度に戻ってくる。

 ソウマは反射的にぎゅっと目を閉じた。

 次の瞬間。


 誰かの悲鳴が響いた。


 幾つもの声が重なり合い、押し潰されるように空へ溶けていく。

 ソウマは思わず目を開いた。


 眩しい。


 反射的に顔をしかめる。

 ついさっきまで何も見えなかったはずのこの場所が、今度は逆に明るい。


 炎だった。


 建物のあちこちから煙が立ち昇っている。

 空は赤く染まっていた。

 夕焼けではない。

 燃えているのだ。

 空そのものが。


「――っ」


 ソウマは咳き込んだ。

 熱気が喉を焼く。

 肺へ流れ込む空気に灰の匂いが混ざる。

 足元へ視線を落とすと、石畳が目に入る。


 王都アストレアル。


 時間が止まった世界で何度も歩いた街並み。

 だが、それとは違う。

 決定的に違う。


 人がいた。


 広場を埋め尽くすほどの人々が。

 避難民。

 騎士。

 荷車。

 泣き叫ぶ子供。

 怒鳴る大人。

 誰もが慌ただしく動いている。

 止まっていない。

 呼吸をしている。


 生きている。


 ソウマは呆然と立ち尽くした。

 理解が追いつかない。

 止まった世界ではない。

 それだけは分かった。

 あの異様な静寂は存在しない。


「なんだよ……ここ」


 掠れた声が漏れる。

 その時だった。

 ソウマのすぐ横を誰かが駆け抜けた。

 少女だった。

 十歳くらいだろうか。

 涙を流しながら広場を横切っていく。

 母親らしき女性が後ろから必死に追い掛けていた。


「待ちなさい!」


 叫び声。

 少女は振り返らない。

 ソウマは反射的に手を伸ばした。


「危ない!」


 ソウマはそう叫び、少女の肩を掴もうとした。

 しかし。



 指先は何の抵抗もなく、少女の肩を通り抜けた。



「――は?」


 間の抜けた声が漏れる。

 少女は止まらない。

 気付かない。

 そのまま人混みの中へ消えていった。

 ソウマは自分の手を見る。

 握る。

 開く。

 ちゃんと動く。

 感覚もある。

 さっきまでの暗闇よりは遥かにはっきりとしていた。

 それでも――


「今……」


 言葉が続かない。

 見間違いではない。

 確かに触れた。

 いや。

 触れようとした。

 だが触れられなかった。

 まるで最初からそこに何も存在していなかったかのように。

 少女の肩を通り抜けていった。

 ソウマは周囲を見回す。

 近くにいた男へ歩み寄る。

 避難民だった。

 大きな荷物を抱え、額から汗を流している。


「どこ行くんだ!」


 並走しながら呼びかける。

 反応はない。

 男は走り続ける。


「おい!」


 今度はさらに大きな声を出した。

 それでも振り向かない。

 聞こえていない。

 それは絶対にない。

 これだけの距離だ。

 だが男はソウマを見ない。

 存在にすら気付いていない。


「もうこれしか……!」


 ソウマは男の進路へ立った。

 そして両手を横に広げる。


 正面。

 真正面だった。


 ぶつかる。


 そう思った――次の瞬間。



 男はソウマの身体を通り抜けた。



「っ――!」


 ソウマは慌てて後ろを振り向いた。

 男は何事もなかったかのように走っている。

 気付いていない。

 誰も。

 本当に誰も。


 ソウマを認識していなかった。


 ソウマは広場の中央で立ち尽くしていた。

 人々は動いている。

 騎士たちが叫んでいる。

 避難民が走っている。

 世界は確かに存在している。

 自分だけがこの動いている世界に存在していない。

 奇妙な感覚だった。

 まるで夢の中に入り込んだような――

 世界と自分の間へ、薄い膜が一枚挟まっているような違和感。


 その時。

 アストレアル中に轟音が(こだま)した。

 地面が揺れる。

 広場の空気がざわめく。

 ソウマは反射的に顔を上げた。


 王城だった。


 白亜の王城。

 あの世界でも見えていた王城の上空で、何かが揺らいでいた。

 陽炎に似ている。

 しかし違う。

 空そのものが裂けているように見える。

 景色の一部だけが歪んでいる。

 その周囲では雲の流れまで狂っていた。

 まるでこの世界に刻まれた傷跡のようだった。

 ソウマは目を細める。

 どこかで見た気がした。


 停止世界。

 黒い人型。

 王城へ吸い寄せられていた灰。


 パズルのピースのように、頭の中で答えが完成してくる。

 頭の奥で何かが繋がりかけた。

 だが、答えには届かない。

 届く前に、別の声が耳へ飛び込ん出来た。


「急げ! 広場も危険だ!」


 鎧姿の男が避難民たちへ叫んでいる。


「西門へ向かえ!」


「立ち止まるな!」


 怒号が飛ぶ。

 その声に押されるように、人々が流れる。

 広場全体が一つの方向へ動き始めた。

 その流れの先を見ながら、ソウマはふと違和感を覚えた。

 誰もが王城から離れようとしていた。

 誰一人として近付こうとしない。

 それでも、ソウマの視線は王城へ引っ張られていた。

 理覚がざわめいている。


 王城に何かがある。


 そんな確信だけがあった。


 ソウマは歩き出す。

 王城方向へ。

 足は自然と動いていた。

 広場を抜ける。

 避難民たちの間を通る。

 違う。

 正確には、通り抜ける。

 肩がぶつかることはない。

 人々はソウマへ気付かない。

 身体は互いをすり抜ける。

 何度経験しても慣れなかった。


 自分だけが世界から切り離されている。


 そんな感覚がじわじわとソウマの胸の奥へ広がっていった。


 通りへ出る。

 あの世界で見た景色と完全に一致していた。

 並ぶ建物。

 道に敷き詰められた石畳。

 不可思議なほどに何食わぬ顔で水を出している噴水。

 店の看板や売られているもの、書かれている文字さえ全て同じだった。

 違うのは全てが動いていることのみ。

 窓から荷物を投げ出している人がいる。

 店の戸を閉めようとしている人がいる。

 泣きながら祈る人もいた。


 王都は生きていた。

 そして同時に、壊れかけていた。


「逃げろ!」


 遠くで誰かが叫ぶ。

 その直後だった。

 鼓膜を破るほどの轟音が響いた。

 建物が揺れる。

 石畳が震える。

 人々の悲鳴が上がった。

 ソウマは反射的に音の方を見る。

 アストレアル全体を囲うようにそびえる防壁の一部が崩れていた。

 しかし攻撃を受けたようには見えない。

 まるで外部からではないような――

 内側から崩れているような違和感。

 ソウマは眉をひそめる。

 その時だった。


 視界の端を黒いものが横切った。


「――!」


 反射的にその方向に目を凝らす。

 通りには避難民しかいない。

 しかし見えたのは、黒い影。

 人影にも見えた、謎の黒。

 ソウマはしばらく周囲を見回す。

 しかしそれらしき存在は見当たらなかった。


(見間違い……?)


 ソウマの頭にその考えが浮かんだ瞬間。

 頭の奥で小さなノイズが鳴った。


 ジジッ――。


 短い。

 だが聞き覚えがあった。

 あの世界で何度も聞いた音。

 そして、ソウマの存在が観測されなくなってから、一度も聞こえなかった雑音。

 顔色が劇的に変わる。


「おい……」


 ぐわんぐわんと理覚が異常であることを知らせるように揺れている。

 王城を見る。

 空間の歪みはさらに大きくなっている。


 煙が吸い寄せられている。

 風向きに逆らうように。

 灰が舞っている。

 石の欠片まで。

 全てが王城方向へ引かれていた。

 まるでアストレアル全体が少しずつ王城へ呑み込まれているような――

 そんな動きをしていた。


 ソウマは足を速める。

 王城へ近付くほど人の数は減っていく。

 代わりに騎士の姿が増えていた。

 規制線が張られている。

 避難民を近付けないためだろう。

 だがソウマには関係なかった。

 誰も自分を認識しない。

 止める者もいない。

 騎士たちの間を通り抜けながら先へ進む。


「結界が持ちません!」


 若い男の声だった。

 ソウマは足を止める。

 通りの先。

 数人のローブ姿が集まっている。

 騎士ではない。


「時間は」


 年配の男が問う。

 答えた若い男は青ざめていた。


「分かりません……。侵食速度が予測を超えています……!」


 侵食。


 ソウマの胸がざわつく。

 聞き覚えがある。

 あの世界よりも、もっと最近。

 黒い滲み。

 右腕。

 頭の奥で何かが引っ掛かった。


「王都全域へ拡大する可能性は」


「既に北区画へ到達しています……。時間の問題かと……」


 短い沈黙。

 誰も言葉を続けない。

 言うまでもないことだったのかもしれない。

 やがて年配の男が小さく息を吐いた。


「王へ報告する」


 その声は静かだった。

 しかし、不思議なほど力がこもっていた。

 ソウマはローブ姿の男たちを見つめる。

 侵食。

 結界。

 王。

 断片的な言葉だけが耳へ残る。

 何も分からない。

 それでも一つだけ確かなことがあった。

 今、自分が見ているものは――



 あの世界にソウマが行く前に起きた出来事なのかもしれない。



 そんな考えが浮かび上がってきていた。


 ソウマは魔導士たちの背中を見送った。

 彼らは足早に王城方向へ消えていく。

 誰一人として立ち止まらない。

 焦りはある。

 だが混乱はない。

 まるで既に覚悟を決めている人間の歩き方だった。


「……侵食」


 小さく呟く。

 言葉だけが耳に残っていた。

 侵食。

 黒い滲み。

 人型。

 右腕。

 停止世界。

 頭の中で幾つかの記憶が繋がりかける。

 しかし答えは見えない。

 掴みかけたものが指の隙間から零れ落ちていくような感覚だけが残った。


 ソウマは再び歩き出す。

 王城へ近付くにつれて、街の様子は変わっていった。

 人の姿はなくなり、店は閉ざされ、窓ガラスは割れている。


 戦場だった。


 通りの角を曲がった時だった。

 小さな広場が見える。

 中央には噴水。

 一度通った広場に似ていた。

 周囲には騎士たちが集まっている。

 負傷者の治療が行われていた。

 錆びた金物の匂いがする。

 簡易的な担架が噴水の周りに無造作に置かれている。

 包帯を巻く者。

 泣き崩れる者。

 祈る者。

 誰もが余裕を失っていた。

 ソウマは足を止める。

 視線の先。

 若い騎士が地面へ座り込んでいた。


 両腕と片足がない。


 失われている。

 巻かれた包帯には血が滲んでいた。

 騎士は歯を食いしばっている。

 隣では年配の騎士が何かを話していた。

 ソウマは近付く。

 当然、誰も気付かない。


「北区画は終わりだ」


 年配の騎士が低く言った。

 若い騎士は顔を伏せる。


「隊長は……」


「戻らなかった」


 あくまでも淡々と。

 事実のみを伝えるように。

 しかしその声からは、抑えきれない焦りと恐怖が滲み出ていた。

 若い騎士の肩が震えた。

 年配の騎士は何も言わない。

 慰めもしない。

 やがて若い騎士が口を開いた。


「俺たちは……何と戦っているんですか」


 掠れた声だった。

 その問いに。

 年配の騎士はすぐ答えなかった。

 目を閉じる。

 数秒。

 いや、もっと長かったかもしれない。


「……分からん」


 そう言った。

 ソウマの眉が動く。


「……見たんですか……」


「……ああ」


「それなら……!」


「分からんのだ」


 年配の騎士は繰り返した。

 その顔には疲労が刻まれていた。

 恐怖とも違う。

 絶望とも違う。

 説明の出来ない感情だった。


「人の形をしていた」


 老騎士が言う。


「だが人ではなかった」


 ソウマの呼吸が止まりかける。

 脳裏に黒い人型が浮かんだ。

 輪郭が揺れる影。

 ガラスへ映る黒。

 停止世界で追い続けてきた存在。

 若い騎士が顔を上げる。


「……魔物ではないんですか」


「違う」


「……じゃあ何なんですよ……!そいつらは……!」


「……分からんのだ……!」


 老騎士は空を見た。

 王城方向。

 歪んだ空間を見つめる。


「確かに剣が届いた」


「……」


「確かに斬った」


 老騎士の声が僅かに震える。


「だが……手応えはなかった」


 ソウマは黙って聞いていた。

 周囲の音が遠ざかっていく。

 老騎士の声だけが妙にはっきり聞こえる。


「気付いた時には周りの仲間が消えていた」


 若い騎士が顔を強張らせる。


「消えた……?」


「……そうだ」


 老騎士は頷いた。


「死体すら……残らなかった」


 広場の上を灰が舞った。


「仲間の無念を晴らす為にも……我々が行かねばならんのだ……!」


 そう言って老騎士は細身の剣を王城に向けた。

実は、人間は「完全な無音」の空間に長時間いると、不安や違和感を覚えることがあります。


周囲の音が一切なくなることで、自分の鼓動や呼吸音ばかりが気になったり、方向感覚が狂ったように感じたりすることも。


今回の冒頭の「何も聞こえない暗闇」は、そんな現実の現象を参考にしています。

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