存在しない帰路
――ブツッ。
また音が消えた。
それは単なる静寂ではなかった。
誰かが世界そのものへ布を被せたかのように、空気の流れも、人の呼吸も、布の擦れる音も、遠くで聞こえていた負傷者の呻き声すら、一瞬で切断された。
「――っ」
ソウマの呼吸が止まる。
脳を直接擦られているような不快感と共に、視界の輪郭が微かに揺れた。
目の前で動いていたテュフォンが止まっている。
入口から飛び込んできた男も。
ガルドも。
全員が、時間ごと固定されたかのよう静止していた。
「……おい」
掠れた声が漏れる。
返事はない。
代わりに。
――コツ。
足音。
再びだ。
治療所の奥。
暗い廊下の向こうから、ゆっくりと音が響く。
ソウマの背筋へ冷たいものが走る。
知っている。
この感覚を、知っている。
だが、以前とは違う。
決定的に違う。
“近い”。
今までより、ずっと近くまで侵食されている。
そんな感覚があった。
――コツ。
――コツ。
足音が近づいてくる。
止まった空間の中、ソウマは呼吸を押し殺しながら、ゆっくりと廊下の奥を見つめた。
暗い。
だが、その暗闇の中で。
何かが揺れている。
黒い輪郭。
人型。
輪郭が滲み、空気へ溶けかけているかのよう不安定だった。
「……また」
掠れた声が漏れる。
黒い影は答えない。
ただ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その動きは、人間に似ている。
だが決定的に違う。
関節の動きが僅かにズレている。
呼吸がない。
存在感だけが異常に濃い。
まるで、“現実へ無理やり押し込まれた異物”を見るようだった。
「来るな」
ソウマが低く呟く。
影は止まらない。
一歩。
また一歩。
近づくたび、頭痛が強くなる。
ジジジジッ――。
ノイズが酷い。
視界が揺れる。
吐き気が込み上げる。
「っ……!」
ソウマは反射的に壁へ手をついた。
その瞬間だった。
黒い影の輪郭が、一瞬だけ崩れた。
「――?」
ソウマの目が細くなる。
今。
見えた。
輪郭の内側。
真っ黒な空洞の中に、何かがいた。
目だった。
大量の目。
人間のものではない。
黒い空間の奥で、無数の視線だけがこちらを見ていた。
「――っ!!」
全身へ悪寒が走る。
理解した瞬間、本能が拒絶した。
見てはいけない。
あれは駄目だ。
「っ、ぐ……!」
頭痛が激しくなる。
視界が歪む。
その瞬間。
黒い影が、ピタリと止まった。
そして。
ゆっくりと。
首を傾ける。
『思ったより近いね』
声が響いた。
ソウマの呼吸が止まる。
あの声だった。
暗闇の中で聞こえた声。
感情のない声。
男とも女ともつかない声。
「……何がだ」
喉が乾く。
声が震える。
影は答えない。
代わりに。
『君は、もう』
そこで言葉が途切れる。
次の瞬間。
――ガンッ!
世界へ音が戻った。
「ソウマ!」
ガルドの声。
空気が動く。
人が走る音。
呻き声。
全部が一気に押し寄せる。
ソウマは気づけば床へ膝をついていた。
呼吸が乱れている。
額から汗が流れていた。
「おい、大丈夫か!?」
ガルドが肩を掴む。
ソウマは答えない。
頭の奥で、まだノイズが鳴っていた。
ジジ……ジジッ……。
「先生!」
テュフォンが叫ぶ。
「北通りの避難が始まってます!」
外から悲鳴が聞こえ始めていた。
空気が変わっている。
さっきまでの緊迫感とは違う。
もっと直接的な恐怖。
崩壊の匂いだった。
「くそっ……!」
ガルドが舌打ちする。
「ソウマ、やっぱりお前はここに――」
「行くぞ」
即答だった。
「……」
「北通りだ」
ソウマは壁へ手をつきながら立ち上がる。
足元が揺れる。
身体は重い。
だが、じっとしている方が危険だった。
再生した右腕を見ながら言った。
「ようやく腕が再生しきったんだ。見せ場ぐらい作らせてくれよ」
「お前の状態は――!」
「分かった上でだ!」
ソウマの声は、生き生きとしていた。
「だからこそ行くんだよ」
ガルドは言葉を失った様子でソウマを見ている。
「……くそ」
ガルドが額を押さえる。
数秒考え込み、やがて低く吐き捨てた。
「分かった。俺も行く」
彼も理解したのだ。
ソウマの様子が明らかに普通ではないことを。
そして、そのソウマがここまで強く警戒している異常が、どれだけ危険かを。
「テュフォン」
ガルドが低く言う。
「地下を閉じろ。俺が戻るまで、誰も上へ出すな」
「……っ、はい!」
テュフォンが頷く。
ソウマはゆっくり入口へ向かった。
足元が揺れる。
視界が霞む。
だが、不思議と恐怖は薄かった。
代わりに。
妙な既視感があった。
(……またか)
何度も感じてきた感覚。
死の直前。
何かが決定的に壊れる直前。
あの感覚だった。
治療所の外へ出る。
瞬間。
熱風が頬を打った。
「……っ」
空が赤い。
遠くで炎が上がっている。
悲鳴。
怒号。
金属音。
右の方角から聞こえる。
「北通りはこっちだ!」
ガルドが先導する。
ソウマは後ろを追いながら、ゆっくり視線を巡らせた。
空気がおかしい。
街全体が歪んでいる。
「ついて来い。……死ぬなよ」
ガルドは小さく呟いた。
ソウマは返事をしなかった。
ある人物と、少し影が重なった。
北通りへ近づくにつれ、空気が変わっていく。
冷たい。
異様なほどに。
炎が上がっているはずなのに、肌へまとわりつく空気だけが妙に冷えていた。
そして。
「……止まれ」
ガルドが言う。
ソウマも足を止める。
通りの先。
崩れた石畳の中央。
黒い影は立っていた。
人型。
輪郭が揺れている。
周囲の空間ごと歪めながら、静かに立っている。
そして、その周囲に、数え切れないほどの死体が転がっていた。
騎士だった。
だが傷がない。
血もない。
ただ、“中身だけ抜け落ちた”みたいな顔で倒れていた。
ソウマの背筋へ悪寒が走る。
「……何だよ、あれ」
ガルドの声が震える。
その瞬間。
黒い影が、ゆっくりこちらを向いた。
ゾワッ、と空気が粟立つ。
頭の奥でノイズが爆発した。
ジジジジジジッ――!!
視界が揺れる。
耳鳴りが酷い。
吐き気。
頭痛。
全部が一気に押し寄せる。
「ぐっ……!」
ソウマが膝をつく。
その瞬間だった。
黒い影の輪郭が、僅かに揺れる。
そして。
“笑った”。
口などない。
顔の輪郭も曖昧だ。
それなのに、確かにそう見えた。
次の瞬間。
――ブツッ。
また世界から音が消えた。
炎の揺らぎが止まる。
避難民の悲鳴も、遠くの金属音も、全てが一瞬で切断されたかのように消え失せ、代わりに、耳の奥で鳴り続けるノイズだけが異様なほど鮮明に響いていた。
ジジジジジッ――。
「――っ」
ソウマは反射的に息を止めた。
冷たい。
異常なほど。
さっきまで炎に焼かれていた通りとは思えないほど空気が冷え切っている。
「……また、か」
掠れた声が漏れる。
横を見る。
ガルドは止まっていた。
腕を伸ばしかけた姿勢のまま。
表情も。
呼吸も。
瞬きすらない。
時間ごと固定されたみたいに動かない。
「っ……」
ソウマは奥歯を噛み締める。
何度も体験した。
この状態を。
死の直前に、時間が止まる世界。
しかし、違う。
あいつが、動ける。
建物の端。
石畳。
空。
全部がほんの僅かにズレて見えた。
「……っ」
吐き気が込み上げる。
そして。
目の前。
黒い人型だけが動いていた。
輪郭が揺れている。
人間の形をしているはずなのに、視線を合わせ続けるほど、輪郭そのものが曖昧になっていく。
空気へ溶けている。
あるいは、空間そのものと混ざっている。
そんな異様さがあった。
――コツ。
足音。
人型が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「来るな」
ソウマが呟く。
人型は止まらない。
一歩。
また一歩。
近づくたび、ノイズが強くなる。
ジジジジジッ――。
視界が揺れる。
世界が軋む。
ソウマは反射的に後退る。
その瞬間だった。
足元の石畳へ、黒い“滲み”が広がる。
「――は?」
影ではない。
何かの液体でもない。
だが、そうとしか認識できない黒が、停止した世界の地面をゆっくり這っていた。
そして。
それはソウマの足元へ向かって伸びている。
「おい……」
嫌な汗が流れる。
理覚が警鐘を鳴らしていた。
絶対に触れるな。
だが、身体が重い。
頭が上手く回らない。
何度も限界を越えた反動なのか、現実感そのものが薄れている。
一瞬、自分がどこに立っているのかさえ曖昧になった。
その時。
黒い滲みが、靴先へ触れた。
――ゾワッ。
「――ぁッ!!」
全身の感覚が反転する。
痛みではない。
もっと別の何かだった。
視界が黒く滲む。
耳鳴り。
ノイズ。
遠くで誰かの声が聞こえる。
知らない景色が断片的に流れ込んでくる。
崩れた街。
黒く染まった空。
誰もいない王城。
そして。
輪郭だけが揺れている人影。
「っ、ぁ……!」
ソウマの呼吸が乱れる。
理解できない。
理解したくない。
だが、一度入り込んだ感覚が脳へ張り付いて離れなかった。
ソウマが顔を上げる。
黒い影が、目の前まで来ていた。
近い。
近すぎる。
輪郭が曖昧なのに、存在感だけが異常に濃い。
黒い空洞の奥。
そこだけ、妙に深かった。
底のない穴を覗き込んでいるみたいだった。
黒い影が、ゆっくり首を傾けた。
その瞬間。
再生した右腕へ、異様な感覚が走る。
「――っ!」
ソウマの顔色が変わる。
再生した右腕。
その感覚が、一瞬だけ曖昧になった。
腕があるのかないのか、自分でも分からなくなる。
輪郭だけが揺らぐ。
「なっ……!?」
呼吸が乱れる。
黒い人型は静かにそれを見て――
手を差し伸べた。
まるで、手招きをするように。
「触るなっ!」
ソウマは反射的に剣を抜き、そのまま黒い人型へ振り抜く。
だが。
手応えがない。
剣は黒い輪郭を通り抜け、そのまま空を切った。
「――は?」
その瞬間。
人型の“顔”が、目の前まで近づく。
黒い空洞。
その奥で、何かがこちらを見ていた。
目があるのかすら分からない。
ただ、視線を感じていた。
ゾワッ、と背筋へ悪寒が走る。
同時に。
ソウマは気づく。
――戻れない。
「……っ」
息が止まる。
いつもなら終わる。
音が戻る。
現実へ引き戻される。
だが、戻らない。
静寂が続いている。
ガルドは止まったまま。
炎も止まったまま。
世界そのものが固定されていた。
「おい……」
ソウマの顔から血の気が引く。
空気が冷たい。
静かすぎる。
まるで、この空間へ取り残されたようだった。
その、まさかだった。
「おい……!」
黒い人型が、一歩近づく。
「やめろぉぉぉおぉぉぉ!」
動かなくなった世界で、ソウマの悲痛な叫び声だけが響いていた。
短章 王都アストレアル編 完




