侵食の出発点
――フワッ。
何かが浮いた音がする。
風の音もなければ、人の声もない。呼吸音すら曖昧で、自分の心臓が本当に動いているのかさえ判別できないほど異様な静寂の中、ただ足音だけが、暗闇のどこかから一定の間隔で響き続けていた。
視界は黒かった。
いや、黒いという表現すら正しくない気がした。
そこには闇があるのではなく、そもそも空間そのものが存在していない。
上下も分からない。
奥行きも分からない。
地面があるのか、自分が立っているのか、それとも浮いているのかすら曖昧で、ただ感覚だけが辛うじて残っている。
右肩の先で蠢く、再生途中の腕の不快な感覚。
肺の奥へ刺さる鈍痛。
頭の内側で絶え間なく鳴り続ける、耳鳴りにも似た不快なノイズ。
それだけが、神凪ソウマという存在を、辛うじてこの場所へ繋ぎ止めていた。
――コツ。
また足音が鳴る。
近づいてきている。
ゆっくりと。
一定の速度で。
まるで最初から歩幅も距離も決まっていたかのような、不気味なほど正確な足取りだった。
「……」
ソウマは動かなかった。
いや、動けなかった。
本能が理解していた。
見てはいけない。
何かがいる。
それだけは分かる。
だが、それを視認した瞬間に、戻れなくなる。
そんな感覚だけが、異様なほど鮮明だった。
――コツ。
足音が止まる。
その瞬間。
「長く居すぎたね」
声が響いた。
「――っ」
ソウマの肩が大きく跳ねる。
聞いたことのある声だった。
空間の存在しない、あの暗闇。
時々飛ばされる、あの異常な世界。
何も存在しなくとも、声だけが響いていた、あの場所。
そこで、自分へ語りかけてきた声だった。
感情がない。
男か女かも分からない。
だが、一度聞けば絶対に忘れられない。
「……どこだ」
喉が乾いていた。
上手く声が出ない。
言葉が空間へ溶けるように消えていく。
暗闇は答えない。
その代わり。
視界の奥で、何かが揺れた。
黒い輪郭だった。
人影。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「……は?」
ソウマの目が見開かれる。
見覚えがあった。
黒髪。
痩せた身体。
疲れ切った顔。
見覚えのある姿が、暗闇の向こうからこちらへ歩いてきている。
だが、何かがおかしい。
妙な違和感が、全身へ粘つくように張り付いていた。
異常な影が見えてくる。
だが、特に異様だったのは目だった。
感情がない。
怒りもない。
恐怖もない。
苦痛もない。
全部削ぎ落とされた後のような目だった。
まるで、長い時間をかけて少しずつ人間という輪郭を失い続け、最後には感情そのものを摩耗させたような。
何かを見るような、不快で、生理的な嫌悪感を伴う目だった。
「……お前は、誰だ」
問いかける。
返答はない。
前に立つ人影は、ただ静かにこちらを見ている。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『次は』
そこまで聞こえた瞬間。
視界が反転した。
――ガバッ!
「っ、はぁ……!」
ソウマは勢いよく身体を起こした。
肺が痛い。
呼吸が上手く整わない。
心臓が異常な速度で脈打ち、全身の血管を内側から無理やり叩いているみたいに耳の奥で鼓動が響いていた。
「はっ……はっ……!」
額から汗が流れる。
荒い呼吸を繰り返しながら、ソウマは周囲を見回した。
薄暗い天井。
鼻を刺す薬草の臭い。
乾いた生臭い血と、湿った布。
並べられた簡易寝台。
遠くから聞こえてくる呻き声。
治療所だった。
「……夢、か」
掠れた声で呟く。
だが、妙に現実感が残っていた。
特に最後。
あの目。
あの顔が、脳裏へ焼き付いたまま離れない。
「……っ」
その時だった。
ズキン、と頭痛が走る。
「ぐっ……」
反射的に額を押さえる。
頭の奥でノイズが鳴っていた。
ジジッ。
ジジジッ。
耳鳴りに近い。
だが以前とは違う。
もっと深い。
脳の奥へ細い針を直接差し込まれているような、神経を無理やり擦られるような不快感だった。
最近ずっと続いている。
以前なら、ここまで酷くなかった。
能力が発動した後に多少気分が悪くなる程度だった。
休めば戻った。
だが今は違う。
能力を使っていない時ですら、感覚そのものがおかしい。
視界がズレる。
音が遅れる。
人の輪郭が揺れる。
現実感が薄い。
まるで、自分だけが少しずつ世界から外れ始めているみたいだった。
「ソウマさん?」
声が飛ぶ。
顔を上げると、テュフォンが立っていた。
白いローブを着た立ち姿。
疲労の色が濃い顔。
それでも昨日よりは多少余裕があるように見えた。
「起きたんですね」
「ああ……」
ソウマは荒い呼吸を押さえ込みながら、ゆっくり身体を起こす。
全身が重かった。
鉛でも流し込まれたみたいに、筋肉の一つ一つへ鈍い疲労が沈殿している。
それでも、昨日よりは多少マシだった。
腹部へ視線を落とす。
新しい包帯。
右肩には鈍い違和感。
「腕、再生中ですよ」
「へぇ……。……ちょっと待て。今なんて言った?」
「今再生中ですと言いました」
最悪だ。
「まだ途中なのかよ?!」
「順調です」
「いや怖ぇよ……」
ソウマは思わず顔をしかめた。
自分の腕が再生していく感覚など、想像するだけで吐き気がする。
「見ます?」
「絶対見ない」
即答だった。
テュフォンがさもおかしそうに笑う
「そんなに嫌なんですか」
「腕が生えてくる途中とか普通に怖いだろ……」
「まあ、気持ちは分かりますけど。思ったよりも起きるのが早かったもので」
そこで会話が途切れる。
ソウマは僅かに眉をひそめた。
今。
ほんの一瞬だけ。
テュフォンの口が動いた後に、声が届いた気がした。
「……?」
「どうしました?」
「いや……」
(……気のせいか)
疲れているだけかもしれない。
だが、最近こういう感覚が増えていた。
音と映像が噛み合わない。
人の動きが微妙に遅れて見える。
視界の端で、何かが揺れる。
現実感が薄い。
頭の奥のノイズだけが、逆にはっきりしている。
「先生を呼んできますね」
テュフォンがそう言って振り返る。
その瞬間だった。
――ブツッ。
音が消えた。
「……え?」
ソウマの目が開く。
呻き声が消えている。
人の気配も。
布の擦れる音も。
呼吸音も。
全て。
世界から一斉に音だけが切り落とされたように、空気が異様な静寂へ変わっていた。
「おい……」
視線を巡らせる。
患者たちは動いていなかった。
テュフォンも止まっている。
振り返りかけた姿勢のまま。
空間ごと凍りついたみたいだった。
「……っ」
嫌な汗が流れる。
頭の奥のノイズが強くなる。
ジジジジッ――。
知っている感覚だった。
だが、違う。
今までと何かが違う。
空気が冷たい。
異様に冷たい。
まるで現実そのものが変質しているみたいだった。
――コツ。
足音。
ソウマの全身が強張る。
治療所の奥。
暗い廊下の向こう。
誰かがいる。
「……誰だ」
返事はない。
足音だけが響く。
――コツ。
――コツ。
ゆっくりと。
こちらへ近づいてくる。
止まったような空間の中を。
「……っ」
ソウマは反射的に立ち上がろうとする。
だが、身体が重い。
腹部の傷が鈍く痛み、右肩から先には、まだ自分のものではない肉が無理やり繋がり始めているような、不快で曖昧な感覚が残っていた。
呼吸が浅い。
頭痛が酷い。
視界の奥が、小刻みに揺れている。
――コツ。
足音が止まる。
暗い廊下の奥。
そこに、“黒い輪郭”が立っていた。
人型。
しかし、輪郭が定まっていない。
滲んでいる。
揺れている。
そこだけ世界から切り離されているみたいに、不安定だった。
ソウマの喉が鳴る。
脳裏へ、“構造線”という単語が浮かんだ。
途中で遭遇した異形たち。
現実へ溶け込み切れていないような、あの異常な魔獣。
だが、目の前の何かは、それとも違った。
もっと曖昧だ。
もっと不安定だ。
存在そのものが、現実へ固定されていない。
「お前……」
声が震える。
黒い影は動かない。
ただ。
ゆっくりと。
首だけが傾いた。
「――っ!!」
ゾワッ、と全身の毛穴が開く。
見ている。
あれは、自分を見ている。
本能が理解していた。
逃げろ。
今すぐ。
だが身体が動かない。
恐怖ではない。
もっと別のもの。
"理解してはいけないもの"を理解しかけている。
そういった感覚だった。
黒い影が、一歩前へ出る。
瞬間。
――ダンッ!!
激しい音が響いた。
視界が揺れる。
ソウマは反射的に顔を上げた。
呻き声。
人の気配。
空気の流れる音。
布の擦れる音。
全部戻っている。
「ソウマさん!?」
テュフォンの声だった。
気づけば、ソウマは床へ膝をついていた。
呼吸が乱れている。
視界が激しく揺れていた。
「大丈夫ですか!?」
「……今」
掠れた声が漏れる。
「今、誰かいたよな」
「……え?」
テュフォンが困惑した顔をする。
「誰もいませんでしたよ?」
「いや、でも……」
「急に立ち上がって、そのまま倒れただけです」
「……っ」
ソウマが黙る。
(おかしい……。確かにいた。見たはずだ。あれは、何だ)
幻覚か?
疲労か?
それとも。
頭の奥でノイズが鳴り続ける。
ジジジッ。
嫌な汗が背中を流れた。
そこへ。
「起きたか」
低い声が飛ぶ。
ガルドだった。
大量の薬草を抱えながら部屋へ入ってくる。
そして。
ソウマを見るなり、動きを止めた。
「……どうした」
ソウマが訊く。
ガルドは数秒黙ったあと、静かに言った。
「お前、寝てる間ずっと目が開いてたぞ」
空気が止まる。
「……は?」
「瞬きすらしていなかった」
ガルドの声音は低かった。
冗談ではない。
テュフォンの顔色も変わる。
「え……」
「呼吸も浅かった。起きてるのかと思ったが、反応がなかった」
ソウマの喉が鳴る。
夢を思い出す。
暗闇。
足音。
もう一人の自分。
「……何だ、それ」
掠れた声が漏れる。
ガルドは視線を逸らさない。
「最近、妙なものを見たりしてるか」
ソウマの眉が僅かに動いた。
「……なんでそう思う」
「顔だ」
「顔?」
「お前は時々」
ガルドが低く言う。
「誰もいない場所を見てる」
沈黙。
ソウマは答えない。
答えられなかった。
心当たりがありすぎたからだ。
リリアの声が聞こえることがある。
背後に気配を感じることもある。
さっきみたいに、“何か”を見ることも。
「……疲れてるだけだ」
ソウマは短く返す。
ガルドは黙ったままソウマを見ていた。
まるで何かを確かめるように。
「先生……」
テュフォンが不安そうに口を開く。
「ソウマさんは、本当に大丈夫なんですか……?」
ガルドはすぐには答えなかった。
代わりに、ゆっくりと息を吐く。
「……分からん」
その声は、妙に重かった。
「ただ」
ガルドが続ける。
「昨日より悪化してる」
「……は?」
ソウマの眉が寄る。
「何を根拠に言ってる」
「目だ」
また同じ答えだった。
ガルドは椅子を引き寄せながら、疲れたように腰を下ろす。
「昨日のお前は、疲弊してるだけだった。怪我人特有の顔だった。だが今は違う」
「違うって何が」
「焦点がズレてんだよ」
ソウマの表情が強張る。
ガルドは続けた。
「今のお前も、時々こっちを見てない」
「……嘘だ」
「嘘じゃねえ。視線が合ってるようで、別の場所を見てる」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
テュフォンも黙っていた。
「……治癒師ってのは全員そんな観察してんのか」
誤魔化すようにソウマが言う。
だが声に余裕はなかった。
ガルドは小さく首を横へ振る。
「長く怪我人を診てると分かるようになる。限界が近い人間の顔はな」
「……縁起でもない」
「縁起の話をしてるんじゃない」
ガルドの声は心配にも、何かを図っているようにも聞こえた。
「お前、本当に休めてるのか」
「……ちゃんと寝たぞ?俺は」
「身体の話じゃない」
その瞬間。
ソウマの喉が僅かに詰まる。
ガルドは真っ直ぐこちらを見ていた。
「お前に何があったんだ」
「……」
「何を見たんだ」
問い方が妙だった。
まるで、何かを見ることを前提にしているような
「……別に」
ソウマは視線を逸らす。
言えるわけがない。
暗闇の世界のことも。
自分自身を見たことも。
止まったみたいな空間で、黒い輪郭を見たことも。
説明できる気がしなかった。
いや、説明した瞬間に、本当に壊れてしまう気がした。
「隠しても、言わなくてもいい」
ガルドが静かに言う。
「だが、自分の状態ぐらいは理解しておけ」
「……状態?」
「お前は、もう自覚なしで限界を超え始めてんだよ」
ソウマは答えない。
だが、その言葉を否定もできなかった。
自分でも分かっている。
最近おかしい。
思考が鈍る。
感覚がズレる。
現実感が薄い。
それに。
夢の中の、あの黒い人影。
あれを思い出すだけで、胸の奥が冷たくなった。
「……先生」
テュフォンが小さく口を開く。
「今日は休ませた方が」
「そうしたいのは山々だがな」
ガルドが疲れたように額を押さえる。
「状況が状況だ」
「まさか、魔獣に動きでもあったのか?」
ソウマが訊く。
ガルドは数秒黙ったあと、答えた。
「中央区画の外周が破られ始めてる」
空気が変わる。
「……本当か」
「ああ」
ガルドの表情は重い。
「騎士団が押し返してはいるが、数が多すぎる。このままだと、避難区域まで魔獣が来る」
ソウマは無意識に舌打ちした。
予想より早い。
街へ入った時点で崩壊寸前だったが、それでも王城周辺だけは持ち堪えているように見えた。
だが、もう限界が近いらしい。
「騎士団とは今日接触する予定だったな」
「ああ」
「予定変更だ」
ガルドが立ち上がる。
「向こうから来る」
「……は?」
「避難区域の治療拠点を巡回してるらしい。負傷者確認と、人員整理だ」
「騎士団がここに?」
「正確には、騎士団所属の人間だな」
ガルドがそう言った瞬間。
外から、慌ただしい足音が響いた。
次の瞬間。
「先生!」
入口の布を勢いよく開き、一人の男が飛び込んでくる。
息が上がっている。
顔面蒼白だった。
「どうした!」
ガルドが即座に立ち上がる。
男は荒い呼吸のまま叫んだ。
「北通りで侵食が始まりました!」
部屋の空気が凍る。
「何だと?」
「北です!」
ソウマの目が細くなる。
「騎士団は!?」
「応戦してます! でも、人型が混ざってて……!」
その瞬間。
ソウマの脳裏へ、さっき見た“黒い輪郭”が浮かぶ。
人型。
揺れる輪郭。
止まったみたいな空間。
「……っ」
嫌な汗が流れる。
ガルドが即座に指示を飛ばす。
「テュフォン、動ける患者を地下へ回せ! 重傷者は君が!」
「は、はい!」
「ソウマ!」
低い声が飛ぶ。
「お前はまだ動くな!」
だが。
ソウマはすでに立ち上がっていた。
視線は、入口へ向いている。
「……おい」
「人型って言ったな」
声が一段階低かった。
ガルドの眉が寄る。
「……ソウマ?」
「心当たりが無くも無いんだよ」
空気が止まる。
ソウマ自身、自分が何を口にしているのか分かっていなかった。
だが、頭の奥で警鐘が鳴っていた。
あれはまずい。
本能が理解している。
「心当たりって、何が――」
その瞬間だった。
――ブツッ。




