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死ぬ寸前だけ時間が止まる俺の異世界生存録  作者: 紡枝
王都アストレアル編……?
33/40

境界の明瞭

 足音が響く。

 それだけだった。

 人の声もない。荷車の音もない。首都であるはずのアストレアルには、本来なら絶え間なく鳴っているはずの生活音が存在していなかった。


「……」


 ソウマは、重くなった瞼を無理やり持ち上げながら歩いていた。

 呼吸が浅い。

 肺の奥に、冷えた針でも刺さっているような感覚がある。

 歩くたびに脇腹が痛み、止血したはずの傷が内側から脈打つように疼き、そのたびに視界の端が僅かに暗く揺れた。


(……最悪だな)


 頭の奥で、まだノイズが聞こえる。

 時間停止が発動した後に残る耳鳴りにも似た感覚だ。

 しかし、以前とは明らかに違っていた。

 これまでは能力を解除してしばらく休めば消えていたはずの異常が、今はまるで脳そのものに染み込んだように残り続けており、意識を集中しようとするほど逆に輪郭がぼやけていく。

 足元が、少し揺れる。

 反射的に近くの壁へ手をついた瞬間、砕けた石材のざらつきが掌に食い込んだ。


「……っ」


 呼吸を整えようとしても上手くいかない。

 吸った空気が肺に入っていかず、そのまま逆流してくるような感覚がある。

 もう何度目か分からない。

 あの魔獣に遭遇するたび、能力が発動している。

 その停止した世界の中で光魔法を使って抵抗することで死を回避してきたが、その代償は確実に身体へ蓄積していた。


 最初は腕の痺れだった。

 次は吐き気。

 その後は頭痛と耳鳴り。


 そして今は、能力を使う前から身体が壊れかけている感覚がある。


(……もう止めたくない)


 思考の底から、そんな感情が浮かび上がる。

 以前なら考えもしなかったこと。

 この能力がなければ自分は何度死んでいたか分からない。実際、この世界に飛ばされてからここまで生き延びられたのも、この力とリリアがいたからだ。

 だが今は違う。

 能力を使えば助かるのではなく、能力を使うたびに何かが削れていく感覚の方が強かった。


 脳?

 精神?

 あるいはもっと別の何か?


 自分でも分からない。

 ただ、停止した世界に踏み込むたび、自分が少しずつ人の形から外れていっているような不快感だけは、嫌になるほど理解できた。


「……」


 ソウマは、ゆっくりと視線を上げた。

 崩れた街並みの向こうに、黒く変色した塔が見える。

 アストレアルの中央区画と言って良いだろう。

 その中でも、王城はまだ美しさを失っていなかった。


 魔獣。

 今このアストレアルに大量にいる魔獣。

 途中で遭遇した、不自然な構造線の魔獣。

 あれらは単純な生物ではない。存在しているだけで周囲の景観を歪め、空気を濁らせ、生物としての本能へ直接恐怖を叩き込んでくる。

 そして何より厄介なのは、強い。

 異常なほどに強い。

 まともに戦えば、今のソウマではまず勝てない。


 だから逃げる。

 能力が発動し、死ぬ直前で時間が止まる。

 回避する。

 また逃げる。

 それを繰り返して、どうにかここまで辿り着いた。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。

 情けないと思う余裕すらない。

 そもそも、なぜ自分はまだ生きているのか。

 リリアと別れたあと、何度も死んでいた。

 能力が発動したなら、本来ならもう死んでいるはずだ。

 それを、たまたまあった能力で生きているだけだ。


「……はは」


 あの暗闇もそうだ。

 空間の存在しない、あの世界。

 何もない。存在していない。

 それなのに、声だけが響いていた。


『助けを求め切らなかったんだね』


 不意に、その言葉が脳裏を掠める。


「ははは……」


 ソウマは笑った。

 ただ、笑っていた。

 思い出したくない。

 だが、一度浮かんだ記憶は簡単には消えてくれなかった。

 あの声は、ソウマを責めていたのか。

 それとも、ただ確認しただけなのか。

 未だに分からない。

 ただ、あの時の自分が確かに限界寸前だったことだけは理解している。

 リリアと別れたあと、自分は明らかに壊れ始めていた。

 精神の均衡が崩れている自覚はある。

 ふとした瞬間、誰もいない方向へ視線を向けてしまうことがある。

 背後に誰か立っている気がする。

 リリアの声が聞こえた気がする。

 だが振り返っても、そこには誰もいない。


(……行くぞ)


 思考を振り払うように、ソウマは歩き出した。

 止まるわけにはいかない。


『どこかで首都アストレアルに行かなきゃいけないわね』


 そう言ったのはリリアだ。

 右腕は失われたままだ。

 それを治せる治癒師がアストレアルにいる。

 だから来た。

 しかし現実はこれだ。


「……来た意味……」


 崩壊した街を見ながら呟く。

 建物は壊れ、通りには血痕が残り、放棄された荷物が転がっている。

 途中、倒れたまま動かない人影も見た。

 確認はしていない。

 確認する余裕がなかった。

 もう誰が生きていて、誰が死んでいるのかも分からない。

 その時だった。


 視界の端で、何かが動いた。


「――っ!」


 反射的に身体が跳ねる。

 ソウマは即座に腰の剣へ手をかけ、崩れた壁の陰へ身を滑り込ませた。

 呼吸を殺す。

 鼓動が速い。

 耳鳴りがうるさい。


(どこだ……)


 ゆっくりと視線を巡らせる。

 壊れた路地の先。

 瓦礫の向こう。

 黒い影が見えた。

 人の形をしている。

 だが、この状況では人間とは限らなかった。

 魔獣の中には、人間に近い輪郭を持つ個体もいた。


 油断した瞬間に死ぬ。


 それを嫌というほど理解している。

 ソウマは剣を握る手へ力を込めながら、ゆっくりと呼吸を整えた。

 もし敵なら、逃げる。

 戦わない。

 敵わないと分かっているから。

 もう時間停止は使いたくなかった。

 本当に限界が近い。

 次に時間が止まった時、元に戻れなくなる気がしていた。

 影が動く。

 近づいてくる。

 石畳を踏む音。

 ゆっくりした足取り。

 そして――


「……人?」


 思わず、呟きが漏れた。

 ローブ姿だった。

 年齢は四十代ほどだろうか。灰色と黒色が混ざった髪を後ろで束ねた男が、大きな荷袋を抱えながら歩いている。

 武器は持っていない。

 少なくとも、魔獣には見えなかった。

 だが、それでもソウマはすぐには動けなかった。


(本当に人間か……?罠じゃないよな?)


 そんな疑念が脳裏を過る。

 だが同時に、身体の限界も近かった。

 今ここで情報を得られなければ、完全に行き詰まる。

「……」

 数秒迷ったあと、ソウマは壁の陰から姿を現した。

 男が即座に反応する。


「誰だ!」


 鋭い声だった。

 ただの民間人ではない。

 ソウマは一瞬だけ警戒を強めたが、すぐにそれどころではなくなった。

 立ち上がった拍子に視界が揺れ、膝から力が抜けかけたのである。


「っ……」


「おい!」


 男の表情が変わる。


「……その袋の中身は……?」


「薬草だ。治療に使う」


「それなら」


 ソウマは壁へ手をつき、荒い呼吸を押さえ込みながら言った。


「……治療をしてくれないか」


「は?」


「右腕を戦闘で失った……。あと腹だ。頼む、治してくれ……」


 自分でも驚くほど余裕のない声だった。

 まともな説明をする気力が残っていない。

 男は眉をひそめながらソウマを観察する。

 血。

 右腕の欠損。

 裂傷。

 疲弊。

 そして何より、その目。

 まともな状態ではないことだけは、一瞬で理解したようだった。

 だが――


「悪いが、今は無理だ」


「……なぜ」


「患者が多すぎる。見たら分かるだろ。この区域は避難が完了していないんだ」


 男の声音は冷たくなかった。

 むしろ疲弊していた。

 それでも、はっきりと拒否反応を示していた。


「お前はまだ歩けるだろ。他の治療師を当たるんだな」


「……っ」


 ソウマの呼吸が乱れる。

 頭の奥で、嫌な音がした。

 駄目だ。

 ここで下がるのはまずい。

 今の状態で他の治癒師を探す余力も気力も残っていない。

「待て……」

「悪いな。俺も限界なんだ」

 男はそれだけ言って通り過ぎようとする。

 その瞬間、ソウマの中で何かが切れかけた。

 焦燥。

 苛立ち。

 不安。

 全てが一気に押し寄せてくる。


 この状態で倒れたらどうなる。

 また魔獣に見つかったら。

 またパラドクシアが襲ってきたら。

 また時間を止めるのか。


 もう嫌だ。

 頭の奥でノイズが強くなる。

「……リリア」

 気づけば、口からその名前が漏れていた。

「……?」

 男が足を止める。

 ソウマは息を切らしながら続けた。

「リリアに……アストレアルへ行けって、言われたんだよ……」

 沈黙。

 風の音だけが通りを抜ける。

 男の動きが、止まっていた。

「……今、なんて言った?」

 低い声だった。

 先ほどまでとは明らかに違う。

 ソウマは荒い呼吸のまま顔を上げた。

「……アストレアル」

「そっちではない」

 即座に遮られる。

「誰が、それを言った」

 到底、拒否などできそうにない強い圧がソウマを襲う。

「誰が」

「……リリアだ。そこまで重要なことじゃないだろ」

 男の目が見開かれる。

 その変化は、疲労で霞むソウマの視界でもはっきり分かった。

「お前……なぜその名を知ってるんだ」

「……は?」

「答えろ」

 一歩、男が近づく。

 空気が変わっていた。

 先ほどまでの患者を選別するような目ではない。

 何かを確かめるような視線。

 ソウマは僅かに眉をひそめた。

「なぜって……一緒に旅をしてたからだ」

「旅?」

 男の表情がさらに険しくなる。

「……お前、どこでその方に会った」

「どこって……」

 言いかけて、ソウマは口を閉じた。

(何なんだ、この反応……?)

 ただ名前を出しただけだ。

 それなのに、男はまるで国家機密でも聞かされたかのような顔をしている。

「…………」

 数秒の沈黙。

 やがて男は、小さく息を吐いた。

「……ついて来い」

「……?」

「治療する。歩けるな」

 態度が劇的に変わっていた。

 ソウマは男を見つめたまま動かなかった。

「……なんで」

「いいから来い。ここで立ち話をする内容じゃない」

 男は周囲を警戒するように視線を巡らせると、そのまま細い路地の奥へ歩き出す。

 ソウマは数秒迷ったあと、重い足を引きずるようにその背中を追った。


 路地の奥は、表通りよりさらに静かだった。

 崩れた建物同士の隙間を無理やり繋ぐように細道が伸びており、ところどころに木箱や布が積み上げられているせいで見通しが悪い。少し先を歩いている男の背中も、角を曲がるたびに見失いそうになる。

「……早くしろ」

「分かってる……」

 声を返した瞬間、肺の奥が焼けるように痛んだ。

 ソウマは思わず口元を押さえる。

 血の味がした。

(くっ……)

 限界が近い。

 自分でも、それは嫌になるほど分かっていた。

 視界の端で何かが動いた気がして振り向いても、誰もいないことが何度もある。

 さっきから耳の奥では小さなノイズが途切れず鳴り続けている。

 これが時間停止の反動だ。

 以前なら、ここまで酷くはなかった。

 だが今は違う。

 能力を使うたび、自分の中に何か別のものが混ざっていくような感覚がある。

 止まった世界の冷たさが、身体の奥に残っている。

「着いたぞ」

 前を歩いていた男が、不意に足を止めた。

 ソウマも反射的に顔を上げる。

 古びた建物だった。

 二階建て。

 外壁は半分ほど崩れているが、辛うじて形は保っている。窓には板が打ち付けられ、入り口の前には布が垂らされていた。

「入れ」

 男が布を持ち上げる。

 中から、微かに薬草の匂いが流れてきた。

 ソウマは数秒だけ警戒したが、今さら引き返せるような状態でもなかった。

 重い足取りのまま建物へ入る。

 途端に、湿った空気が肌へまとわりついた。

「っ……」

 思わず顔をしかめる。

 血の臭い。

 薬草。

 汗。

 それらが混ざった、酷い空気だった。

 部屋の中には簡易寝台が並べられており、その上で何人もの人間が横になっている。包帯を巻かれた者、熱に浮かされたように呻いている者、腕を失っている者もいた。

 子供の泣き声が、奥から聞こえる。

「先生!」

 若い女が駆け寄ってきた。

 薄茶色の髪を後ろで束ねた少女だった。看護係らしい白いローブを着ているが、その裾には乾いた血が大量に付着している。

「また怪我人ですか!?」

「ああ。俺が診る」

「でも、もう薬が――」

「良い」

 男の声が低くなる。

「良いんだ」

 少女は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

 代わりに、その視線がソウマへ向く。

 そして。

「……あ」

 僅かに、顔色が変わった。

 ソウマは眉をひそめる。

「どうした?」

「ふぇっ……?」

「その顔」

 少女は慌てたように視線を逸らした。

「な、なんでもありませんっ」

 嘘だ。

 明らかに何かを見ていた。

 ソウマは無意識に自分の顔へ触れかけるが、その途中で動きを止める。

 違う。

 顔じゃない。

 目だ。

 さっきの男もそうだった。

 自分を見た時、怪我人というより何か危険なものを見るような反応をしていた。

(……そんなにひどい顔してんのか、俺)

 自覚はある。

 ここ数日、まともに寝ていない。

 精神もかなり危うい状態だ。

 時間停止を連発したせいで、感覚そのものがおかしくなっている自覚もある。

 だが、それにしても反応が妙だった。

「座れ」

 男が椅子を指差す。

 ソウマは無言のまま腰を下ろした。

 その瞬間、全身から力が抜けそうになる。

 危なかった。

 座っていなければ、そのまま倒れていたかもしれない。

 男がソウマの腹部へ視線を向ける。

「先に腹を治療する。包帯を外すぞ」

「……好きにしろ」

 服をめくる。

 乾いた血と一緒に包帯が剥がれ、鈍い痛みが走った。

 少女が小さく息を呑む。

「酷い……」

「これで動いてたのか、お前」

「動かなきゃ死ぬからな」

 ソウマは短く返す。

 男は眉をひそめながら傷口を確認していたが、やがて小さく舌打ちした。

「化膿しかけてる。無茶しすぎだ」

「仕方ないんだよ」

「仕方ないじゃねぇ。普通ならとっくに倒れてる」

「倒れたら死んでいた」

 その言葉に、男の手が止まる。

 数秒の沈黙。

 やがて男は、小さく息を吐いた。

「……まあ、今のアストレアルじゃ珍しい話でもないか」

 少女が薬草を持ってくる。

 男はそれを受け取ると、傷口へ押し当てた。

 激痛。

「っ……!」

 ソウマの身体が反射的に強張る。

「動くな」

「痛ぇんだよ……!」

「我慢しろ」

 薬草の匂いが強くなる。

 熱い。

 傷口が焼けるように熱い。

 ソウマは歯を食いしばりながら呼吸を押さえ込んだ。

 その時だった。


 ――ブワッ。


 一瞬だけ、視界の奥で何かが動いた。

「っ!」

 ソウマが反射的に顔を上げる。

 だが、そこには誰もいなかった。

「……どうした?」

 男の声。

 ソウマは答えない。

(今のは、何だ……?)

 黒い影が見えた気がした。

 いや、違う。

 “止まっていた”。

 時間停止の世界で見る輪郭に近かった。

 つまり――

(構造線……?)

「おい。どうした」

「……いや、なんでもねぇ」

 頭痛がする。

 嫌な汗が流れる。

 最近増えている。

 停止世界の感覚が、現実へ滲み出してきていた。

(……本当にまずいかもしれないな)

 ソウマは奥歯を噛み締めた。

 このまま能力を使い続ければ、いずれ本当に戻れなくなる気がする。

 だが、それでも使わなければ死ぬ。

 状況としては、詰んでいた。


「終わったぞ」

 男が手を離す。

 腹部には新しい包帯が巻かれていた。

 腕の傷にも簡易的な治療が施されている。

「あのベッドで寝てくれ。眠っている最中に腕を再生させる」

「俺が寝てる間にやるのか」

「立ち会いたいか?気持ち悪いぞ、腕が生える感覚は」

「絶対嫌だ」

 ソウマは苦笑する。

 男も笑っていた。

 だが、男の目には疲労が濃く滲んでいた。

 ソウマは周囲を見回す。

 負傷者。

 泣き声。

 呻き声。

 錆びた金物のような、鼻をつく臭い。

 ここはもう、まともな都市ではない。

「……どれくらい死んだ」

 不意に、ソウマが呟く。

 男は少しだけ黙った。

「多い」

「具体的な数は」

「数え切れん」

 低い声だった。

 感情を押し殺しているのが分かる。

「避難は進んでいる。だが間に合ってない地区も多い。騎士団も動いてるが、魔獣の侵食速度が速すぎる」

「王家は」

「生きてる」

 即答だった。

「まだ王城は落ちてない。騎士団本部も機能している」

「……そうか」

 ソウマは小さく息を吐く。

 まだ終わってはいない。

 少なくとも完全崩壊ではない。

 だが、それも時間の問題にしか思えなかった。

 ここへ来るまでに見た光景が脳裏を過る。

 黒く侵食された街。

 魔獣。

 逃げ惑う住民。

 そして、時間停止。

「……お前、名前は」

 男が訊ねる。

 ソウマは数秒遅れて口を開いた。

「……神凪ソウマだ。ソウマと呼んでくれ」

「……珍しい名前だな」

「極東の島国から来たんだ」

「そうか。俺はガルドだ」

「……治癒師、か」

「ああ。一応な」

 ガルドは疲れたように肩を回す。

 その動作だけで、どれだけ消耗しているか分かった。

「さっきの話だが」

「……?」

「お前、本当にリリア様と旅してたのか」

 “様”。

 ソウマの眉が僅かに動く。

「何なんだよ、その言い方」

「答えろ」

 ガルドの声音が少し低くなる。

「……してた」

「どれくらい」

「数週間ぐらいだ」

「嘘だな」

 即答だった。

 ソウマの目が細くなる。

「なんでそうなる」

「あり得んからだ」

 ガルドは真っ直ぐソウマを見る。

「リリア様は、この国じゃ知らない人間はいない。ほぼ全員が知っている」

「……は?」

 ソウマは、一瞬だけ思考が止まった。

(全員知っている。今、そう言ったか……?)

「待て」

 妙な予感がした。

「お前も……リリアのことを、知っているのか」

 ガルドは少しだけ迷うように視線を逸らした。

 その反応だけで、ソウマの中の警戒が強くなる。

「なんだ」

「……お前、本当に聞いてないのか」

「だから何をだよ」

 沈黙。

 部屋の奥で、誰かの呻き声が響く。

 その音を聞きながら、ガルドはゆっくり口を開いた。

「リリア様は――」

 ガルドが言いかける。

 ソウマは唾を飲んだ。

 喉を通る音がやけに大きく聞こえた。

 だが、その直後。

「――いや、何でもない」

「……は?」

 ソウマの眉間が寄る。

 ガルドは小さく息を吐き、視線を逸らした。

「俺が勝手に話していいことじゃない」

「おい、待て」

「それより、お前だ」

 ガルドの視線が戻る。

 真っ直ぐ、ソウマを見る。

「どうやってリリア様と知り合った」

「……」

「何があった」

 空気が変わる。

 先ほどまでの治癒師ではない。

 何かを探るような目。

 ソウマは数秒黙り込んだあと、小さく息を吐いた。

「長い話になる」

 ソウマが低く呟く。

「だろうな。ベッドに寝てくれ。ついでに治療の準備をする」

 ガルドは短く返したあと、近くの机へ薬瓶を置いた。

 部屋の空気は重いままだった。

 奥ではまだ負傷者の呻き声が続いている。時折、誰かが慌ただしく走る音も聞こえた。ここは休息の場ではない。崩壊寸前の首都で、辛うじて機能している治療拠点の一つに過ぎない。

 それでも、ソウマは少しだけ呼吸が楽になっていることに気づいていた。

 治療のおかげか。

 あるいは、人間のいる空間へ辿り着けたからか。

 自分でも分からない。

「話せる範囲でいい」

 ガルドが椅子へ腰を下ろす。

「どこでリリア様と会った」

「ガルネスだ」

「ガルネス?」

「ああ。正確にはガルネスの路地だ。死にかけてた時に助けてもらった」

 ガルドの眉が僅かに動く。

「……それで一緒に旅を?」

「成り行きだよ」

 ソウマは短く返す。

「最初は文字も読めなかったし、魔獣にも追い回されてた。あいつがいなきゃ、とっくに死んでた」

 ガルドは黙ったまま聞いている。

「色々あった」

「色々、で済む顔じゃないがな」

「うるせぇよ」

 ソウマは吐き捨てるように返す。

 ガルドは苦笑したが、すぐ真顔へ戻った。

「リリア様は何をしてた」

「旅、じゃないのか?」

「違う」

 即答だった。

「何の目的で動いてたんだ?あの方は」

 ソウマは口を閉じる。

 そこだけは、未だによく分かっていなかった。

 リリアは多くを語らなかった。

 必要最低限しか喋らず、聞かれたくないことには上手く踏み込ませない。ソウマも途中から深く詮索しなくなっていた。

 だが今思えば、不自然な点はいくらでもあった。

 異常な強さ。

 各地の知識。

 フィアとの関係。

 そして。

 "アストレアルに行かなければいけない"

 アストレアルへの自然な誘導。

「……分からない」

 ソウマは低く答える。

「聞かなかったのか」

「聞いても話さなかった」

 ガルドが黙る。

 その沈黙には、どこか納得したような空気が混ざっていた。

「でも、助けてはいた」

 ソウマが続ける。

「困ってる人間を放っておけない性格だった。無茶するし、勝手に前出るし、危ないことばっかしてた」

 脳裏に、リリアの姿が浮かぶ。

 その姿に似合わない、大きな剣を振るう姿。

 見事な風魔法。

 呆れたような顔。

 小さく笑う声。

「……そうか」

 ガルドが小さく呟く。

 その声音には、少しだけ安堵の色が混ざっていた。

「なんだよ」

「いや」

 ガルドは首を横へ振る。

「変わってないんだなと思っただけだ」

 ソウマは眉をひそめる。

 やはり知っている。

 しかも、ただ名前を知っている程度じゃない。

 かなり関係が近い。

(なんなんだ、本当に)

 胸の奥に、妙な焦燥が広がっていく。


 リリアについて、自分は何も知らなかったのではないか。


 そんな感覚が強くなっていた。

「それで」

 ガルドが改めてソウマを見る。

「今は一人なのか」

「……ああ」

 短く答える。

 その瞬間だけ、胸の奥が鈍く痛んだ。

 リリアと別れてから、まだそこまで時間は経っていない。

 だが感覚としては、もっと長く離れている気がした。

 何度も死にかけた。

 何度も時間を止めた。

 その度に、自分の中の感覚が削れていった。

「あとはフィアだな……。って言っても分からないだろうけど」

「いや、知っている」

 ソウマの視線が上がる。

「知ってんのか」

「名前だけならな」

 ガルドが腕を組む。

「ただ、その二人が関わった話は聞いたことがない」

「…………」

 ソウマは黙り込む。

 やはり、何かがおかしい。

 リリアも、フィアも、名を知られている。

 だが、その核心だけが見えない。

「お前、これからどうするつもりだ」

 不意にガルドが訊ねた。

「どうするって?」

「このまま一人で動くのかって聞いている」

「……」

 ソウマは視線を落とした。

(どうする……。いや、そんなもの、決まっているか)

 決まっているはずだった。

 パラドクシアを止める。

 そのために動く。

 だが現実問題として、今の自分一人では限界がある。

 ここへ来るまでだけで、それを嫌というほど思い知らされた。

 魔獣相手ですらギリギリだった。

 時間停止なしでは生き残れない。

 しかも、その能力自体がもう危うい。

「……するべきことがある。ただ、一人じゃ無理だ」

 気づけば、そんな言葉が漏れていた。

 ガルドが静かにソウマを見る。

「何をするんだ?」

「……リリアのことを聞き出す」

「王家の方しかおそらく言わないぞ?そもそもお会いできないだろうし……」

「そのために、このアストレアルの状況を改善する」

 ソウマは小さく息を吐いた。

「……ただ、俺一人だと無理だ」

「お前も素直じゃないな」

「……何がだよ」

「頼みたいことがある時は、正直に言うべきだと、俺は思うぞ」

「……っ。お願いします、力を貸してください」

「だが断る」

 即答だった。

「……は?」

「状況を見て分からないのか。怪我人がこんなにいるんだ。俺が付かなければ……」

「私がやります」

 突然、割り込んでくる声があった。

「君は……」

「駄目だ、テュフォン」

 テュフォンと呼ばれた、先ほどの治療係の少女は、右手を胸に当てながら言った。

「私にやらせてください。先生はこの方と一緒に……」

「テュフォン、君はまだ出来ない」

「私だって、このぐらいの怪我人なら診れます。私に、やらせてください!」

 テュフォンはそう言い切って、腰を直角に折った。

 ガルドがふぅぅ、と息を吐く。

「……頭を上げてくれ。ここは俺が折れよう。その代わり、ここは君に任せたぞ、テュフォン」

「……!はい!」

 そう言って、テュフォンはまた治療に戻って行った。

「と言うわけで」

「……仕方ねぇな。力を貸そう」

「ありがとうございます、先生」

「うるせぇうるせぇ。ただ一つ条件がある。これだけは譲れない」

 ソウマは唾を飲んだ。

「俺だってまだ死にたくない。騎士団との協力を取り付けてから行動する。これが条件だ」

「……なるほど」

 ソウマは考え込んだ。

「もちろん、その交渉には俺も協力する。お前一人でやらせるわけにもいかない」

(これは、受けるべきだな)

 ソウマはそう判断した。

「分かった。それは守ろう」

 正直、組織行動は得意じゃない。

 信用できるかも分からない。

 だが、それでも今のアストレアルで単独行動を続けるのは自殺に近かった。

「……少し休む」

 ソウマが呟く。

「ん?」

「少し休む」

 ガルドが小さく息を吐いた。

「少し寝れば再生しているはずだ。お大事に」

「ああ。おやすみ」

 ソウマはベッドに深く身体を預ける。

 途端に、全身から力が抜ける。

 疲れていた。

 自分で思っていた以上に。

 瞼が重い。

 ――まどろんでいた意識が、闇に落ちた。


 ソウマが眠ったあと。

 テュフォンが小声で言う。

「先生……あの人、本当に大丈夫なんですか?」

 ガルドは沈黙する。

 そして。

「……目の焦点が、合っていなかったからな」

 その声は、二人にしか聞こえていなかった。

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