負の連結
「――っ!!」
ソウマの全身が反射的に硬直する。
鼓膜が痺れる。
空気が震える。
肺の奥まで衝撃が入り込んでくる。
だが、それ以上に危険だったのは、“本能”だった。
頭じゃない。
理性でもない。
もっと奥。
生きる物としての根源的な部分が、あの咆哮を聞いた瞬間に冷静を保てなくなった。
――逃げろ。
――近づくな。
――あれは無理だ。
――死ぬぞ。
「……嘘だろ……」
乾いた声が漏れる。
喉が妙に張り付いていた。
ソウマは目の前に広がる光景を見上げる。
王都アストレアル。
巨大な城壁に囲まれた、この国最大の都市。
リリアが“行くべき場所”として語っていた街。
騎士団がいて、王家がいて、人が集まる中心地。
そのはずだった。
だが。
今目の前にあるのは、聞いていた街とは程遠かった。
城門は半壊している。
厚い鉄板には深い裂傷が走り、片側は無理やり押し広げられたように歪んでいた。
石材は砕け散り、門の周囲には巨大な抉れ跡まで残っている。
普通の魔獣じゃない。
そんなことは、一目で分かった。
「……」
ソウマは門へとまた一歩近づいた。
――コツ。
遅れて、足音がする。
その音だけが妙に響く。
静かすぎるからだ、とソウマは思う。
本来なら、人の声で溢れているはずの場所。
商人の呼び込み。
荷車を引く音。
子供の笑い声。
白城の鐘の音。
そういう“生活”の気配が、一切存在していなかった。
ただ、その抜け殻が残ったかのような――
「……」
門の隙間から中を覗き込んだ、その瞬間。
ソウマは息を呑んだ。
建物が崩れている。
石畳が割れている。
通りには瓦礫が散乱し、あちこちで火が燃えていた。
店の看板は吹き飛び、窓ガラスは砕けている。
立ち昇る黒煙。
焦げ臭い匂い。
その奥に混じる、鉄のような悪臭。
「……っ」
胃の奥まで落ちる、重く鼻をつく臭い。
これは襲撃なんて生易しいものではない。
街そのものが壊されているような、そんな状態。
「……何があったんだよ」
呟く。
返事はない。
当然だ。
だが、その静けさが逆に不気味だった。
ソウマは慎重に城門を潜る。
中へ入った瞬間、熱を帯びた空気が肺へ流れ込んできた。
まだ火が完全には消えていない。
石畳には巨大な爪痕が刻まれている。
壁を貫いたような穴。
吹き飛んだ建物。
何か巨大なものが暴れ回った痕跡が、街中に残されていた。
「……」
ソウマは慎重に歩き出す。
――コツ。
遅れて、音がする。
音のズレはまだ残っている。
呼吸も少し遅れる。
だが、森の中にいた時よりはマシだった。
少なくとも、今は現実が安定している。
石畳。
建物。
煙。
全部、存在している。
音がない。
自分の呼吸だけが、妙に響いて聞こえた。
その時。
ガラッ!
「っ――!」
物音がした。
ソウマは反射的に剣へ手を伸ばす。
それと同時に、物音の方向へ視線を向ける。
崩れた建物の隙間から、小さな影が顔を覗かせていた。
「……子供?」
十歳くらいの少女だった。
顔は煤で汚れ、服も破れている。
怯え切った目でソウマを見ていた。
「大丈夫か?」
出来るだけ穏やかな声を出す。
少女は答えない。
ただ震えている。
「怪我は?」
少女は小さく首を振った。
「……ううん」
「そうか」
ソウマは少しだけ息を吐いた。
だが、その安堵も長くは続かなかった。
少女の後ろ。
瓦礫の奥。
暗い空間に、人影が見えた。
「……?」
目を凝らす。
動かない。
違う。
動けないんじゃない。
動かない。
「……」
ソウマは理解した。
もう、遅い。
少女が、ソウマの服をぎゅっと掴む。
「……ライナ」
小さな声。
ソウマの胸が重く沈む。
何も言えなかった。
こんな時、何を言えばいいのか分からない。
慰めなんて、軽すぎる。
ソウマはそれを、もう分かっていた。
「……今、安全な場所はあるのか?」
少女は小さく頷いた。
「地下に……みんな、いる……お母さんも……そこにいる、と思う……」
避難所か。
少なくとも、生存者はいる。
完全に壊滅したわけじゃない。
その事実だけで、ほんの少しだけ息が楽になる。
その、
次の瞬間だった。
――ドゴォォォォォォォォォンッ!!
「――っ!?危ない!」
凄まじい衝撃。
地面が揺れる。
建物の窓ガラスが砕け散る。
ソウマは少女を守るようにして立った。
少女が悲鳴を上げてしゃがみ込む。
「……何だ!?」
音は近い。
かなり近い。
ソウマは通りの奥を見る。
土煙が上がっていた。
建物の向こう側。
何か巨大なものが動いている。
ズシン。
ズシン。
一歩ごとに、地面が揺れる。
「……おい」
嫌な汗が流れる。
本能が理解してしまう。
あれは駄目だ。
関わってはいけない。
関わるべきではない。
「お兄さん……!」
少女の声が震える。
「――っ!危ない!」
ソウマが叫んだ。
次の瞬間。
建物が吹き飛んだ。
「――っ!?」
石材が宙を舞う。
壁が砕ける。
その向こうから、“それ”が姿を現した。
巨大だった。
黒い外殻。
異常に発達した四肢。
裂けた口。
赤黒い紋様が全身を這っている。
以前遭遇した魔獣より、遥かに大きい。
だが、完全に魔獣ではない。
魔獣ではあるが、魔獣ではないような――。
しかし、問題はそこではなかった。
「……何だ、あれ」
違和感。
嫌悪感。
普通じゃない。
目の前の魔獣には、理性が感じられない。
まるで“命令”だけで動いているような、不気味さがあった。
濁った赤い瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「――っ!」
視線が合う。
全身が硬直する。
喉がひゅっ、という音を立てた。
圧力。
存在感。
巨大すぎる"死"が、そこに立っていた。
少女が後ずさる。
小さな肩が震えている。
「……逃げろ」
ソウマは低く言う。
少女は動かない。
恐怖で足が止まっている。
「逃げろ!!」
叫んだ。
少女が弾かれたように走り出した。
その瞬間。
目の前の魔獣が消えた。
「……は?」
(いや……)
違う。
ただこれは――。
「速すぎる……!」
見えない。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
「――っ!?」
ソウマは反射的に剣を抜く。
しかし、間に合わない。
魔獣の爪が振り下ろされる。
空気が裂ける。
死ぬ。
直感した瞬間だった。
世界が、止まった。
「……くそ」
爪が止まる。
炎が止まる。
悪臭が止む。
崩れた瓦礫が空中で静止している。
魔獣の爪も、眼前で止まっていた。
あと数センチ。
ほんの少し遅れていたら、頭ごと潰されていた。
「……また、止まった」
掠れた声が漏れる。
時間停止。
死ぬ寸前だけ発動する、自分の異常な能力。
だが。
「――っ!!」
頭に激痛が走る。
視界が揺れる。
耳鳴り。
吐き気。
以前より、明らかに反動が重い。
「ぐっ……!」
肺が圧迫される。
呼吸が乱れる。
止まった世界の中で、ソウマは歯を食いしばった。
目の前にはネグラディアの爪。
完全に停止している。
動かない。
それを確認して、ようやく少しだけ息が戻る。
「……っ、は……」
肺が上手く動かない。
呼吸のタイミングがズレる。
吸った感覚と、実際の呼吸が噛み合わない。
「……っ、……」
額から汗が落ちる。
時間停止の反動。
以前とは比べ物にならないほど、強力で、耐え難くなっていた。
森を抜けるまでに起きていたズレ。
感覚の飛躍。
認識の欠損。
それらが全部、この能力の使用と繋がっているような気がしてならない。
「……また」
吐き気が込み上げる。
使うたびに、何かが削れていく感覚がある。
感覚。
順番。
認識。
自分の中の“正常”が、少しずつ壊れていく。
「……もう、使いたくないんだけどな」
本音だった。
以前は違った。
異常ではあっても、切り札だった。
死を回避できる力。
そう確信していた。
だが、今は違う。
この力そのものが、自分を壊している。
ソウマはそう感じてきていた。
「……っ、はぁ……」
呼吸が乱れる。
頭痛が酷い。
視界の端が揺れている。
長く維持できない。
そんな感覚が、直感的に分かる。
それでも、目の前の魔獣は完全に止まっている。
動かない。
動けない。
この世界だけは、まだ自分だけの領域だった。
「……。フラルクス」
先に閃光を出しておく。
これで回避することはできるはずだ。
ソウマは魔獣の構造線を見る。
辿る。
辿り着いた場所は、二つ。
右足の付け根と、右耳の後ろ。
しかし、それよりも気になったことがあった。
「あれは、何だ……?」
一見するとまとまっていて、綺麗な構造線に見える。
しかし、一つ絡まっている場所があった。
それだけではない。
その場所は、他の構造線に抵抗するような、そんな走り方をしていた。
「何であそこだけ……?」
そのことを考え始めた時だった。
頭痛が強まり、視界が揺れた。
「……くっ」
膝が軋む。
立っているだけで辛い。
それでも、まだ止まった世界は維持されている。
だが。
「……いつまで、保つんだよ」
ぽつり、と呟く。
その言葉だけが、静止した世界に落ちた。
以前なら、ここでは不安はなかった。
停止世界だけは絶対だった。
自分だけが動ける、安全圏であり、絶対領域だった。
だが今は違う。
反動が増している。
感覚が壊れている。
この能力そのものが、少しずつ限界へ近づいている。
「……は」
短く息を吐く。
遅れない。
この世界では、ズレがない。
それが妙に皮肉だった。
「……解除、するしかないか」
ソウマは目の前のネグラディアを見る。
解除すれば、また死と隣り合わせになる。
それでも、止まったままでは何も進められない。
「……やるしか、ないんだよな」
そう呟きながら。
ソウマは、ゆっくりと右足を踏み出した。




