正常の残響
「目指せ、首都アストレアル!」
夜明け前の空に向かって、ソウマはわざと大きな声を張り上げた。
広い草原に声が抜けていく。
少し遅れて、その声が自分の耳に届いた。
「……うん。やっぱ気持ち悪いな」
苦笑しながら頭を掻く。
指先が髪を擦る感覚も、一拍遅れて返ってくる。
相変わらずだった。
呼吸。
視界。
感覚。
思考。
全部が、ほんの少しだけズレている。
完全に壊れているわけではない。歩けるし、喋れるし、考えることも出来る。目の前の景色だって普通に見えている。
だが、順番だけが綺麗に繋がらない。
歩いた後に音が鳴る。
息を吐いた後に肺が動く。
瞬きをした後に視界が戻る。
その微妙なズレが、ずっとまとわりついていた。
「……まあ、考えても仕方ないか」
独り言を漏らし、ソウマは街道を歩き始める。
――コツ。
遅れて、足音が鳴る。
もう慣れた。
慣れるしかなかった。
慣れさせられた。
森を抜けた先の街道は広く、しっかり整備されていた。土と石を踏み固めた道が真っ直ぐ遠くへ伸び、その両脇には朝露を含んだ草原が広がっている。
少し冷たい朝の空気が頬を撫でた。
空は、ゆっくりと白み始めている。
夜が終わる。
それだけで、少しだけ安心する自分がいた。
「……朝って偉大だな」
ぽつりと漏らした声が、また少し遅れて返ってくる。
夜は嫌だった。
静かになる。
余計なことを考える。
そして考え始めると、必ず“あの場所”を思い出してしまう。
何もない空間。
順番の存在しない世界。
理由のない結果。
『君はようやく、スタートラインに立った』
「……だからやめろって」
思わず口に出していた。
周囲には誰もいない。
当然だ。
それでも、何となく"聞かれた"気がしてしまう。
「……はぁ」
深く息を吐く。
遅れて、肺が軽くなる感覚が返ってきた。
まだ慣れない。
いや、慣れてはいけない気もしていた。
こんな状態を“普通”として受け入れてしまったら、本当に何かが壊れる気がする。
「……」
ソウマは視線を上げる。
街道はずっと先まで続いていた。
その先にあるのが、首都アストレアルだ。
リリアが言っていた場所。
騎士団がいて、人が大勢いて、この国の中心だという場所。
詳しいことは知らない。
ただ、今のソウマにとって、“人がいる”という事実だけで十分だった。
ここ数日、自分の周囲では意味の分からないことばかり起きている。
景色が飛ぶ。
過程が抜け落ちる。
同じ場所に戻る。
声が消える。
そのたびに、自分の認識そのものが少しずつ削れていくような感覚があった。
だからこそ、人のいる場所へ行きたかった。
普通に会話したい。
普通に温かいご飯を食べたい。
普通に眠りたい。
そんな当たり前のことを、今は必死に求めている。
「……普通って、こんなありがたかったんだな」
苦笑混じりに呟く。
少し前まで、そんなこと考えもしなかった。
元の世界にいた頃は、何も起きない毎日を退屈だと思うことすらあったのに。
今は違う。
“何も起きない”ことが欲しかった。
歩く。
――コツ。
遅れて、音が鳴る。
そのズレを確認するたび、胸の奥がざわつく。
だが、止まるわけにはいかなかった。
立ち止まれば、余計なことを考える。
余計なことを考えれば、また思い出してしまう。
『見損なった』
「……っ」
ソウマは顔をしかめる。
頭の奥に、声だけが残っている。
意味は分からない。
誰に言われたのかも、何に対してなのかも分からない。
だが、消えない。
「……本当に最悪だ」
吐き捨てるように呟く。
そして、無理やり思考を切る。
考えるな。
今は、首都へ向かえばいい。
それだけだ。
ソウマは意識的に周囲を見る。
草原。
街道。
木々。
空。
全部ある。
ちゃんと存在している。
消えていない。
「……よし」
確認するように呟く。
最近は、自分でも無意識にこういうことをしてしまう。
目の前の景色が存在しているか。
今、自分がどこにいるか。
ちゃんと連続しているか。
そんな確認ばかりしている。
少し前なら笑い飛ばしていただろう。
そんなに気にするな、と。
だが今は、本気で確認しないと不安だった。
しばらく歩いていると、街道脇に止まった荷車が目に入った。
「……ん?」
自然と足が止まる。
木製の荷車だった。
車輪が半分外れ、片側へ傾いている。積まれていたらしい麻袋は地面に落ち、中身が散乱していた。
乾燥豆。
干し肉。
水袋。
どれも旅用の生活物資だ。
「壊れたのか?」
近づき、しゃがみ込む。
木材が破壊されたような跡はない。
血痕もない。
争った形跡も見当たらない。
だが、人だけがいなかった。
「……」
妙な違和感が胸に残る。
荷車を捨てる理由が分からない。
王都へ向かう街道だ。助けを求めるにしても、そのまま放置していく理由が思いつかなかった。
「……急いでた、とか?」
口に出してみる。
だが、自分でも納得しきれていないのが分かった。
その時。
カラカラ、と小さな音が鳴った。
「ーーっ!」
肩が跳ねた。
反射的に振り向く。
荷車に吊るされていた金具が、音を立てただけだった。
「……ビビりすぎだろ、俺」
苦笑する。
だが、笑った後もしばらく鼓動が速いままだった。
自分でも分かる。
かなり参っている。
何かが起きる気がしてしまう。
何もなくても、警戒してしまう。
「……末期だな」
小さくぼやきながら立ち上がる。
視線を逸らすように、再び前を見る。
そして。
「……おお」
思わず声が漏れた。
目線の先に、朝日に照らされた巨大な白壁が見える。
首都改め、王都アストレアル。
高くそびえる外壁と、複数の尖塔。
中央に見える巨大な城。
遠目でも分かる。
巨大な中心都市だ。
「壮観だな……」
自然と、少しだけ肩の力が抜ける。
ようやく着く。
ようやく、人のいる場所に辿り着ける。
騎士団だっている。
宿だってある。
温かい食事もある。
ちゃんとしたベッドで眠ることができる。
「……普通のベッドで寝たい」
切実な願いだった。
地面も嫌だ。
森も嫌だ。
静かな場所そのものが、もう嫌になりかけている。
何も音がしない場所にいると、自分の呼吸や思考のズレばかり意識してしまう。
だから、人の気配が欲しかった。
人の声が聞きたい。
普通に誰かと会話したい。
「……普通に喋れるだけで、泣きそうだな」
自分で言って、少し笑う。
笑った感覚が遅れて頬に返ってきた。
本当に面倒だ。
そのまま歩き続ける。
アストレアルは少しずつ大きくなっていく。
近づくにつれ、城壁の巨大さがよく分かった。
高い。
冒険者の町であるガルネスでも比べ物にならないほどだ。
「これだけ大きいなら、そりゃ魔獣も簡単には入れはしないだろうな」
独り言を漏らす。
だが、その直後。
「……ん?」
違和感が混ざった。
目を細める。
遠すぎて細部までは見えない。
それでも、何かがおかしい気がした。
首都にしては、煙が妙に少ない。
炊事。
鍛冶。
朝の支度。
人が生活しているなら、もっと煙が空へ立ち上っていてもおかしくないはずだった。
「……朝早いからか?」
口に出してみる。
だが、自分で言いながら、妙に胸がざわついた。
違和感が消えない。
街道にも、あまりにも人が少ない。
ここまで見かけたのは、放置された荷車くらいだ。
「……いや、考えすぎか」
無理やり思考を切る。
その瞬間。
視界の端が、わずかに揺れた。
「……っ」
反射的に足を止める。
空気が歪む。
熱の上にある景色みたいに、空間そのものが微かに揺れていた。
「またかよ……」
額を押さえる。
視界の奥で、ほんの一瞬だけ“あの場所”がちらついた気がした。
順番の存在しない空間。
パラドクシア。
理解できないもの。
それらを考えた瞬間、背筋が冷えた。
「……違う」
無理やり切り捨てる。
今は考えるな。
今はアストレアルへ向かえばいい。
それだけだ。
ソウマはゆっくり顔を上げ、再び見上げる。
巨大な白壁。
そして――。
「……誰も、いないのか?」
衛兵が立っていると思っていた正門周辺に、人影がひとつも見えなかった。
ソウマは立ち止まったまま、遠くの城門を見つめていた。
朝日を受けた白い外壁は綺麗だった。
巨大で、荘厳で、まさに“王都”という言葉が似合う光景だ。
だが、その中に“気配”がない。
本来なら見えていておかしくないものが、何も見えないでいた。
衛兵。
荷馬車。
行商人。
旅人。
首都へ続く街道なのに、人の流れが不自然なほど少ない。
胃の奥が妙に冷える。
「……いや」
ソウマは小さく首を振る。
考えすぎだ。
ここ数日、自分の感覚は明らかに正常じゃない。だからこそ、違和感を過剰に拾っているだけかもしれない。
実際、遠すぎて細かいところまでは見えない。
衛兵が城門の影になっているだけかもしれないし、人通りが少ない時間帯なのかもしれない。
「……そうだよな」
半分、自分に言い聞かせるように呟く。
そして再び歩き始めた。
――コツ。
遅れて、足音がする。
相変わらずだった。
だが、今はまだマシな方だ。
森の中にいた時みたいな強烈なズレはない。視界が飛ぶことも、同じ場所に戻ることも起きていない。
「……このまま何も起きなければいいんだけどな」
願望をそのまま口に出す。
すると、妙な胸騒ぎがした。
言った瞬間に嫌な予感がするのは、もう条件反射みたいなものだった。
「……やめろやめろ」
ソウマは頭を振る。
(フラグみたいなこと言ったな)
今は普通にアストレアルに着いて、情報を集めて、腕を治して、普通に眠る。それだけでいい。
それ以上は望まない。
歩く。
朝日はもうかなり高くなっていた。
空は明るく、草原に落ちる陽も暖かく心地よい温度になっていた。
本来なら気持ちのいい朝だ。
だが、ソウマの胃の辺りには、ずっと重いものが沈んでいた。
アストレアルへ近づけば近づくほど、その違和感は強くなっていく。
"静かすぎる"
それがずっと引っかかっていた。
「……」
視線を横へ向ける。
「……」
視線を横へ向ける。
街道脇に、また荷車が止まっていた。
だが、今度は少し違った。
荷車そのものは倒れていない。
荷台には木箱が積まれている。
蓋の開いたままの箱。
転がった果物と、地面に落ちたパン。
さっきまで普通に作業していたような光景だった。
「……何だよ、これ」
ソウマはゆっくりと近づく。
荷車の横には、水の入った容器が落ちていた。
蓋が開いている。
中身がまだ地面を濡らしていた。
「……最近どころじゃない」
ついさっきまで、誰かがここにいたような空気だった。
それなのに、人だけがいない。
「……っ」
妙な寒気が背中を走る。
(逃げた?いや……)
違う。
“途中で消えた”
荷車の横には、片方だけの靴が落ちていた。
その時。
遠くから、風に混じって何かが聞こえた。
「……?」
耳を澄ます。
叫び声――ではない。
もっと低い。
地鳴りのような音。
ゴォ……という重い振動音。
「……何だ?」
視線を上げる。
アストレアルの方角。
城壁の向こう側から、微かに黒煙が上がっているのが見えた。
「……は?」
さっきまでは見えていなかった。
いや、見えていたのかもしれない。
気づかなかった可能性は――ないだろう。
黒煙は一本ではない。
既に空高くに立ち上っていた。
「……火事?」
違う。
規模がおかしい。
それに、嫌な予感がする。
ソウマは立ち上がる。
その瞬間。
――キィィィィィィン!
激しい耳鳴りがソウマを襲った。
「っ……!」
反射的に頭を押さえる。
脳の奥。
“理覚”がざわつく。
まるで無理やり何かを見せようとしてくるような、不快な感覚。
「……く、そ……」
視界が揺れる。
一瞬だけ、景色の輪郭が崩れた。
草原。
空。
街道。
その全部が、ノイズ混じりに歪む。
「……勘弁してくれ」
ソウマは額を押さえる。
こんな状態で戦える気がしなかった。
むしろ、まともに立っているだけで精一杯だ。
「……とにかく、急ぐか」
ここで立ち止まっていても仕方ない。
アストレアルへ行けば、何か分かるかもしれない。
騎士団だっている。
何かしら情報はあるはずだ。
ソウマはそうやって無理矢理自分を納得させ、歩く速度を上げた。
――コツ。
――コツ。
遅れて、足音がする。
アストレアルはどんどん近づいてくる。
そして、近づけば近づくほど、“異常”がはっきり見え始めた。
「……おい」
城壁に、傷がある。
遠目では分からなかった。
だが、近づいたことで見える。
巨大な外壁の一部が、黒く抉れている。
焼け跡がある。
しかも一箇所じゃない。
複数箇所に攻撃跡があった。
「何が、あったんだ……?」
(首都の防壁だろ……?それに魔獣程度で簡単に壊れるようなものには見えない)
それなのに、まるで巨大な何かに引き裂かれたような痕跡が残っていた。
不快な冷たい汗が背中を流れる。
静かすぎる理由。
放置された荷車。
黒煙。
そして、この傷跡。
ソウマの思考の中でこれら全てが繋がり始めていた。
「……まさか」
脳裏に一つ、浮かぶものがあった。
災害のような魔獣。
リリアたちと命懸けで戦った存在。
他の獣を従えるあいつは――
「ネグラ、ディア……?」
(……いや、いやいや。そんなわけがない。あいつは国境付近にしか現れないはずだ)
首都まで来るに、かなりの距離があった。
それに、ここには騎士団がいる。
国の首都であり中心で、さらに王都だ。
簡単に落ちるはずがない。
「……だよな。大丈夫、だよな」
自分に言い聞かせる。
だが、言えば言うほど不安が強くなっていった。
歩く速度が自然と上がる。
早く確認したかった。
ただの考えすぎであってほしかった。
その時。
異常な臭いが辺りを漂った。
「……っ」
臭い。
焦げ臭い。
それに混じって、鉄のような臭いもする。
「……血?」
喉が乾き始める。
そして、ようやく着いた。
巨大な門が、半開きのまま止まっている。
だが。
「……誰もいない」
やはり、衛兵がいない。
見張り台にも人影がない。
異常なのは一目瞭然だ。
ソウマはゆっくりと門へ近づいた。
――コツ。
遅れて、音が響く。
静かすぎる。
本当に、人の気配がない。
「……おい」
門の近くまで来たところで、ソウマは思わず立ち止まった。
地面に、深い爪痕が刻まれている。
石畳ごと抉れていた。
巨大な何かが通ったような痕跡。
そしてそのすぐ近くに、赤黒い染みが数箇所落ちていた。
「……っ」
背筋が冷える。
嫌な想像が、現実へ変わり始める。
その時。
遠くから――
「――ギャアアアアアアッ!!」
獣の咆哮が、首都全体を震わせた。
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本当に執筆の励みになります。
ぜひ今後とも、共にこの生存録を見届けていただけますと幸いです。




