認識の牢獄
かなり長めに書いております。
風が、鳴っている。
耳の奥を削るような、不快な音。
それはもう、慣れるとかいう次元の問題じゃない。
常にそこにあり、常にソウマを侵してくる。
「……っ」
ソウマは、軽く呼吸を整えた。
腕の中が、柔らかく温かい。
確かな感触がある。
「……ソウマ」
声がした。
ソウマの服を掴んでいる存在が、こちらを見上げる。
リリアだ。
もう見慣れた顔と、血に濡れて染まってしまいそうなほど綺麗な銀髪。
かすかに震えている瞳と腕。
「……離さないで」
か細い声。
その一言に、ソウマの指が強く締まる。
(……なんか違う)
一瞬、引っかかる。
声じゃない。
見た目でもない。
(……間だ)
リリアは、迷ってる時ほどこんな風に待たない。
もっと強く、もっと無理やりでも踏み込んでくる。
(これは……様子を見てる)
「……分かってる」
声が出た。
自分でも驚くほど、自然に出る。
「離したりしない」
その言葉を口にした瞬間。
不自然なほど劇的に。
“それ”が、笑った。
「——ああ、そう」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
表情は、リリアのまま。だが、その奥にある“何か”が決定的に違う。
「……やっぱり、簡単だね」
「……っ」
ソウマの喉が、詰まる。
「人ってさ、“掴んだもの”を手放せないんだよね」
その声は、リリアのものだった。
だが。
「それが間違ってても、自分が信じたいようにしていたい」
確信する。
これはーー
「だってあなた、自己中なんだもん」
「……お前は、誰だ」
「だから、私は……」
「お前は誰だって聞いてるんだ!」
その先の言葉を遮るように、聞けない、聞かないように大声で聞く。
だが、手は離せない。
離した瞬間、何かが終わる気がしたから。
リリアが口を開く。
不自然なほど、気にしていない様子で。
「誰、って」
“それ”は、くすりと笑った。
「リリアだよ?」
「……」
「ほら」
そっと、リリアの手がソウマの頬に触れてくる。
温かい。
流れ出た血の鉄臭さも、現実そのもの。
「こうやって触れることができてるじゃない」
「……」
「本物でしょ?」
違う。……でも理由が見つからない、ソウマはそう思った。
「……っ」
思考が、鈍っている。
「ねえ」
“リリア”が、囁く。
「どうして、疑うの?」
その言葉が、妙に刺さる。
「ここまで来て、一緒に戦って」
「一緒に傷ついて」
「一緒に怖がって」
「一緒に過ごしてきたのに——」
ぐっと、顔を近づけてくる。
「何で、分からないの?」
「……やめろ」
声がかすれる。
「何を?」
「……それ以上、喋るな」
「どうして?」
笑っている。
「本物だと思っていたから、でしょ?」
「……っ!うるせぇ!」
その瞬間。
ーーフュワン
音が、すぐ背後で鳴った。
「——っ!!」
条件反射で振り向きかけて、止まる。
(見るな)
なぜ。
(見たら、終わる)
直感的に止まる。
しかし。
「……ソウマ」
後ろから、声がする。
その声は、震えている。
本物の、リリアの声。
「……それは、違う……」
「……っ」
喉が、引き攣る。
目の前の“リリア”が、くすりと笑う。
「……やめろ……」
「やっぱり来たわね」
ソウマにだけ聞こえる、囁くような声。
「どういう……ことだ」
「分かっていたってこと」
「……どうして」
「ねえ」
どっちえらぶの。
耳元で囁かれた声が、頭に響く。
「前と後ろ」
「本物と偽物」
「ちゃんと、選ばないと」
「……っ」
呼吸が荒くなる。
後ろから同じ声が、続く。
「……ソウマ……お願い……」
弱い。
か細い。
今にも消えそうな声。
「……それ……偽物……」
「……」
「ソウマ」
腕の中の“リリア”が、言う。
「私を、離しても良いよ?」
「……は?」
「だってさ」
あっさりと。
「後ろが本物だとソウマは思うんでしょ?」
「……」
「なら、そっち行けばいいじゃん」
その言葉に、違和感が走る。
(……違う)
本物のリリアなら。
そんなこと、言わない。
ただ、言う場合は……
「……っ」
思考が、一瞬だけ冴え渡る。
冴え渡ってしまった。
だが。
「ほら」
“それ”が、自分の手に触れる。
「離すなら離して?」
優しく。
穏やかに。
でも、突き放すように。
「偽物だと思うなら、勝手にすれば?」
「……」
(違う。これは——)
後ろからの声。
「……ソウマ……」
泣きそうな声。
「……助けて……」
それが、心を削る。
「……っ」
ソウマの目が、揺れる。
(どっちなんだ)
指先が、震える。
(どっちが、本物なんだ)
「ねえ、ソウマ」
腕の中の“リリア”。
「私は、信じてるよ?」
その言葉。
「ソウマなら、ちゃんと分かってくれるって」
「……っ」
(やめろ)
やめてくれ。
(その言い方は——)
その根拠のない、危ない信用は。
完全に、リリアだ。
記憶と一致する。
感情と一致する。
「……」
後ろ。
「……ソウマ……」
掠れた声。
「……痛いよぅ……」
「……」
「……お願い……」
選べ。
選ぶんだ。
どちらかを。
今、ここで。
「……っ」
呼吸が、止まりそうになる。
(……分からない。分かるわけがない)
完全に同じだ。
だがーー
「選ばなきゃ、終わるよ?」
前の“リリア”が、囁く。
「ずっと、このまま。何もできないまま、全部失う」
「……」
(……違う)
俺だけは。
(違うはずだ)
「……ソウマ」
後ろから。
「……お願い……」
その声に、ソウマの顔が揺れる。
その頭は、リリアを思い出していた。
自分に利がないのに人を助ける危なっかしいほど優しい一面も。
「……」
ゆっくりと。
ソウマは、口を開いた。
「……君を、離す」
「……そう」
腕の中の“リリア”の表情は、変わらない。
ソウマの手が、わずかに緩む。
その、刹那。
前の“リリア”の表情が、歪んだ。
笑みが、裂ける。
目が、細くなる。
「——つまんない」
「……っ!?」
——ザシュッ!!
視界が、赤く染まる。
「がっ……!?」
血を吐く。
何かが、貫いた。
腹部を、深く。鋭く。
「……は……?」
腕の中の、いや腕の中にいた“リリア”
その手がーー
刃になっていた。
「っ、ぁ……!」
血が、溢れ出る。
「ねえ」
今はリリアの姿をしただけの“それ”が、顔を近づける。
至近距離に、リリアの顔がある。
「今の、どっちを選んだの?」
「……っ」
声が、出ない。
見抜かれている。
「私?」
「後ろの私?」
「それとも——」
フッ、と笑う。
リリアの顔で、リリアではない笑い方だった。
「“どっちでもない”つもり?」
「……っ、あ……!」
引き抜かれる。
痛みが、爆発する。
内臓が突き抜かれたような、いや実際突き抜かれたような痛み。
「がっ……ぁぁぁ!!」
膝が、崩れる。
だがーー
「まだだよ」
肩を、掴まれる。
逃がさない。
「っ——!どういう……つもりだ!」
「まだ、終わらせないってこと。もっと、もっと!」
「……っ」
視界の揺れが収まる。
血が止まる。
傷が、癒えていた。
リリアの魔法を目の前の“それ”が使った。
「ほら」
“それ”が、指を差す。
ゆっくりと。
「見てよ」
その先にーー
「……ソウマ……」
後ろから助けを求めていたリリアが、倒れている。
体は血に塗れて、一歩も動けずに。
「……ぁ……」
声にならない音。
「……助けて……」
かすかな声。
間違いないだろう。
今度こそ。
あれがーー
「……本物」
「さあ?」
“それ”が、笑う。
「どうだろうね?」
「……っ」
また、分からなくなる。
「でもさ」
それが、耳元で囁く。
「さっき、離したよね?」
「……おまえを」
「“本物かもしれない方”を」
「……あ……」
心臓が、嫌な音を立てる。
「ねえ、もし、あれが本物だったら、君はどうする?」
「……」
「今の一撃“守れたはず”だよね?」
「……やめろ……」
「でも、守れなかった。それは、選ばなかったからでしょ?」
「……やめろ……!」
叫ぶ。
だが、止まらない。
「これってさ。君のせいなんだよ」
「……っ!」
「君のせいで、彼女は傷ついた。もしかしたら命を落とすかもしれない」
「その傷を負わせたのは私。でも、守れたはずなのに守らなかった、君も大罪だよ」
「君はその行動で彼女を、“リリア”という助けてくれていた存在を、捨てたんだよ」
言葉が、刺さる。
ソウマの心を深く、抉るように。
さっきの傷よりも強い痛みを感じていた。
「判断が遅い」
「自己中心的」
「覚悟不足」
一つ一つ、叩き込まれる。
「彼女があんな痛ましい姿になったのは」
顔を、覗き込まれる。
「誰のせい?」
「……っ……」
答えられない。
「言ってみなよ」
「……」
「誰のせい?」
「……っ……」
喉が、震える。
「……おれ……」
かすれる声。
「……俺の……」
その瞬間。
“それ”が、笑った。
満足そうに。
「その通り」
風の動きが遅い。
「——さあ」
“それ”が、手を離す。
「君は、この状況で何をする?」
「……」
立てない。
動けない。
思考も、まとまらない。
「まだ、終わってないよ?」
「それは分かって……」
「ほら」
指を差される。
ソウマの周囲に、無数の影。
そしてーー
「……ソウマ……」
また、リリアと同じ声。
今度は、別の方向から。
「……助けて……」
「……」
もっと。
「……ソウマ……」
「……こっち……」
「……怖い……」
増える。
増えていく。
声が。
存在が。
リリアが。
「……」
ソウマの目が、虚ろになる。
目の輝きが、消えてゆく。
「……もう、分からない。何もかも、全てが」
「ねえ」
“それ”の声。
あくまでも優しく、穏やかに。
「もう一回、やってよ」
「……」
「今度こそ、当ててみせてよ。本物のリリアを」
「……」
沈黙が落ちる。
微かな風の音だけが、響く。
耳の奥に張り付くような音が、消えない。
削る。
侵す。
思考を、乱す。
「……」
ソウマは、立ち尽くしていた。
(……分からない)
何もかもが、分からない。
「……ソウマ」
声がする。
右から。
「……ねえ」
「……っ」
違和感。
全員が、動く。
(……同じ……?)
右も、左も、後ろも。
ほんのわずか、同じタイミングで同じ動きをしている。
ズレているはずなのに、
一瞬だけ“重なって見える”。
(……なんだ、これ……)
今度は、左が動く。
「……助けて」
後ろ。
「……怖い」
前。
全方向。
全てが、リリアだった。
「……やめろ」
ソウマの声が、低く落ちる。
(……違う)
一瞬だけ、思考を無理やり引き戻す。
(数じゃない)
見えているものは、多い。
だが――
(全部、同じだ)
整理する。
状況は一つ。
(俺は、惑わされてるだけだ)
「……」
目を閉じる。
だが、意味がない。
音がある。
気配がある。
存在がある。
消えない。
(……どうすればいい)
だがーー
「考えてるの?」
すぐ近くから、“それ”の声。
「まだ、そんな余裕あるんだ」
「……っ」
反射的に目を開ける。
さっきまで掴んでいた“リリア”が立っている。
今はもう、少し離れた位置にいる。
血も、傷も、全てそのまま。
だが。
「……楽しいね」
笑っている。
「……やめろ」
声が、低く落ちる。
「何を?」
「全部だ」
「全部?」
くすり、と笑う。
「無理だよ」
あっさりと切り捨てられる。
「だってこれは全部、“君の中”で起きてるんだから」
「……は?」
一瞬、理解が遅れる。
「外の、この世界じゃないよ?」
“それ”が、指をこめかみに当てる。
「ここだ」
とん、と軽く叩く。
「君の認識」
「君の判断」
「君の選択力も」
「全部、壊している途中だ」
「……」
言葉が、入ってこない。
言葉として聞いてはいるものの、意味が理解できない。
耳からそのまま抜けていく。
「ねえ」
“それ”が、歩いてくる。
「今、何人見えてる?」
「……」
答えられない。
数えること自体が、無意味だと分かっている。
でも、そもそも数えられない。
「数えられないよね」
当然のように、さらっと言ってくる。
「だって、“違わない”から」
「……?」
「同じものを、何度も見てるだけ」
「……っ」
ぞわり、とする。
「ねえ」
顔を覗き込まれる。
「君はこれを聞いても、“別だ”って思える?」
「……」
思ってしまう。
目の前に、確かに“いる”から。
「だからさ」
“それ”が、囁く。
「もう、選ぶのをやめたら良いんだよ」
「……」
「どうせ、間違えるんだから」
「……っ。嫌だ!」
拳が、震える。
(……違う)
(それは——)
「じゃあ、どうするの?」
即座に返される。
「見分ける?」
「無理だよね」
「感じる?」
「馬鹿馬鹿しい。そもそも、もう壊れてる」
「信じる?」
「それが一番ダメ」
「……っ!」
言葉が、刺さる。
全部、否定される。
全部、封じられる。
「君」
最後に。
「どうやって戦うの?」
「……」
答えが、見つからない。
「……ソウマ」
声。
今度は、弱い。
かすれている。
後ろで、倒れている“リリア“。
「……まだ……いる……?」
「……」
視線が、そちらに向く。
動いていない。
「……ソウマ……」
「……っ」
その声に、胸が締め付けられる。
(……あれが、本物——)
そう思った瞬間。
「違うよ」
即座に否定が入る。
横にいる、別の“リリア“。
「それ、偽物だよ」
「……」
「さっきも間違えたでしょ?」
「……っ」
思考が、止まりかける。
「ねえ」
前から。
「また、同じように間違えるの?」
「……やめろ……」
「だって事実じゃん」
「……やめろやめろやめろ……」
呼吸が乱れる。
「……ソウマ」
後ろの“リリア“。
「……助けて……」
手を、伸ばしている。
震えながら。
血を流しながら。
「……」
一歩、踏み出しかける。
だが。
「行くの?」
横のリリア。
「それで、本当に間違えない?」
「……っ」
足が止まる。
「ほら」
別の声。
「また、迷ってる」
「……やめろ」
「また、間違える」
「……やめろ……」
「ねえ」
さっきソウマを攻撃した“それ“が囁く。
「さっき、君はどうなったっけ?」
「……っ!」
フラッシュバックする。
刃。
いつの間にか変化していた、手の刃。
血。
錆びた鉄のような鼻をつく臭い。
貫かれる感覚。
内臓が刃で刺された後の熱さ。
「……っ、ぁ……!」
膝が、崩れる。
「またやるの?」
「同じことを。同じ間違いを」
「やめろぉぉぉ!!」
ソウマは耐えきれなくなって、叫ぶ。
だが、“それ“は止まらない。
「ねえ」
優しく。
「もう、やめてしまいなよ」
「……」
「選ぶことを」
「……」
「楽になるよ?全部、捨ててしまえば」
その言葉がソウマの心に、静かに落ちる。
(……楽)
頭の奥で、反響する。
(……確かに)
選ばなければ、間違えない。
誰も、傷つけない。
「……」
「……ソウマ」
前から、声がする。
「……お願い……」
「……」
「……助けて……」
「……どうやって」
「……痛い……」
声が、遠くなる。
(……もう、いいんじゃないか)
すぐ隣から、“それ”のこえがする。
「やっと、分かってきたみたいじゃない」
「……そうだな」
「全部、投げ捨ててしまえばいい」
「……」
「ここを、一人で出ればいい。簡単なことじゃない」
「……簡単だな」
「誰も選ばなくていい。誰も、傷つけなくていい」
「傷つけない……」
「君も、楽になれる」
「……」
指先の力が、抜けていく。
意識が、薄れる。
「……」
(……そうだ)
「もう、楽に——」
(もう、いいや——)
その時。
「——ソウマ」
声がした。
今までと違う。
弱い声。
でも、はっきりとしている。
「……逃げるの?」
動きが、止まる。
「……っ」
ゆっくりと、視線が向く。
声がした、後ろの方に、倒れたままの“リリア“。
「……それ」
息が荒い。
「……ソウマが……一番……嫌うやつ、でしょ……」
胸が、強く打たれる。
「……」
言葉が、出ない。
「……ねえ」
リリアが、続ける。
「……さっき……言ってたじゃない……」
震える声。
「……置いていかないって……」
「……っ」
記憶が、蘇る。
確かに、言った。
「……なのに」
リリアの目が、揺れる。
「……今、自分がやろうとしてること……分かってる?」
「……」
答えられない。
「……それをすると……」
それはーー
「……逃げるのは……」
息を吸う。
「……ソウマだけ、なんでしょ……」
「……っ!!」
その瞬間。
頭の奥にーー
“何か”が、流れ込んできた。
ざわり、と、歪む。
世界が。
音が。
存在が。
「——っ!?」
視界が、変わる。
リリアが、消える。
いや、違う。
「……一つ……?」
重なっている。
全部が、同じ場所に。
同じ“何か”として。
「……っ、これ……!」
息が、荒くなる。
情報が、流れ込む。
止まらない。
制御できない。
「……ぐっ……!」
頭が、割れそうになる。
だがーー
ギリギリのところで理解できる。
「……これ……」
敵はーー
「……個体じゃ、ない……」
一つだけ、だ。
「……っ!!」
その瞬間。
周囲の“リリア”たちが、同時に歪む。
「……あ」
“それ”が、初めて動揺する様子を見せる。
「……それ、見えちゃった?」
「……っ……!」
息が、乱れる。
視界が、まだ安定しない。
だが、確かに捉えた。
「……そこか……!」
足に、力を込める。
踏み出す。
膝がふらつく。
それでもーー
進む。
「……へえ」
“それ”が、笑う。
だが、今までとは違う。
「……やっぱり君は、面白いね」
ワクワクしているような、楽しそうな表情を“それ“は浮かべた。
「でも」
次の瞬間。
世界が、再び歪む。
「……まだ、足りないな」
視界が、戻る。
リリアが、増える。
声が、重なる。
「……ソウマ……」
「……助けて……」
「……こっち……」
「……怖い……」
さっきの感覚が、薄れる。
そのまま、消える。
「……っ、くそ……!」
維持できない。
自分から使うこともできない。
「ねえ」
“それ”の声。
「今の、続けられると思う?」
「……続ける。何とか続けて見せ……」
「無理だよ」
遮られる。
断言される。
「だって君、制御できてないじゃん」
「……っ」
紛れもない事実だ。
否定できるはずがない。
「ほら、また選ぶしかないよ?」
「……っ……」
「今度は、どれ?」
沈黙。
風が、鳴っている。
風しか、鳴っていない。
耳の奥を削る音は、もう感覚として存在していた。
痛みではない。
異物でもない。
ただ、そこにあるもの。
「……」
ソウマは、ただ立っていた。
動けないまま。
選べないまま。
呼吸だけが、浅く繰り返される。
「ねえ」
“それ”の声がする。
「まだ、やるの?」
「……」
答えない。
答えられない。
見合う答えが、見つからない。
「もう、自分でも分かってるでしょ?」
「……」
「君じゃ、無理なんだよ」
静かに。
確実に。
事実を、突きつけられる。
「選べない」
「見分けられない」
「守れない」
「だったらさ」
一歩、近づく気配。
「全部、やめてしまおうよ」
「……」
「楽になろう。全部、投げ出してしまおう」
その言葉は、今のソウマには魅力的ですらあった。
(……楽)
確かに、そうだ。
ここから抜ける方法が見えていない。
見えるとも思えない。
戦い方も、分からない。
せめてリリアだけでも、守れたらいいのに。
「そうだよ」
“それ”が、囁く。
「それでいいんだよ」
「……」
「君は、もう十分やったよ」
「……」
「だから——」
「うるせえよ」
低い声で、言葉を遮るように。
「……ん?」
“それ”の声が、わずかに揺れる。
「……何が、十分だ」
ソウマの目が、わずかに上がる。
焦点は、まだ完全に定まらない。
それでも。
目に生気が宿っていた。
「……何も、できてねえだろ」
一歩、踏み出す。
足が、揺れる。
それでも。
「……勝手に、終わらせんな」
「……へえ」
“それ”が、笑う。
だが、その奥にほんの僅かな警戒色があった。
「じゃあ、どうするつもりなの?」
「それは……」
やっぱり答えられない。
「また選ぶの?それで、また間違える?本物を傷つける可能性だってあるんだよ?」
「……」
言葉が、出ない。
だが。
「……もう、選ばねえよ」
かすれた声。
それでも、確かに言った。
「……今なんて言った?」
「もう選ばないと言った」
「……それ、どういう意味?」
「そのままだ」
呼吸が、荒い。
血が、流れている。
それは、本物のリリアだって同じ。
それでもーー
「……全部、選ばない」
「……全部とは?」
「見えてるものも、聞こえてる声も何もかも。全部だ」
「……」
“それ”が、黙る。
「……本物も?」
静かに、問いかける。
「……ああ」
ソウマは、ゆっくりと答えた。
「……っ」
一瞬だけ、“それ”の空気が揺れる。
「……へえ」
だが、すぐに戻る。
「それ、本気で言ってる?」
「……ああ」
「じゃあ」
“それ”が、笑う。
「今、倒れてるの」
指を差す。
「見捨てるんだ?」
ソウマは、答えない。
「まだ、助けられるかもしれないのに?」
「……」
「今なら、間に合うかもしれないのに?それでも?」
沈黙。
「あれが、本物だとしても?」
風が、鳴る。
長く、重く。
そしてーー
「……助ける」
「……え?」
「助ける」
同じ言葉。
「……さっき自分が何言ったか、覚えてる?見捨てるって、君が言ったんだよ?」
嘲るように、聞いてくる。
「勘違いすんなよ。俺は、見捨てるとは一言も言ってない」
「……は?」
「選ばないだけだ。つまり……」
ゆっくりと、顔を上げる。
「全部、まとめて助ける」
「全部同じに見えるなら——」
人差し指を立てる。
「本体は一つのはずだ」
「そこを叩けば、全部終わる」
「……」
一瞬。
「……何言ってんの?バカなの?」
「生憎、リリアにバカってずっと言われてるんで」
「……そんなの、できるわけないでしょ。今、君が置かれてる状況、分かってる?」
「分かった上で答えてる。できる」
即答。
「……根拠は?」
「ねえよ」
「……本当に何言ってんの?」
「でも」
一歩。
踏み出す。
「やるしかないんだよ」
「……はぁ」
“それ”が、ため息をつく。
「……それ、ただの自爆になるよ?」
「……ああ」
「場合によっては、全員巻き込む」
「……そうだな」
「場合によっては、本物も死ぬ」
「……そうだ」
「……君はそれでもやるって言うの?随分と残虐だね」
「場合によっては、だろ?そうしなければ良いだけだ。それに」
ソウマは、言う。
「選ぶより、マシだ」
「……っ」
その瞬間。
空気が、変わる。
「……本気、なんだね」
“それ”の声が、わずかに低くなる。
「……だったら」
次の瞬間。
世界が、歪む。
見たことないほど一気に。
さらに、強く。
「——本気で、潰せに行かせてもらう」
無数のリリアが、一斉に動く。
全方向から、同時に。
「……っ!!」
ソウマは、目を閉じた。
(……見るな聞くな感じるな……)
全てを、遮断する。
その代わりに。
(……一つ)
さっき、見えたものを。
重なった“何か”を。
それだけを、掴む。
「……っ、ぐ……!」
頭が、割れそうになる。
情報が、頭から溢れる。
だが、離さない。
「……そこだ……!」
目を開く。
だが、見るのは、その“何か”だけ。
他は、無視。
全部、無視。
「——ルクスレイド!」
光が、弾ける。
一直線に、迷いなく。
その微妙な綻びへ、叩き込む。
ーーバチィィィィン!!
光を、空間そのものに叩き込む。
「……っ!?」
“それ”が、初めて大きく揺れる。
周囲のリリアが、同時に歪む。
「……ぐ……!」
ソウマの視界も、崩れる。
耐えきれない。
でも。
「止まれるかよ……!」
掴み直す。
「……もう一発……!」
踏み込む。
足が、滑る。
腕が、動かせない。
それでもーー
「——っ!!」
振り抜く。
ーーバチィィィィン!!
二撃目。
今度は、さらに深く。
「……ぁ……!」
“それ”の声が、歪む。
「……なんで……」
周囲の影が、揺れる。
消えかける。
「……なんで、それを……」
「……」
ソウマは、答えない。
ただ。
もう一度、構える。
「……やめて」
初めて、“それ”が、明確な拒絶を見せる。
「……それ、やめて」
「……」
「それ、続けたら——」
「……ああ」
ソウマが、答える。
「分かってる」
息が、荒い。
視界も、限界。
何もかもがぼやけている。
「……多分、俺も死ぬ」
「……っ」
「でも」
最後に、力を込める。
「それで、いい」
振りかぶる。
その瞬間。
「——ソウマ!!」
声がする。
強く、はっきりと。
振り向かない。
振り向かなくても、分かる。
「……リリア」
その声だけは。
「それで、いいの?」
「……ああ」
迷いなく。
「……本当に?」
「……ああ」
「……死ぬかも、しれないのに?」
「……その覚悟の上で」
「……っ!」
一瞬、沈黙が流れる。
そしてーー
「……バカなんだから」
小さく、でもはっきりと。
「……でも」
続く。
「それが、あなただよね」
「……ごめんな」
ほんの少しだけ。
力が戻る。
リリアの声がする。
「外したら承知しないからね」
「……任せろ」
短く、それだけだった。
そしてーー
「——終わらせる」
最後の一撃を、全てを込めて。
振り抜く。
ーーバチィィィィン!!
空間が、砕けた。
音が、消える。
風が、止まる。
歪みが、崩れる。
「……ぁ……」
“それ“から、何かが落ちる。
崩れる。
消えていく。
光の粒となって。
「……」
完全な静寂が流れる。
「……は……」
ソウマの膝が、崩れる。
視界が、暗くなる。
「……終わったか……?」
かすれた声を出す。
返事は、返ってこない。
ただーー
「ソウマ」
声がする。
今一番、聞きたかった声。
「……」
顔を、上げる。
そこにーー
リリアがいる。
一人だけで。
血まみれで。
それでも、確かに立っている。
「……」
ソウマは、何も言わない。
ただ。
ゆっくりと、手を伸ばす。
「……」
リリアも、手を伸ばす。
パンッ。
手のひらを合わせる。
「良くやったわね!」
その瞬間。
「……っ」
違和感がある。
(……軽すぎる)
リリアなら、こんな時、そんな言葉を先に言わない。
もっと先に出るのは――
(……怒りか、心配だろ)
「……ソウマ」
リリアが、微笑む。
「……ちゃんと、当てたね」
「……当たれた」
その言葉。
「……良かったね」
優しい、いつもの笑顔。
ーーだからこそ。
「……違う」
ソウマの声が、落ちる。
「……え?」
「……お前」
ゆっくりと、その手を振り払う。
「誰だ?」
「誰って、リリアだよ?あ、疲れてるのか。仕方ないなぁ、ソウマは」
「……まだ、終わってないだろ」
その瞬間。
「……あ」
空気が、歪む。
リリアの輪郭が、揺れる。
「……なんで……」
“それ”の声がする。
もう、聞きたくもなかった。
微かに、歪んでいる。
「……分かった?」
ソウマは、息を吐く。
「……お前さ」
目を細める。
「最後、気抜いただろ」
「……っ」
沈黙する。
どうやら図星だったようだ。
「……“安心させに来た”だろ」
「……」
「それが、一番違和感あったんだよ」
「……」
“それ”は、何も言わない。
ただーー
静かに、歪む。
「……はは」
小さく、笑う。
「……ほんと、君は面白いね」
その瞬間。
再び、
空気が歪んだ。
更新が遅れました。
その分、長めに書かせていただきました。
なんと脅威の一話で10000字。
これからは6〜7000字程度です。




