公理の証明
二日ぶりの更新です。
風が、鳴っている。
だが、それは森を揺らす音ではなく、耳の奥を引っ掻くような音だった。
「……っ」
リリアが、顔をしかめる。
「何これ……」
答えは、ない。
ソウマも、分からない。
リリアの視線は、もう捉えてしまっている。
森の奥。
そこにーー
ある。
……フュワン。
……フュワン。
……フュワン。
……フュワン。
無数の影が緑の暗闇に浮かぶ。
「……っ」
リリアの呼吸が、乱れる。
「……多すぎ……」
「数えるな」
「どうして」
(数じゃない)
「やばいな……これ」
その瞬間。
ーーフュン
一つが、消えた。
「っ!」
来る。
ソウマもリリアもそう思った。
だが、来ない。
「……ん?」
次の瞬間。
ーーザシュッ!!
「っあ……!」
リリアの肩が、裂けた。
遅れて、血が噴き出す。
「リリア!」
「……え……?」
自分でも、何が起きたか分かっていない顔。
「……今の……なに……」
その声も震えている。
「違う……!」
「……は……?」
理解できるわけがない。
言った本人でさえまだ曖昧だった。
(……やばい)
これはもはや、戦いじゃない
ただの理不尽だ。
「一回、下がろう」
「でも——」
「無理するな。傷、思ったより深いぞ!」
少し強めに言う。
その瞬間。
ーーフュン
今度は見えた。
だがーー
遅い。
ーーザシュッ!!
ソウマの脇腹が裂ける。
「っ……!」
「ソウマ!?大丈夫!?」
「……っ、今のは、見えてた……」
手を腹に持っていきながら、息を整える。
「見えても……このざまだ」
裂けた脇腹を指差す。
「……何それ……」
リリアの声が震える。
その声に、恐怖が、滲む。
「どうやって戦うのよ……」
答えられない。
分からない。
その時。
ーーフュン
三つ、同時に揺れる。
「来るぞ!」
構える。
だがーー
どこから来るかも、タイミングも分からない。
「ヴェルディア!」
リリアが風を展開する。
だがーー
意味がない。
ーーザシュッ!!
「っああっ!!」
リリアの左足が裂ける。
血が流れ出して、バランスが崩れる。
「……っ、いやだ……!」
初めて、明確な恐怖が声に出る。
「痛い……!」
「リリア!立てるか!」
「無理よ……!力が入らないの……!」
膝をつく。
血が、地面に落ちる。
「どこから来るのか分かんないし……!」
その瞬間。
ーーフュン
「あぶなっ——!」
ソウマが割り込む。
——ザシュッ!!
背中が裂ける。
「っ、ぁぁぁぁ……!」
「ソウマ!」
「大丈夫だ!それより、リリアの方がやばいんじゃないの?」
「それは……」
「……ごめん、失礼させてもらう」
「ふぇ?」
そのまま、リリアの膝のあたりと背中に手を置いて、抱き抱える。
いわゆる、お姫様抱っこ。
「いや、決してやましいことを思ってるわけではなくてですね……」
「そんなことわかってる!いいから行きましょう」
恐怖。
痛み。
理解不能。
全部が、一気に押し寄せている。
「……怖い……」
リリアの口から、ぽつり、とこぼれる。
その一言が、この状況の全てだった。
「……ああ」
ソウマも、否定しない。
「俺も、怖い」
正直に言う。
「でも——」
前を見る。
歪みが、無数に浮かんでいる。
「止まっちゃいけない」
それだけは、確定している。
ーーフュン
「っ!」
今度は、見えない。
完全に。
「——っ!?」
次の瞬間。
ーーザシュッ!!
ソウマの右腕が、深く裂ける。
「ぁっ……!」
腕のバランスが揺れる。
「何のぉ!」
「無理しないでってば!」
「いーや。むしろご褒美みたいなもんだよ、リリア」
「もう。相変わらずバカなんだから」
声が、消えかける。
「……でも」
「でも?」
「当たるの、分かってるのに……」
呼吸が乱れる。
「避けられない……」
戦意がなくなっていく。
(……まずい)
ソウマの顔が歪む。
(折れる)
このままだと、二人とも。
その時。
ーーフュン
一つの歪みが、動いた。
「……っ」
ざわり。
頭が揺れる。
敵の位置が、頭に流れ込んでくる。
感じる。
さっきより、はっきりと。
(……こいつだけ)
違う。
理覚的に、明らかに違う。
「……リリア」
腕の中のリリアに声をかける。
「一回だけ、合わせてくれないか?」
「うーん……。いや、いけないわ」
「聞いてくれ」
優しく、繊細なものを扱うような丁寧な声で言う。
「さっき動いた個体、何かが違う気がする。いや、多分確実に」
「どうして?」
今こそ言うべきだろ、と覚悟を決める。
「俺の、属性だ」
「え……?」
「意味がわからない属性あっただろ?叡属性とかいうやつ」
「あったわね。覚えてるわ」
「あれが、たまに頭の中に情報を流し込むんだよ」
「危険だわ」
「……?」
即答され、戸惑う。
「属性を自分で制御できてないってことでしょ?いつか、暴走するわよ」
「まあ抑えられないのは事実だな。知りたい時ならまだしも、知りたくない時にも流し込んでくるんだよ」
「まあ、そんなこと言ってる場合じゃないか」
「……そうだな」
「……使えるなら、使え」
ソウマは、息を呑む。
「それって……」
「ラドックの言葉。あの人、よくこの言葉を口にしていたの」
「俺も……」
言われた。
あの、調査隊の後。
「——いいわよ。一回だけ……だからね?」
「無理すんなって言っておきながら、無理させてすまん」
「いいのよ。私がしたくてしてることだし」
「ほんと、ごめん。じゃあ、いくぞ」
「うん」
ソウマが踏み込む。
(ここで、決める)
歪みが、動く。
ーーフュン
来る。
「今だ!!」
「……っ。ゼガアルゼリア!」
リリアが、最後の力で風を叩き込む。
ーースパァァァァン!
一瞬。
ほんの一瞬。
“ズレ”が揃う。
「——ルクスレイド!!」
光の棒を、振るう。
敵に向かって。
全力。
迷いなし。
ーーバチィィィィン!!
直撃。
今までで、一番深い手応え。
“それ”が、大きく歪む。
そしてーー
周囲の歪みも、同時に揺れる。
「連動して……効いた……!?」
だがーー
「……まだ……いるのか……」
リリアの視線の先。
森の奥。
さらに奥。
……フュワン。
……フュワン。
終わらない。
減っていない。
むしろーー
「……増えてる……?」
絶望が滲んで、流れ出す。
ソウマも、理解する。
(……違う)
これはーー
「最初から」
ただーー
「今、ようやく……」
リリアの顔から、血の気がすっと引く。
「……じゃあ……」
声が、震えていた。
「これ……全部を……?」
答えは、返ってこない。
だが、その沈黙が答えだった。
風が、鳴る。
耳障りな音が、止まらない。
「……ねえ」
リリアが、呟く。
「……これ……」
震える声。
「……勝てるの……?」
ソウマは、答えなかった。
答えられなかった。
その代わりに、一歩、踏み出す。
血を流しながら。
それがーー
ソウマなりの唯一の答えだった。
風が、鳴っている。
耳の奥に、張り付くような音が、消えない。止まらない。
「……」
ソウマは、構えることをやめなかった。
止めた瞬間、終わる。
それだけは、もう分かっている。
だがーー
(……どうすればいい)
「……ソウマ」
リリアの声がする。
「どうした?」
(……?さっきより、遠い?)
距離が、おかしい。
「……いるわよね?」
「いるぞ」
即答する。
……フュワン。
音が、すぐ横で鳴る。
反応しない。
もう、分かっている。
視界の端で、歪みが揺れる。
だが、追わない。
「ねえ」
リリアが、ぽつりと呟く。
「……今も」
間が空く。
「……さっきの、まだいる?」
「いるな」
「……減ってない?」
「……残念ながら」
「そっか」
その一言が、やけに重い。
沈黙。
風の音だけが、耳を削る。
「……ねえ」
また、リリアが声を掛ける。
今度は、少しだけ声が違う。
「何人いるの?」
「分からない」
正直に答える。
「見えてる分だけでも、多すぎる」
「そうじゃなくて」
間が空く。
「……ソウマ」
「……何だ?」
風が、流れる。
「……あなた、何人いるの?」
今、リリアは何を言ったのか。
「……は?」
振り向く。
そこにいるのは、リリアただ一人。
血を流してはいるものの、いつもの姿。
ソウマはうろたえ、動揺した様子だった。
「何、言ってんだよ」
「……だって」
リリアの目が、揺れている。
「今、横にもいたじゃない」
「……」
背筋が、冷える。
……フュワン。
背後で、影の音がする。
だが、振り向かない。
「絶対に、見分けようとするな」
「でも」
「一つだけ見ろ」
「……え?」
「それ以外は、全部無視だ。混乱する」
リリアは少し黙る。
そして。
「分かったわ」
小さく、頷いた。
「……今、目の前のあなた」
ゆっくりと。
「これが、本物のソウマとしか考えられないもの」
「……俺は、神代ソウマだよ」
それでいい。
……フュワン。
影の音が、増える。
しかし、もう見ない。
(……それでも)
ソウマの中で、違和感が膨らむ。
(さっきからなんて言ってんだ?)
さっき、自分は何を言った?
「見るな」
「本物を決めろ」
確かに、思った。言った。
だがーー
(声、出したか?)
記憶が、曖昧だった。
「……ソウマ?」
リリアが、不安そうに見る。
「どうしたの?」
「……いや」
首を振る。
「なんでもない」
だが。
「……今、何か言った?」
「ん?言ったぞ」
「なんて言ったの?」
「なんでもない、って言った」
「その“なんでもない”」
リリアの顔が、恐怖に染まる。
「聞こえたの」
「……?当たり前だろ?」
「……でも、口が、動いてなかったの」
「……は?」
「ねえ。あなたは本物の、神代ソウマなの?」
「本物だ。信じてくれ。俺が、神代ソウマだ」
「確信が……持てないよ。あなたの言うことを信じたいのに……信じられない」
「俺は神代ソウマだ」
「嘘をつけ!偽物!」
……フュワン。
音が、すぐ後ろで鳴った。
「え……?ソウマ……?」
「そうだ。俺がソウマだ。あんな偽物のこと、信じるな」
全く同じ声。
全く同じ姿。
見分けなんてつかない。
もちろん、ソウマ本人だって。
「お前は、お前が、偽物だ!」
最初のソウマが叫んだ。
「黙れ偽物!何が目的でこんなことを!」
後のソウマも叫び返した。
「それはこっちのセリフだ!」
「離れろ偽物!」
「……ソウマ」
リリアの声。
だが。
「……振り向いて」
ソウマは、動かない。
「……お願い」
「……」
「……」
「……私、分からなくなってる」
その声は、紛れもなくリリア本人の声だった。
「ソウマのことも。自分のことも」
「何を……?」
「自分のこと……?」
「まだ分かってないのね。……見渡したら分かるわ」
二人のソウマは同時に辺りを見渡す。
どちらも、その瞬間息を呑んだ。
周りにいたのは、何人ものリリア。
全員が、同じ格好。
同じ見た目。
同じ声。
「「「私が、本物」」」
後ろには、“リリアの声”。
「「「……ソウマ」」」
もう一度。
「「「……誰を本物にするの?」」」
風が、鳴る。
耳を引き裂くような音。
ソウマは、止まった。
風が、鳴っている。
耳の奥を、削るように。
止まらない。
「……ソウマ」
後ろから、声。
「……振り向いて」
震えている。
確かに、リリアの声だ。
「……ねえ」
後ろのリリアが言う。
「……お願い」
「……」
「……置いていかないで」
その言葉に、ソウマの指先がわずかに動く。
前から。
「……ソウマ……」
弱い声。
今にも消えそうな。
「……助けて」
前。
風が、鳴る。
もう、うるさい。
「……ソウマ」
横のリリア。
「……怖い」
「……」
呼吸が、浅くなる。
その時。
「……ねえ」
すぐ隣。
「……こっち」
横を見る。
「……ソウマ」
隣にいるリリアが言う。
「……私、本物だよ」
後ろ。
「……違う、それ偽物」
前。
「……どっちも違う」
「……は……?」
思考が、完全に崩れる。
全方向。
全部、リリアだった。
「……やめろ」
ソウマの声が、低く落ちる。
「……どれも選べねえ」
「……じゃあ」
前のソウマが言う。
「……全部、捨てろ」
その言葉に。
一瞬だけ、静寂が落ちた。
「……は?」
「……それが一番楽だ」
前のソウマ。
「……誰も選ばなきゃ、間違えない」
(……楽)
その言葉が、やけに重く響く。
(……確かに)
選ばなければ、間違えることはない。
「……」
ゆっくりと、目を閉じる。
ここを、一人で出ていく。
それで、全てが終わる。
全て、解決する。
「んなわけねぇだろ!」
ソウマは、叫んだ。
「ここまで助けてくれたリリアを置いていくだと!?冗談にも程があるだろ、お前。何でそんなことが言えんだ!お前、よくそんな程度で俺の偽物が務まると思ったな。もしかして、偽物のリリアもそんなもんなのかよ。超イージーじゃねぇか。見破るのなんか余裕だぞ、そんなもんだと!」
「ソウマ!」
叫び声が聞こえた。
目の前に、一歩分の距離、リリアがいた。
一人だけ。
「……っ」
息を呑む。
「……今の、全部」
リリアの声が、震える。
「聞こえてたわよ」
周囲を見る。
前の空間。
後ろの気配。
横の存在。
全てまだいる。
「……ようやく、分かったの」
リリアが言う。
「今のが、ソウマでしょ」
「……」
ソウマは、黙る。
「……捨てるって言ったの」
まっすぐ、見てくる。
「あなたの声だったわね」
否定できない。
事実だ。
「でも」
リリアが、一歩近づく。
「それだけは、違うって分かる。本心じゃない。あのソウマが、言うと思ってるの?」
「……」
ソウマの中で、何かが戻る。
「……ああ」
小さく、息を吐く。
「……あれは、俺じゃない」
その瞬間。
……フュワン。
音が、変わる。
ざわり、と、歪みが揺れる。
前のソウマが、笑う。
「……その判断で、良かったの?」
後ろのリリアが、囁く。
「……間違いだよ」
横のリリアが、呟く。
「……もう遅いわ」
「……っ」
頭が、痛む。
(……違う)
ソウマは、歯を食いしばる。
「……一つでいいんだ」
低く、言う。
「俺が、選ぶ」
目の前のリリアの手を、掴む。
「……この人だ。この人が、この手が、本物のリリアだ!」
その瞬間。
……フュワンッ!!
世界が、大きく歪んだ。
「……っ!」
リリアが、息を呑む。
だが。
「……ソウマ」
違うリリアの声が、震える。
「……今、誰掴んでるの?」
「……は?」
手を見る。
確かに、掴んでいる。
その手を。
感触もある。
だが。
(……顔が)
体の輪郭が、歪む。
「……ねえ」
リリアの声。
今度はーー
どこから?
「……それは」
背後からの声。
「……本物の私じゃないよ」
心臓が、止まりかける。
ゆっくりと。
掴んでいるリリアが。
いや、掴んでいる存在が。
笑った。
風が、鳴り止まない。
ソウマはーー
その手を、離すことができなかった。
10万字突破しました。
〈タイトルについて〉
今回のタイトル「公理の証明」の「公理」とは、
証明なしに「真(正しい)」として認め、他の答えを導き出すための前提となる最も基本的な前提条件
のことです。
引き続きよろしくお願いします。




