第9話:錦江湾の水練
**『薩摩の風と城山』**
**第9話:錦江湾の水練**
弘化三年(一八四六年)——夏。
甲突川の流れを抜けて、錦江湾へ。
雄大な桜島が、青空に大きな煙を噴き上げていた。目の前に広がる海は、川とは比べものにならないほど深く、果てしない。
「よし! 今日は立ち泳ぎと飛び込みじゃ! 薩摩の男たる者、甲冑を着たまま海を渡る覚悟を持て!」
二才の先輩の声が、浜辺に響き渡った。
数えで十六になった俺——周蔵は、この夏から、水練を教える側に回っていた。
かつて文禄・慶長の役で、島津の兵は海を渡って戦った。その血が、この厳しい水練を通じて、稚児たちの体に叩き込まれていく。
「チェストーッ!」
稚児たちが、次々と岩場から海へ飛び込んでいく。
その様子を、浜の隅から、じっと見つめている小さな影があった。
大山岩次郎——五つ。吉之助さぁの従弟にあたる、まだ稚児になる前の幼子だ。今日は、来年の稽古に備えて見学に連れてこられたのだという。
丸い頬をした岩次郎は、目の前の大きな海と、飛び込んでいく兄貴たちの背中を見比べて、さっきから、じりじりと後ずさりしていた。
「岩次郎! おはんも、いずれ飛び込むとぞ。よう見ておけ!」
二才の先輩が、ずかずかと近づいてきた。
その顔と大声に、岩次郎の小さな体が、びくりと跳ねた。
「……こ、こわか……」
「何じゃ、聞こえん! 武士の子が、海を怖がってどげんする!」
先輩が手を振り上げた。
岩次郎は、わっと泣き出した。それでも、逃げようとはしない。小さな拳を握りしめ、ぎゅっと唇を結んで、涙をぽろぽろこぼしながら、その場に踏みとどまっている。
(この子は、逃げん)
そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
「待ってくだされ!」
俺は浜を駆け、先輩と岩次郎の間に割って入った。
「先輩、岩次郎は、まだ稚児にもなっとりもはん。今日は見学でございもす。俺が付き添うて、少しずつ水に慣らしもすで、どうかご勘弁を!」
先輩は、ぎろりと俺を睨んだ。それから、ふんと鼻を鳴らした。
「……周蔵、おはんが責任を持て」
そう吐き捨てて、去っていった。
俺は膝をつき、涙でぐしゃぐしゃの岩次郎と、目の高さを合わせた。
「岩次郎。泣かんでよか」
「な、泣いとらん……!」
「そうか。泣いとらんか」
俺は笑って、右手を差し出した。
「おいも、小さか頃は、川で溺れかけたことがある。怖さなら、よう知っとる。……ほれ、おいの手を握れ」
岩次郎は、俺の手をじっと見つめていた。それから、おずおずと、小さな手を差し出した。
その手は、冷たく、小刻みに震えていた。
「……周蔵兄さぁ。海は、深かな」
「深か。じゃっどん、おいたちは、みんな海の中におる。おいも、吉之助さぁも、正助さぁもじゃ。おはんが沈みそうになったら、必ず助けてやる」
九年前の夏、甲突川の深みから俺を引き上げてくれた、あの大きな手を思い出しながら、俺はそう言った。
そのとき、後ろから、豪快な声が飛んできた。
「ハハハ! 周蔵、うまかこと言うた! じゃっどん、そげな手ぬるか教え方では、日が暮れっど! 岩次郎、おいが担いで、ひと思いに沖へ連れて行ってやろう!」
海から上がってきたのは、西郷吉之助さぁ(二十歳)だった。
右腕の傷痕をかばうように、体の右側を少し引きながら、それでも海の男のように、堂々と歩いてくる。
「待て、吉之助」
その後ろから、大久保正助(十七歳)が、静かに言った。
「怖がっとる者を、いきなり沖へ放り込んでも、泳げるようにはならん。水が怖かうちは、岸から少しずつじゃ。足がつくところから、慣らせばよか」
「慣らしとる間に、日が暮れっど」
「暮れてもよか。無理に沈めて、一生水を嫌いになったらどげんする」
火と氷が、また、ぶつかりかけた。
俺は、岩次郎の手を握ったまま、二人の間に立った。
「……あの」
二人が、同時に俺を見た。
「足がつくところで、俺が手を握って、まず足だけ水に入れさせもす。慣れたら、吉之助さぁが、少しだけ深かところまで連れて行ってくだされ。……それでは、どげんでごわすか」
吉之助さぁと正助は、顔を見合わせた。
「……ふむ」
「おはんの言うことなら、悪うはなかな」
二人が、ほとんど同時に頷いた。
岩次郎を連れて、波打ち際へ進んだ。
足の指先が、ひたりと水に触れる。岩次郎が、ぎゅっと俺の手を握り締めた。
「……つめたか」
「ひんやりして、気持ちよかじゃろう。ほれ、もうちっと」
足首まで。膝まで。腰まで。
一歩ずつ、岩次郎は自分の足で進んでいった。
吉之助さぁが、傍らで見守りながら、大きな手を水に浸した。
「よう、がんばっとる。おいの従弟は、大した男じゃ」
「……おい、泣いとらん」
「ああ、泣いとらん。見事じゃ」
吉之助さぁが、にっと笑った。正助も、少し離れたところで、口元をゆるめている。
小さな手が、俺の手をしっかり握り、ばしゃばしゃと小さな足で、水を蹴った。
一年前まで、ただ兄貴たちの背中を追うだけだった俺が、いつの間にか、年下の手を引く側になっていた。
青空の下、桜島の煙が、悠々と風に流れていく。
この小さな手が、やがて誰よりも大砲に通じた軍人のものになるなど、この日の俺には、思いもよらなかった。
ただ、海に向かって一歩を踏み出した幼子の、冷たく震えるその手を、離してはいけないと思った。
(第10話へ続く)
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