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【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


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第10話:鶴丸城の石垣の下で

『薩摩の風と城山』

第10話:鶴丸城の石垣の下で


弘化三年(一八四六年)——秋。


稽古を終えた夕刻、下加治屋町の二才(にせ)たちは、夕空が茜色に染まる中、鶴丸城(鹿児島城)の周りを連れ立って歩いていた。


数えで十六になった俺——周蔵の目の前には、見上げるほど高く、重々しく積み上げられた城の石垣がそびえていた。


鶴丸城には、天守がない。背後の城山(しろやま)そのものを砦とし、表にはただ堅い石垣と、水をたたえた堀を巡らせている。その質素で頑丈な佇まいは、いかにも薩摩武士の気風だった。


「あまり前に出すぎるなよ。お城の警固の侍に見つかれば、叱られっど」


俺たちの袖を引いたのは、大久保正助(十七歳)だった。


慎重で、耳が早い。この男の注意はいつも的確だ。


「ハハハ! 大丈夫じゃ、正助。中を覗くわけじゃなか、石垣を眺めるだけじゃ!」


豪快に笑うのは、西郷吉之助さぁ(二十歳)だった。


吉之助さぁは、堀の縁に腰を下ろし、石垣の頂をじっと見上げた。大きな瞳に、夕焼けの赤が映っていた。


その背中に、小さな影が二つ、貼りついていた。


「兄さぁ、おいも見たか」


吉之助さぁの袖を引いているのは、数えで四つの弟、西郷信吾(のちの従道)。少しおとなしい子で、いつも兄の後ろに隠れるようにしている。


そのすぐ隣で、堀の端にしゃがみ込み、水面をのぞいているのが、五つの大山岩次郎。来年から稚児(ちご)の仲間入りをする。夏の水練の日以来、すっかり俺になついていた。


「信吾、岩次郎、落ちんごつせえよ」


俺が声をかけると、岩次郎は「落ちもはん!」と、ぷくっと頬を膨らませた。


吉之助さぁは笑いながら、信吾をひょいと抱き上げ、肩に乗せた。


「ほれ、信吾。ここから見たら、石垣のてっぺんまで見えるじゃろう」


「……たかか」


「たかかな。じゃっどん、これも、小さな石の一つ一つが積み上がってできとるんじゃ」


吉之助さぁの言葉に、正助が、足元の石垣を指でなぞった。


「大きな石ばかり積んでも、石垣は崩れる。隙間から、雨が染み込み、石が動くからな。大きな石の間に、小さな石を詰めて、がっちり噛み合わせて、はじめて何百年も立っとる」


「ほう。間に詰める、小さか石か」


「間詰(まづめ)の石じゃ」


吉之助さぁが、ふいに俺を振り返って、にっと笑った。


「そんなら周蔵は、間詰の石じゃな」


「え……おいがですか」


「おいみたいな大石と、正助みたいな角のとがった石が、がたがたぶつかり合わんで済むのは、間におはんがおるからじゃ」


「褒めとるのか、けなしとるのか、分からんな」


正助が、ふっと笑った。


俺は、顔が熱くなるのを感じて、俯いた。


吉之助さぁは、信吾を肩に乗せたまま、石垣の上の空を見つめて、静かに言った。


「周蔵。このお城には、おいたちのお殿様、斉興様がおられる。そして、そのご嫡男が、世子の斉彬様じゃ」


斉彬様。——いまは江戸にいて、めったに薩摩にはおられない、世子のお方。


その斉彬様が、琉球の一件で、近々お国元へお戻りになるらしい。そんな噂が、このところ城下に流れていた。


「斉彬様はな、西洋の学問や、大砲のことに、たいそう詳しかお方じゃそうな。江戸の先輩が、そう言うとった。もしお戻りになるなら、ひと目でも、お姿を拝みたか。いつか……いつか、あのお方のもとで、この薩摩のために、日本のために働けたら、男としてこれ以上の幸せはなか」


その言葉には、ただの若者の夢とは思えない、不思議な重みがあった。


隣に立つ正助も、石垣を見つめたまま、静かに頷いた。


「ああ。じゃっどん、そのためには、剣が強いだけでは足りん。学問を積み、藩の財政や仕組みを知らねばならん。おいは……吉之助が表で人を引っ張るなら、裏でそれを支える男になりたか」


十七にして、己の役目を見定めようとしている正助の言葉に、俺はぞくりと鳥肌が立った。


「……おいは」


気づくと、口が動いていた。


「おいは、お二人の間の、小さか石になりもす。石垣が崩れんごつ」


吉之助さぁと正助が、顔を見合わせ、それから、同時に吹き出した。


「ハハハハ! よう言うた、周蔵!」


「石垣の間詰が、一番大事なんじゃ。ばかにはできんぞ」


吉之助さぁが、肩の信吾を揺らしながら、豪快に笑った。


「兄さぁ、おいも、まづめ、なる」


「ハハハ! 信吾は、おいの肩の上じゃ! 当分、石垣にはならんでよか!」


笑い声が、夕空に響いた。


高くそびえる石垣。深く静かな水堀。


その足元で、貧しくも志を同じくする若者たちが、肩を並べていた。


吉之助さぁの果てしない人徳と情熱。


正助の緻密な知恵と現実感。


その二人を、小さな石のように支える俺。


下加治屋町という小さな郷中で育まれた絆は、この鶴丸城の石垣のように堅く、どんな嵐にも揺るがないものに思えた。


「周蔵兄さぁ! カニがおる!」


岩次郎の甲高い声が、静けさを破った。


堀の端に、小さな手を伸ばしている。


「こら、落ちたら、また泣くど」


「泣かんもん!」


「ハハハ! 岩次郎は泣かんな!」


みんなが、どっと笑った。


「よし、そろそろ帰るど。夜の詮議に遅れたら、先輩方に叱られる」


正助の声で、俺たちは一斉にお城に背を向けて、下加治屋町へ向かって走り出した。


背後に、城山が、夕闇の中に、黒々としたシルエットを浮かび上がらせていく。


——三十年余り後、あの城山が、俺たちの最期の地になることを、このとき誰も知らなかった。


俺たちはただ、未来だけを見つめて、夢中で駆け抜けていた。



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