第11話:幼き弟分・岩次郎
『薩摩の風と城山』
第11話:幼き弟分・岩次郎
弘化四年(一八四七年)——正月。
石垣の下で笑い合った秋が明け、年が改まった。
桜島の山肌が、冷たい北風に洗われて、くっきりと稜線を浮かび上がらせる朝。数えで十七になった俺——周蔵は、集会所へ向かう道を急いでいた。
「周蔵兄さぁ! 待ってくりゃんせ〜!」
後ろから、短い足を懸命に動かして走ってくる小さな影があった。
大山岩次郎、六つ。この正月に稚児になったばかりだ。丸い頬をぷくぷくと揺らし、手には食べかけの芋餅をしっかり握っている。
——待ってくりゃんせ。
かつて俺が、吉之助さぁの背中に向かって叫んだ言葉だった。胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
「こら、岩次郎。集会へ行くのに、食べながら走るな。正助に見つかったら、説教じゃぞ」
足を止めて呆れてみせると、岩次郎は「へへっ」と笑い、口の周りの粉を袖でごしごしと拭った。
「だって、お母さぁの芋餅が、うまかったんじゃもん。周蔵兄さぁも、半分食うか?」
「要らん。ほれ、袴が汚れとる」
俺はかがみ込み、岩次郎の袴の土埃を払ってやった。
甲突川や錦江湾で、吉之助さぁや正助にこうして世話を焼かれていた頃の自分が、ふと頭をよぎる。いつの間にか俺も、弟分の面倒を見る側になっていた。誇らしくもあり、少し面映ゆくもあった。
*
その日の詮議は、日新公いろは歌の最初の一首だった。
「岩次郎、立て。唱えてみよ」
二才の先輩に指され、岩次郎は小さな体で立ち上がった。
「いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行ひに せずばかひなし!」
つかえることなく、腹から声を出した。
「よう覚えた。では、その意味を言うてみよ」
座がしんとなった。六つの稚児に、歌の意味を問うのは酷だ。俺は思わず膝の上で拳を握った。
岩次郎は、小さな眉間にしわを寄せ、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……道を聞いて、唱えるだけなら、誰でもできもす。そいを、やらんなら、聞かんのと同じじゃち、思いもす」
先輩が、目を見張った。
「ほう……」
「肥え太って、動きの遅かおはんが、行ひがどうこうとは、笑わせる」
別の先輩が、茶化すように言った。座に、くすくすと笑いが広がった。
俺は腰を浮かせかけた。だが、岩次郎は泣かなかった。
ぎゅっと口を真一文字に結び、太い両足を畳にどっしりと踏みしめて、その先輩をまっすぐに見据えたのだ。
「おいは、動きは遅かです。じゃっどん、やると言うたことは、やりもす」
静かな、けれど揺るぎない声だった。
先輩は、ばつが悪そうに目をそらした。
(度胸がある……)
俺は感心した。丸い体やのんびりした風貌に惑わされがちだが、この幼子の奥底には、どんな圧迫にも屈しない、頑固なまでの芯が眠っていた。
*
夕刻、稽古を終えた甲突川の堤防。
茜色の夕日を眺めながら、俺と岩次郎は並んで腰を下ろしていた。
「周蔵兄さぁ」
「ん?」
「おいね、体が大きかで、のろまじゃと笑われることがあるとです。じゃっどん……負けとうなか。吉之助さぁや正助さぁ、周蔵兄さぁみたいな、強うて優しか侍に、なりたか」
岩次郎は川面を見つめ、小さな拳を握りしめた。
その素直で熱い言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
「岩次郎。おはんは、のろまなんかじゃなか」
俺は、その丸い肩にぽんと手を置いた。
「吉之助さぁだって、昔は体が大きすぎて、うまく走れんかった。じゃっどん、誰よりも大きか心を持っておられる。おはんのどっしりした体と強か芯は、きっと大きな役に立つ。俺が保証する」
「ほんなこて?」
「ほんなこてじゃ。焦らず、自分の足で進め」
岩次郎は、ぱっと顔を輝かせた。
そのとき、堤の向こうから、聞き慣れた声が近づいてきた。
「おお、周蔵に岩次郎か!」
西郷吉之助さぁ(二十一歳)と、大久保正助(十八歳)だった。
「岩次郎は、立木打ちじゃ!」
吉之助さぁが、いきなり言った。
「ずっしり重か体は、打ち込みに向いとる。毎日、腕が上がらんようになるまで打たせて、肝を据えさせっとよか!」
「待て、吉之助」
正助が、ゆっくりと首を振った。
「先に、読み書きと算盤じゃ。さっき数を数えさせたら、おはんより早かったぞ。この子の頭は、体と同じで、じっくり深う考える頭じゃ。腕力ばかり鍛えて、頭を腐らせてどげんする」
「おいが、頭が悪かと言うか!」
「そげなことは言うとらん」
火と氷が、また、ぶつかりかけた。
俺は、二人の間に割って入った。
「……朝は、吉之助さぁの立木打ちで、体を鍛えもす。夕は、正助さぁの算盤で、頭を鍛えもす。それではどげんでごわすか」
吉之助さぁと正助は、顔を見合わせた。
「ふむ」
「悪うはなかな」
二人が頷くと、俺の隣で、岩次郎がぽんと手を叩いた。
「周蔵兄さぁがおれば、吉之助さぁと正助さぁが喧嘩しても、だいじょうぶじゃな!」
吉之助さぁが、豪快に笑った。
「ハハハ! 岩次郎に見抜かれたわい!」
正助も、口元を少しゆるめた。
「間詰の石は、頼もしか」
俺は、照れ笑いを返した。
——そげんなれば、よかな。
胸の奥で、小さく呟いた。なぜか、ほんの少しだけ、胸がうずいた。
二人が去ったあと、夕風が、堤の草を静かに揺らした。
「岩次郎」
「なあに、周蔵兄さぁ」
「おいが、おはんの後ろにおる。迷うたら、後ろを向け。おいがいつでも、支えてやるからな」
「うん!」
岩次郎が、元気に頷いた。
遠くで、夕餉の支度を告げる煙が、細く立ち上っている。
あの日、小さな手を握って交わした約束を、俺は、この先、何度も思い出すことになる。
守れたのか、守れなかったのか——その答えを知るのは、ずっと先のことだった。
(第12話へ続く)




