第12話:世子・島津斉彬の影
**『薩摩の風と城山』**
**第12話:世子・島津斉彬の影**
弘化四年(一八四七年)——春。
桜島の裾野に新緑が萌え、下加治屋町の町並みを、淡く明るく染める季節だった。
数えで十七になった俺——周蔵の心は、城下を駆け巡るある噂に、大きく揺れていた。
「若殿様——島津斉彬様が、江戸へお戻りになるそうじゃ」
琉球に、英国とフランスの船が相次いで現れた。幕府は、その始末を、薩摩の世子である斉彬様に頼ったのだという。斉彬様は、急ぎ国元へ呼び戻され、しばらく鹿児島に留まっておられた。それが、いま再び、江戸へ発たれるというのだ。
当時の藩主は、斉彬様の父・島津斉興様である。その父と世子の間には、家督をめぐる不穏な空気が漂っていた。藩の舵取りをめぐって二つの考えが水面下で火花を散らしていることは、俺たち下級武士の耳にも入っていた。けれども、下級武士や領民の期待が、斉彬様に集まっていたことは間違いない。
西洋の学問や科学に深く通じ、「英明」とうたわれた世子。
そのお方が、お城を発たれる日——。
*
ある朝。
俺と、吉之助さぁ(二十一歳)、正助(十八歳)の三人は、お城へ続く大手筋の道端にいた。
「来られたぞ……!」
路傍に平伏する武士や町人たちのざわめきとともに、遠くから、重々しい馬の蹄の音が近づいてくる。
俺は息を殺し、額を地面に擦りつけながらも、ほんの少しだけ顔を上げて、視線を送った。
供回りを従え、見事な黒馬に乗って進んでくる、一人の武士の姿があった。
がっしりとした体つきに、端正で気品のある顔立ち。年は三十九。だが、何よりも俺の目を奪ったのは、その眼だった。
どこまでも深く、澄みわたり、この薩摩の先どころか、海の向こうの遥かな国々まで見通しているかのような、威厳と慈愛をたたえた瞳。
島津斉彬様——。
斉彬様は、路傍に平伏する貧しい下級武士や子どもたちにも、温かな眼差しを注ぎながら、ゆっくりと馬を進めていかれた。
お姿が遠ざかり、行列が城下の道の彼方に消えたあとも、俺は地面に手をついたまま、金縛りに遭ったように動けなかった。全身の毛穴が立つような、強烈な衝撃だった。
「……周蔵、立てるか」
正助の声で、我に返った。
隣を見ると、正助も目を見開いて、去りゆく列を見つめていた。
「見たか、周蔵。あのお方が……あのお方こそが、この澱んだ薩摩を、変えられるお方じゃ」
正助の声は、わずかに震えていた。いつも冷静なこの男が、これほど感情を露わにするのを、俺は初めて見た。
そして、ふと吉之助さぁを見上げた俺は、さらに目を見張った。
吉之助さぁは、大きな体を震わせながら、ぽろぽろと、大粒の涙を頬にこぼしていたのだ。
「吉之助さぁ……!?」
「……周蔵」
吉之助さぁは、右腕の傷痕を左手で強く握りしめながら、絞り出すように言った。
「おいの、この命も、この体も……あのお方のために使いたか。あのお方のためなら、おいは、どげな泥をかぶっても、どげな地獄へでも飛び込める」
剣を奪われ、打ちひしがれていた吉之助さぁが、己の人生を懸ける主君に、出会った瞬間だった。
拝謁が叶ったわけではない。遠くからお姿を仰ぎ見ただけだ。それでも、斉彬様の放つ器の大きさと光は、下加治屋町という狭い世界でくすぶっていた二人の魂に、消えることのない火を点けた。
「周蔵、おいたちも、ぐずぐずしてはおれん」
正助が、俺の肩を強く叩いた。
「あのお方がお立ちになるとき、すぐにお役に立てるよう、おいたちは自分を鍛えておかねばならん」
「はいっ……! はい、正助さぁ!」
俺は、胸の奥から湧き上がる熱い想いを抑えきれず、力強く頷いた。
だが、そのとき、胸の隅に、ほんの小さな違和感が灯った。
吉之助さぁは、あのお方に、命を捧げたいと言った。
正助は、あのお方を、薩摩を変える機会だと言った。
同じお方を見つめているのに、二人の見ている場所は、少しだけ違う。
(……気のせいじゃろう)
そう思い込もうとした。けれども、その小さな違和感は、不思議と、その日の夕暮れまで、俺の胸から消えなかった。
遠くそびえる城山の峰に、春の強い風が吹き抜けていく。
あのお方の影を追いかけて、俺たちの運命は、静かに、確かに、加速していくのだった。
(第13話へ続く)
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