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【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


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第13話:甲突川のほとりの誓い

**『薩摩の風と城山』**

**第13話:甲突川のほとりの誓い**


弘化四年(一八四七年)——秋。


幼い頃、素足で駆け回り、泥まみれで鰻を追った甲突川(こうつきがわ)の堤。


夕暮れ、黄金色に染まった川面をすり抜けてくる風は、少しだけ秋の冷たさを含んでいた。


数えで十七になった俺——周蔵は、土手に腰を下ろして、流れる水を見つめていた。


横には、二十一歳の西郷吉之助さぁと、十八歳の大久保正助が並んで座っている。


かつて小さかった俺たちの背中は、いつの間にか、大人と同じ大きさに育っていた。


吉之助さぁの背は一段と重厚さを増し、右腕をかばう仕草も、すっかり自然なものになっていた。正助の鋭い眼差しは、役所勤めの下積みの日々のなかで、より深く、静かな知恵を宿し始めている。


「……周蔵。覚えとるか」


吉之助さぁが、川面から目を離さずに言った。


「ここで、おいにしがみついて、流されかけた日のことを」


「覚えておりもす。あん時は、吉之助さぁに首根っこを掴み上げてもろうて……」


照れくさくて笑うと、正助も薄く口元をゆるめた。


「あの頃は、毎日川で泳いで、妙円寺まで走って、鰻を食うとればよかった。世の中が、下加治屋町と甲突川だけでできとったな」


正助は足元の小石を拾い、川へ、ひょいと投げ入れた。


ぽたん、と小さな波紋が広がり、夕日にきらきらと揺れた。


「じゃっどん、もう、子どもの時代は終わりじゃ」


正助の低い声が、夕風に混じった。


「この春、おいたちは、世子の斉彬様のお姿を、遠くから拝んだ。藩の中には、世子と父君の間の、不穏な空気もある。じゃっどん、いつか必ず、あのお方が立たれる日が来る。そんときに備えて、おいは……この薩摩の仕組みを、根っこから変えたか。どげん泥をかぶっても、どげん理不尽な目に遭うても、冷たかと言われても、藩の舵を確かに取る男になる」


迷いのない声だった。己の頭と意志で、時代の裏側を支えるという覚悟が、静かににじんでいた。


「吉之助さぁは……どげん男に、なりたかとですか」


尋ねると、吉之助さぁは、ゆっくりと天を仰いで、深く息を吐いた。


「おいか。……おいはな、周蔵。人の『痛む心』を、いっち知っとる男になりたか」


「人の……心、でございもすか」


「そうじゃ」


吉之助さぁは、右腕の傷痕を、そっと撫でた。


「刀を奪われた時、おいは、世で一番不運な男じゃと思うた。じゃっどん、身分の低か者や、貧しさに喘ぐ者の暮らしを見とると、おいの傷など、なんほどのこともなかと気づいた。世の中には、理不尽に耐えて、声も上げられず泣いとる者が、ごまんとおる。……おいは、斉彬様のような方のお手足となって、そげな弱か者の声を、掬い上げられる男になりたか」


正助の、冷徹なまでの「仕組みを変える意志」。


吉之助さぁの、どこまでも深い「人を慈しむ情熱」。


二人の言葉を聞きながら、俺は、あの春の日の、小さな違和感を思い出していた。


同じお方を見つめているのに、二人の見る場所は、少しだけ違う。


その違いが、いまは、頼もしさにも、かすかな不安にも見えた。


「周蔵、おはんはどうじゃ」


正助が、俺を振り返った。吉之助さぁも、あの大きな温かい瞳で、俺を見つめてくる。


俺は、膝の上の拳を、ぎゅっと握りしめた。


「おいは……お二人のように、藩を動かすほどの知恵も、人を惹きつける力も、持ち合わせてはおりもはん」


「周蔵……」


「じゃっどん、一つだけ、できることがありもす。お二人の間に、立つことでございもす」


吉之助さぁと正助が、目を見張った。


「吉之助さぁが火で、正助さぁが氷なら、おいは、石垣の間詰(まづめ)になりもす。お二人が、もしぶつかっても、もし離れそうになっても、おいが何度でも、間に入ってつなぎもす。……そいが、おいの『役目』じゃち、思うとります」


腹の底から絞り出した言葉に、一瞬、静けさが降りた。


次の瞬間——


「ハハハハハ! ええぞ、周蔵!」


吉之助さぁが、豪快に笑い、左手で俺の肩を、壊れんばかりに抱きすくめた。


「頼もしかぞ! 間詰の石がおってくれるなら、おいは、どげな敵の前でも、背中を気にせんで戦える!」


正助も、照れくさそうにふっと鼻で笑い、俺の背をぽんと叩いた。


「……おはんがおる限り、おいと吉之助が離れることは、なかじゃろう」


「あるわけがなか!」


吉之助さぁが、きっぱりと言った。


正助は、ほんの一瞬だけ黙った。それから、小さく頷いた。


「……そうじゃな」


その一瞬の間に、俺は、気づかないふりをした。


「よし。甲突川に誓おう。おいたち三人は、どげな時代が来ても、薩摩のために、日本のために、己の命を燃やし尽くすとな」


吉之助さぁが、傷痕の走る右手を、そっと前に差し出した。


正助が、その上に手を重ねた。


俺も、その上に、自分の手を重ねた。あの冬、吉之助さぁの寝床の傍らで重ねた手と、同じ三つの手だった。


「「「応っ!!」」」


夕闇迫る甲突川のほとりに、三人の声が、ひとつに重なった。


川の流れは、休むことなく、海へ注ぎ込んでいく。


これから俺たちを待ち受ける、苛烈で血塗られた歴史の嵐など、まだ何も知らず——俺たちは、固い絆で結ばれた胸を張り、黄金色の堤を歩き出したのだった。


(第14話へ続く)


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