第14話:お由羅騒動の嵐
**『薩摩の風と城山』**
**第14話:お由羅騒動の嵐**
嘉永三年(一八五〇年)——春。
三年前、甲突川のほとりで三人の誓いを交わした日から、薩摩の空気は、少しずつ重く淀んでいた。
世子・斉彬様を次の藩主に、と望む者たちと、斉彬様の弟君・久光様を推す、側室お由羅の方の一派。藩の中の二つの流れは、水面下で、いつ爆ぜてもおかしくない火種を抱えていた。
そして、その春。
斉彬様を推す者たちが、お由羅の方と久光様の一派を討とうと企てている——そんな密謀が発覚したという報せが、城下を駆け巡った。
のちに「お由羅騒動」と呼ばれる、藩を揺るがす大粛清の幕開けだった。
「近藤隆左衛門様、高崎五郎右衛門様が……切腹を命じられたぞ……!」
郷中の仲間が、青ざめた顔で駆け込んできた。続けて、処罰を受けた者が次々と名を連ねていく。切腹、遠島、お役御免。その数は、五十を超えると聞いた。
「赤山様まで……赤山靭負様にも、切腹のお沙汰が下ったそうじゃ……!」
その名を聞いた瞬間、数えで二十になった俺——周蔵は、全身の血が凍るのを感じた。
赤山靭負様。
藩の重職にあり、斉彬様を推す人々の柱でもあった方だ。西郷家とは父の代から縁が深く、吉之助さぁは幼い頃から、そのお方に目をかけられ、学問と武士の心得を学んでいた。吉之助さぁが「先生」と慕う、まさに心の支えのようなお方だった。
その赤山様が、お上の命によって、腹を切らされる。
「そげな……そげな理不尽が、あってたまるかッ!」
俺は誰もいない物置の板壁を、拳で殴りつけた。悔しさと恐怖で、体が震えて止まらなかった。
*
その夜、俺は、人目を忍んで、西郷家へ走った。
吉之助さぁ(二十四歳)は、まだ戻っていなかった。赤山様の最期の夜に、呼ばれていったのだという。
東の空が白む頃になって、ようやく、戸が静かに開いた。
「……周蔵か」
吉之助さぁの顔は、土のように色を失っていた。
その懐には、血に染まった一領の肩衣が、固く抱え込まれていた。
赤山様が、最期の夜に吉之助さぁを呼び、形見として渡されたものだった。
「……正助のところへ行く」
吉之助さぁは、それだけ言って、俺の肩を叩いた。
その背中は、いつもより、ひどく小さく見えた。
*
大久保家の戸を叩くと、中は、灯り一つなく、真っ暗だった。
大久保正助(二十一歳)の父・利世様は、この騒動に連座して、遠く喜界島へ流されることが決まった。正助自身も、お役を解かれ、先の見えない謹慎に入っていた。一家は一夜にして、職と暮らしの糧を失ったのだ。
暗闇の中、正助は、膝を抱えて、じっと座っていた。
「正助……」
吉之助さぁが、静かに声をかけて、隣に腰を下ろした。俺も、その横に膝をついた。
正助は、顔を上げなかった。ただ、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……吉之助。おいの父上は、何も悪かことは、しとらん。ただ、あのお方に、この薩摩を託したかっただけじゃ。なのに……なぜじゃ……なぜ、正しか者が踏みにじられねばならんのじゃ……!」
正助の目から、大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ち、畳に黒いしみを作った。
いつも冷静で、一度も弱音を吐いたことのなかった正助が、声を押し殺して泣いていた。
「正助さぁ……!」
俺は、正助の肩を抱きしめた。かける言葉が見つからず、ただ一緒に、涙を流すことしかできなかった。
吉之助さぁが、懐から血染めの肩衣を取り出し、正助の前にそっと広げた。
「正助。赤山様はな……最期に、おいに、こう言われたんじゃ」
低く、地鳴りのような声だった。
「『泣くな。命は尽きても、志までは殺されん。生き延びて、この薩摩を生まれ変わらせよ』と」
吉之助さぁは、血染めの布を、もう一度、懐に抱え込んだ。そして、大きな左手で、正助の手を、強く握りしめた。
「正助。おいは、このままでは黙っとられん。あのお方の死を、無駄にはせん。おいは——」
「待て、吉之助」
正助が、涙に濡れた顔を上げた。
「待つんじゃ。いま動けば、赤山様の死を無駄にするだけじゃ。おいたちは、まだ何者でもなか。じゃっどん、生き延びれば、必ず機会は来る。……黙っとるんじゃなか。待つんじゃ」
「待っとる間に、また誰かが死んだら、どげんする!」
「じゃっどん、いま飛び出せば、おいたちが死ぬ!」
二人の声が、暗い部屋の中で、ぶつかり合った。
火と氷が、これまでにない激しさで、ぶつかっていた。
俺は、二人の間に、体ごと割り込むようにして、膝を進めた。
「……お二人とも、やめてくだされ」
二人が、はっと俺を見た。
「吉之助さぁの怒りも、正助さぁの辛抱も、どっちも、赤山様のためでございもす。いま、おいたちが一番にせにゃならんのは、生き延びることと、正助さぁのお家を、支えることじゃなかですか」
俺は、震える声で続けた。
「正助さぁが謹慎の間、お母上や妹さんたちの暮らしは、おいと吉之助さぁが、下加治屋町のみんなで、支えもす。おいたちが、飯の種を探し、薪を運びもす。だから……だから、どうか、お二人とも、諦めんでくだされ」
静けさが、部屋に落ちた。
吉之助さぁが、深く息を吐いた。それから、ゆっくりと、頷いた。
「……周蔵の言う通りじゃ。正助、おいは、おはんの家を守る。おはんが謹慎の間、おいが、ずっと傍におる。じゃっどん……いつか必ず、斉彬様をお迎えするんじゃ」
「ああ」
正助も、血染めの布に、そっと手を置いた。
「……ありがとう、吉之助、周蔵。おいは……負けん。絶対に、このままでは終わらん」
暗闇の中で、三人の青年が、肩を寄せ合っていた。
互いの体温と涙を分かち合ったその夜。仲間の命が理不尽に奪われた、この夜の絶望と怒りは、吉之助さぁと正助の絆を、「死を分かち合う同志」へと、鍛え上げていった。
だが、同じ夜に、二人の間に入った俺は、はっきりと知った。
吉之助さぁは「いま動きたい」と言い、正助は「待つ」と言った。この二つの心は、これから先、何度でも、ぶつかるのだ。
そのたびに、俺は、間に立てるだろうか。
嵐は、吹き荒れていた。けれども、俺たち三人の胸の奥の火だけは、どんな風にも、消えることはなかった。
(第15話へ続く)
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