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【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


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第15話:夜明けの報せ

**『薩摩の風と城山』**

**第15話:夜明けの報せ**


嘉永四年(一八五一年)——春。


赤山様の死から、一年が過ぎた。


城下は、冷たい沈黙の中にあった。赤山様をはじめ、斉彬様を慕った者たちが次々と処罰された後遺症は、町のあちこちに残っていた。誰もが口を閉ざし、人目を気にして歩いていた。


大久保家も、その沈黙の中にあった。


数えで二十二になった正助は、お役を解かれたまま、謹慎を続けている。父・利世様は、遠い喜界島にいた。一家の暮らしは、母と妹たち、そして正助の細い肩に、のしかかっていた。


その夕方、俺——周蔵(二十一歳)は、背負った米袋を揺らしながら、大久保家の戸を叩いた。


「周蔵か。いつもすまんな」


出てきたのは、やつれた顔の正助だった。この一年で頬がこけ、目だけが鋭く光るようになっていた。


「なんの。下加治屋町のみんなで、集めたもんじゃ」


俺は、米袋を土間に下ろした。


吉之助さぁ(二十五歳)も、仕事帰りに、野菜の束を提げて、ふらりとやってきた。薪も、味噌も、みんなで少しずつ持ち寄っている。赤山様の夜に交わした約束は、この一年、ずっと守られていた。


「おお、正助。今日は、顔色がよかな」


「毎日同じ顔じゃ」


正助が、ふっと苦笑した。そのとき——


戸が、荒々しく叩かれた。


「周蔵兄さぁ! 吉之助さぁ! 大変じゃ、大変じゃ!」


飛び込んできたのは、十歳の岩次郎だった。顔を真っ赤にして、息も絶え絶えだった。後ろから、九つの信吾が、兄の吉之助さぁの袖を握って、ついてきている。


「どげんした、岩次郎。そげん慌てて」


「お殿様が、替わったど! 斉興様が、ご隠居されて、斉彬様が、お殿様になられたそうじゃ!」


時が、止まった。


「……何と、言うた」


吉之助さぁの声が、かすれた。


「ほんなこて! 江戸から御使者が着いて、お城の前で、みんなが大騒ぎしとる! 斉彬様が、ほんなこて、お殿様に——」


言い終わらぬうちに、吉之助さぁは、岩次郎を抱き上げていた。


「ハ……ハハ、ハハハ! ほんなこてか、岩次郎! ほんなこてか!」


吉之助さぁの大きな目から、涙が、あふれ出した。


信吾が「兄さぁ、泣いとる」と呟き、岩次郎が「吉之助さぁ、痛か、痛か」と笑いながら暴れた。


正助は、戸口に立ったまま、動かなかった。


唇が、わなわなと震えていた。やがて、土間に、がくりと膝をついた。


「……来た。来たか……」


押し殺した声が、喉の奥から漏れた。


「赤山様……父上……来ましたぞ……斉彬様が、お立ちになりましたぞ……」


一年、一滴も涙を見せなかった正助が、土間に額をつけて、声を上げて泣いた。


吉之助さぁが、岩次郎を下ろし、正助の傍らに膝をついた。何も言わず、その背中を、大きな左手で、ゆっくりとさすった。


俺は二人の後ろで、ただ立ち尽くしていた。


あの夜、暗闇の中で肩を寄せ合っていた二人。あれから一年。ようやく、夜明けの光が差し込んだのだ。


*


その夜、城下は、灯りの海になった。


ひそひそ声で歩いていた人々が、提灯を手に、通りへ出てきた。酒を酌み交わし、肩を叩き合い、涙を流し合う者もいた。長く張り詰めていた糸が、一気にほどけたようだった。


大久保家の縁側で、俺たち三人は、並んで夜空を見上げていた。


「老中の阿部様や、福岡の黒田様が、お力をお貸しくださったそうな」


吉之助さぁが、江戸の先輩から聞いた話を、ぽつりぽつりと語った。


「琉球の一件もあって、幕府が、斉彬様のお力を頼りにしとった。斉興様も、とうとうご隠居を、決められたそうじゃ」


「……これで、すべてが変わる」


正助が、ゆっくりと言った。


「仕組みを変える時が、来た。おいの謹慎も、いつかは解ける。そしたら、おいは働く。何でもやる」


「おいもじゃ」


吉之助さぁが、拳を握った。


「弱か者の声を、掬い上げる。斉彬様のもとで、おいは、やるぞ」


二人の声は、弾んでいた。


けれども、その熱の中に、ほんのわずかな違いが混じっていることを、俺は聞き逃さなかった。


一人は「仕組みを変える」と言い、一人は「声を掬い上げる」と言った。


でも、いまは、それでよかった。二人とも、前を向いている。二人とも、同じ空を見上げている。


「周蔵」


吉之助さぁが、ふいに、俺に向き直った。


「おはんが、この一年、おいたちを支えてくれた。おはんがおらんかったら、正助の家は、どげんなっとったか」


「……おいは、何も」


「何も、ではなか」


正助も、まっすぐに、俺を見た。


「間詰の石は、一番目立たんが、一番大事じゃと言うたじゃろう。おはんが、それじゃ」


胸の奥が、じんと熱くなった。


俺は顔を伏せて、小さく笑った。


「……おいも、嬉しかです。やっと、夜が明けたごたる」


縁側から見上げる空に、月が浮かんでいた。


城山の黒い稜線の上で、月は、静かに、白く輝いている。


あの月の下で、俺たちは、また新しい日々を歩き出す。


その先に待つものが、いかなる運命であろうとも——この夜の喜びだけは、決して、消えることはなかった。


(第16話へ続く)


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