第16話:横木の響き〜薬丸自顕流
**『薩摩の風と城山』**
**第16話:横木の響き〜薬丸自顕流〜**
嘉永四年(一八五一年)——秋。
新しいお殿様が国入りされてから、城下の空気は、目に見えて明るくなった。
異国の船が日本の近海をうかがっているという噂は、相変わらず絶えなかった。だが、もう誰も、うつむいて歩いてはいなかった。そのぶん、下加治屋町の若者たちの稽古は、いっそう熱を帯びていた。
「一撃必殺——初太刀を外せば、あとは死あるのみ!」
朝靄の立ち込める城下はずれの稽古場に、二才たちの怒号が響き渡る。
数えで二十一になった俺——周蔵の手には、ずっしりと重い木刀が握られていた。
一般のものより遥かに太く、丸太を削り出したような、荒々しい代物だ。手のひらの皮はとうに破れ、血と汗が混じり合って、柄に染みついている。
薩摩には、お家の流儀として重んじられる示現流のほかに、下級武士の間で盛んな、もう一つの剣がある。薬丸自顕流。
「受け」も「防ぎ」も捨て、初太刀の一撃に、すべてを懸ける剣だ。
「チェストーッ!」
俺は全身の骨がきしむほどの力を込め、目の前に立てた木の幹へ、木刀を叩きつけた。
ガンッ! と耳を裂くような鈍い音が、山あいにこだまし、木屑が飛び散る。衝撃が手首から両肩を抜けて、脳天まで突き上がった。
「止まるな、周蔵! 猿叫を上げろ! 腹の底から、声を絞り出せ!」
稽古は、この「横木打ち」を、毎日、何千回と繰り返すことだ。ただひたすらに打ち、打ち、打ち込む。腕が上がらなくなるまで、己を追い込んでいく。
「エイエイ! チェストーッ!」
隣で、凄まじい気迫を放っていたのは、十歳になった岩次郎だった。
丸々とした体つきは相変わらずだが、その打ち込みの重さは、大人顔負けだった。短い腕で木刀を頭上に大きく振りかぶり、顔を真っ赤にして打ち込んでいる。ついこの間まで、「お水がこわい」と泣いていた幼子の面影は、どこにもない。
「ええ打ち込みじゃ、岩次郎!」
声をかけると、岩次郎は、荒い息を吐きながら、にっと笑った。
「ハァ、ハァ……周蔵兄さぁ、おい……負けもはんど!」
稽古場の隅の大きな石には、吉之助さぁ(二十五歳)が腰を下ろしていた。
右腕を傷めてから七年。もう、以前のように、激しく木刀を振るうことはできない。それでも吉之助さぁは、寂しい顔など微塵も見せず、左手で小さな木刀を構えて、型や足さばきを確かめていた。
そして、俺たちの打ち込みを、あたたかく、かつ鋭い眼光で見守ってくれている。
「周蔵! 岩次郎! 気合はよか、じゃっどん力任せに打つな! 自顕流の真髄は、腕の力ではなか。腰のひねりと、踏み込みの足にあるんじゃ!」
吉之助さぁの声が飛ぶ。
腕を痛めて剣を諦めたからこそ、吉之助さぁの目は、一層冴えていた。身体の使い方の本質を見抜き、的確に、俺たちを導いてくれた。
「はいっ、吉之助さぁ!」
稽古の合間、冷たい山水で汗を流していると、吉之助さぁが、俺の隣に歩み寄ってきた。
吉之助さぁは、桜島の方を見つめながら、静かに言った。
「周蔵。自顕流の一撃はな、ただ人を倒すためのものではなか」
「と、言いますと……」
「覚悟を練るためのものじゃ。己の迷いや、怯えを、あの一撃で叩き割る。そうして、迷わず一歩を踏み出せる体と心を、作るんじゃ」
火のような、吉之助さぁらしい言葉だった。
だが、俺は、ふと思った。
(自顕流には、受けがなか)
打つことしか考えない剣。だが、俺の役目は、二人の間に立ち、ぶつかりかけた力を受け止めることだ。この流儀には、そんなものはない。
俺は、受けのない剣を、何のために振っているのだろう。
「さあ、後半の打ち込みに行くど!」
「チェストーッ!」
夕暮れの稽古場に、再び、無数の打ち込み音と、叫び声が響き渡った。
手は痺れ、肩は砕けるように痛む。だが、仲間とともに泥と汗にまみれ、木刀を振り下ろすこの瞬間こそが、俺たちの誇りだった。
*
その夜。
稽古を終えた俺は、岩次郎の手を引いて、大久保家を訪ねた。
謹慎中の正助(二十二歳)は、家の外へ出ることができない。だから、吉之助さぁが決めてくれた約束どおり、岩次郎は、夕方になると、正助のもとへ算盤を習いに通っていた。
「おお、来たか。今日の稽古は、どうじゃった」
正助が、算盤から顔を上げた。頬はこけたままだが、目の光は、昔と変わらない。
「吉之助さぁが、覚悟を練るのが自顕流じゃと、言うておられもした」
俺が稽古の話をすると、正助は、静かに頷いた。
「吉之助らしいな。おいも、そう思う。じゃっどん……」
正助は、算盤の珠を、ぱちりと一つ弾いた。
「覚悟は、打つ時だけではなか。待つ時にも、いるんじゃ」
「待つ時にも……」
「おいは、この謹慎の間、毎日、じっと座っとる。手も足も出せん。吉之助は、いつか飛び出したくなる日が来るじゃろう。じゃっどん、動かんと決めて動かんのも、また、覚悟じゃ」
正助の声は、静かで、重かった。
俺は、はっとした。
打つ覚悟と、待つ覚悟。吉之助さぁと正助は、同じ「覚悟」を、違う形で持っている。
そして、その二つが、いつかぶつかるのかもしれない。
「周蔵兄さぁ、できた! 九九、全部言える!」
岩次郎が、嬉しそうに声を上げた。
「ほう、全部か。やるのう、岩次郎」
正助が、珍しく、ふっと笑みを浮かべた。
灯りのもと、算盤の珠の音が、ぱち、ぱち、と軽く響いた。
その音を聞きながら、俺は、胸の中で、小さく呟いた。
——受けのない剣の代わりに、おいは、この音を守ろう。
二人が、それぞれの覚悟で、ぶつかる日が来ても。
(第17話へ続く)
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