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【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


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第17話:それぞれの役目

**『薩摩の風と城山』**

**第17話:それぞれの役目**


嘉永六年(一八五三年)——初夏。


磯の浜から、槌音が聞こえ始めて、半年が過ぎた。


新しいお殿様がまず手がけられたのは、異国の大砲に負けぬ鉄の大砲を、自らの手で鋳るための炉——「反射炉」の築造だった。去年の冬に始まった工事は、石と煉瓦が一段ずつ積み上がり、炉の姿が、少しずつ形を現しつつあった。


その初夏、数えで二十三になった俺——周蔵は、藩から、初めて正式な役を与えられた。


「勘定方(かんじょうがた)下役」兼「城下警固」。磯の工事場へ運び込まれる石や煉瓦、炭の数を帳面に記し、夜には現場を見回る役目である。


御小姓与の家に生まれた者が、給金をいただき、藩の仕事に就く。長年の夢だった。


*


「周蔵、めでたかな」


西郷家の縁側で、吉之助さぁ(二十七歳)が、自分のことのように目を細めてくれた。


この一年で、吉之助さぁは、ずいぶん痩せた。去年の夏から冬にかけて、祖父、父、母を相次いで亡くしたのだ。家督を継いで一家の主となり、郡方書役助の薄い禄で、弟や妹たちを養っている。それでも、その顔に卑屈な影は、少しもなかった。


「かたじけのうございもす。じゃっどん、おいの役目など、お二人に比べれば、小さかものでごわす」


「何を言うか、周蔵」


部屋の隅で書き物をしていた正助(二十四歳)が、顔を上げて、ふっと笑った。


「給金をいただいて家を支え、藩の足元を固める仕事ほど、大事なもんはなか。上ばっかり見て足元が緩めば、城はすぐ崩れる」


正助の謹慎は、この春、三年を経て、ようやく解けた。目の奥に暗い影は残っていたが、役所へ戻れることが決まり、頬には、少し血色が戻っていた。


「正助は、これから忙しゅうなるな」


「おいは、筆と帳面と、算盤の男じゃ。吉之助こそ、また意見書を書いとるじゃろう」


吉之助さぁは、照れくさそうに頭を掻いた。


郡方の机で、百姓の暮らしや年貢のゆがみを調べ上げ、吉之助さぁは、何度も意見書を書いていた。下っ端の書き物が取り上げられることなど、普通ならない。


「噂では、お殿様が、目を通されたこともあるそうでごわす」


俺が言うと、吉之助さぁは、手を振った。


「噂じゃ、噂。おいの文章は拙か。ただ、百姓が泥まみれで作った米のおかげで、おいたち武士は食えとる。その当たり前の礼を、書いとるだけじゃ」


吉之助さぁの大きな瞳には、お殿様への揺るぎない忠義と、人への深いまなざしが、静かにたたえられていた。


*


数日後。


磯の工事場に出た俺は、思いがけない人の姿を見つけて、息を呑んだ。


お殿様——斉彬様だった。


お供もわずかに、職人たちの輪の中へ入り、図面を広げて、一人ひとりの言葉に、耳を傾けておられる。


炉の築造は、難しかった。煉瓦は割れ、土台は沈む。うまくいかない日が続き、職人たちの顔には、焦りと疲れが浮かんでいた。


「……ほんなこて、できるんでごわしょうか」


一人の職人が、小さく弱音を吐いた。


斉彬様は、その者を、まっすぐに見て言われた。


「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せず、ますます研究せよ」


穏やかな、けれど芯の通った声だった。


職人たちが、はっと顔を上げた。背筋が伸びていくのが、帳面を抱えた俺の位置からも、はっきり見えた。


お殿様は、泥にまみれ、領民と同じ目線で、未来を作ろうとしておられた。


——あのお方のお側に、吉之助さぁは行くのだろう。


そう思ったとき、不思議と、悔しさはなかった。ただ、胸の奥に、静かな誇らしさだけが残った。


*


その夕、俺は、帳面を抱えて、また西郷家の縁側を訪ねた。


磯で見た斉彬様の話をすると、吉之助さぁは、大きな目に涙をにじませて、何度も頷いた。


「そうか……そうか。お殿様は、そげんお方か」


「煉瓦が、よう割れるそうじゃな」


正助が、ふと帳面を覗き込んだ。


「周蔵、おはんの仕事に、一つ、頼みがある。煉瓦の数と、割れた数を、毎日控えておけ。土の質か、焼き方か……数を見れば、いつか、原因が見えてくる」


「はいっ、正助さぁ」


正助らしい、的確な助言だった。


吉之助さぁは、お殿様の心を、まっすぐ、胸に受け止める。


正助は、お殿様の仕事を、数と仕組みで、支えようとする。


二人とも、前を向いている。二人とも、同じ空を見ている。


けれど、それぞれの道は、少しずつ、離れ始めているようにも見えた。


吉之助さぁは、おそらく、お殿様のお側近くへ。正助は、藩の足元の、ずっと深いところへ。


二人が別々の場所へ進めば進むほど、間に立つ俺の役目は、長く、遠くなるのかもしれない。


(それでも、おいは、石垣の間詰になる)


俺は、帳面を、固く抱きしめた。


縁側の向こうに、城山が、夕闇の中に黒々とそびえている。


下加治屋町という小さな郷中から始まった俺たちの物語は、それぞれが自分の足で立ち、巨大な歴史の舞台へと進み出ようとしていた。


(第18話へ続く)


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