第8話:ミヤコ帰りの先輩
**『薩摩の風と城山』**
**第8話:ミヤコ帰りの先輩**
弘化二年(一八四五年)——秋。
右腕の傷から、一年が過ぎた。
吉之助さぁ(十九歳)は、郡方の役所に書役助として通いながら、暇さえあれば書物を読みふけっていた。刀の代わりに筆を握るようになった手は、以前より静かで、しかし確かな力を宿していた。
大久保正助(十六歳)も、役目に就く日を待ちながら、学問に打ち込んでいる。
数えで十五になった俺——周蔵も、この年から二才の仲間入りをした。年下の稚児の面倒を見る立場になり、世の中の動きにも、少しずつ耳が向くようになっていた。
その夜、下加治屋町の郷中集会所は、いつにない熱気に包まれていた。
江戸での三年のお勤めを終え、無事に鹿児島へ帰ってきた先輩を囲む、宴が開かれていたのだ。
「おい周蔵! 刺身と焼酎を運べ!」
「はいッ!」
車座の中心で、旅の垢を落としたばかりの先輩が、赤い顔で杯を傾けていた。
「よかか、おはんら。江戸というところはな……言葉では言い表せんほど、でかくて、華やかじゃ」
稚児も二才も、身を乗り出した。
誰より目を輝かせていたのは、吉之助さぁと正助だった。
「先輩! 江戸の町のこと、道中で見た京の都のこと、詳しゅう聞かせてくだされ!」
吉之助さぁが身を乗り出すと、その巨躯の迫力に、先輩は苦笑いして杯を置いた。
「吉之助、焦るな。……江戸はな、この鹿児島の城下が何十個も丸ごと入るほどでかい。道は整い、夜になっても行灯の灯で町が明るい。芝居小屋からは太鼓の音が響き、天下の人が行き交っとる」
「ほほう……!」
一同から、感嘆の溜め息が漏れた。
狭い薩摩の城下と甲突川しか知らん俺たちにとって、それは、絵巻物の中のおとぎ話のようだった。
ところが、先輩の顔つきが、ふいに曇った。
「……じゃっどん、華やかなだけではなかぞ。海の向こうから、いま、大変なものが近づいとる」
「大変なもの、でございもすか」
正助が、鋭く問うた。
「異国の船じゃ」
先輩は、声を潜めた。
「去年、琉球の那覇に、フランスの軍艦が来た。通商を求め、宣教師を置かせろと迫ったそうじゃ。他にも、北の海にはロシヤの船、長崎や江戸の沖にはイギリスやアメリカの船が、たびたび姿を見せとる。幕府も、右往左往しとるそうな」
集会所の空気が、一瞬で重く冷え込んだ。
琉球は、薩摩の目と鼻の先だ。
「異国の船が……琉球に……」
俺は、生唾を呑み込んだ。
異国の脅威が、遠い江戸の噂ではなく、薩摩のすぐ足元にまで迫っている。実際に江戸を見てきた者の口から聞くと、それは、鳥肌が立つほどに生々しかった。
そのとき、吉之助さぁが、静かに口を開いた。
「……じゃっどん、こげな世の中で、戦わずに済むとは思えもはん。いざ異国が攻めてくるなら、薩摩の男が、先頭に立って打ち払わんといかんじゃろう」
「待て、吉之助」
正助が、ゆっくりと首を振った。
「打ち払うには、大砲がいる。大砲には金がいる。金を生むには、仕組みを変えねばならん。意気だけでは、異国の黒か船は沈められん」
「仕組みを変える間に、攻められたらどげんする」
「攻められんための仕組みじゃ」
二人の視線が、ほんの少し、食い違った。
俺は、二人の間に座っていた。何も言えず、ただ、空いた杯に酒を注ぎ足した。
吉之助さぁは、すぐにふっと表情をゆるめた。
「……ま、おいは頭が悪かでの。正助の言うことも、もっともじゃ」
「おはんの言う意気がなければ、仕組みも動かん」
正助も、小さく息を吐いた。
二人の間の空気は、すぐに戻った。
だが、先輩の話よりも、その一瞬の食い違いのほうが、なぜか俺の胸に、小さな棘のように残った。
吉之助さぁは、話を戻すように、遠くを見つめて言った。
「……世子の斉彬様は、西洋の学問や大砲に、たいそう詳しかお方じゃと聞く。いつか、そういうお方のもとで、この国の役に立てたらと思う」
「そうじゃな」
正助も、頷いた。
右腕を傷つけられ、剣の道を絶たれた吉之助さぁの目は、その分、「世界」という途方もなく広い場所を見据えるようになっていた。
「周蔵」
正助が、俺の肩を肘で突いた。
「おいたちの相手は、他の郷中の二才や、藩のつまらん身分の差だけではなか。これからは、海の向こうの大きな波と、向き合わねばならんじゃろう」
「はい……正助さぁ」
十五の俺は、強く頷いた。
郷中の仲間と甲突川で泳ぎ、妙円寺まで夜通し歩いた、小さな世界。
その外側には、見たこともない華やかな江戸があり、そして国を脅かす、巨大な異国の影が迫っている。
時代の歯車が、ごとりと音を立てて、大きく動き始めたのを感じた夜だった。
(第9話へ続く)
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