第7話:運命の腕の傷
**『薩摩の風と城山』**
**第7話:運命の腕の傷**
天保十五年(一八四四年)——冬。
下加治屋町を揺るがす恐ろしい報せは、冷たい北風とともに、突然もたらされた。
「吉之助さぁが……吉之助さぁが、斬られたぞっ!」
郷中の仲間が青い顔で駆け込んできたとき、数えで十四になった俺——周蔵は、耳を疑った。
事件は、城下はずれの社で起きた。
郷中の仲間と他町内の若者たちが言い争いになり、刀を抜く大喧嘩に発展した。そこへ居合わせた西郷吉之助(十八歳)が、「待て! 刀を収めよ!」と身を挺して割って入ったのだ。
その瞬間、荒れ狂う相手の刀が、吉之助さぁの右腕を、肘のあたりから深く斬り裂いた。
俺と大久保正助(十五歳)は、弾かれたように西郷家へ走った。
狭い鴨居をくぐると、家じゅうが血の匂いと、重苦しい静けさに包まれていた。
奥の間では、医者が青い顔で手当てを終えたところだった。吉之助さぁは布団に横たわり、右腕には真っ白な晒が巻かれている。血が、じわりと滲んでいた。
「吉之助さぁ……!」
俺は、膝から崩れるように布団の脇へ駆け寄った。
吉之助さぁの顔からは血の気が引き、土色をしていた。人一倍大きかったあの体が、いまは小さく丸まって見えた。
「……正助か。周蔵か……」
かすれた声で呟き、吉之助さぁは薄く目を開けた。
「医者は……何と言うたんじゃ」
正助が、押し殺した声で尋ねた。喉が詰まっているのが分かった。
吉之助さぁは、しばらく天井を見つめていたが、やがて、自嘲するようにぽつりと言った。
「腕の筋が、切れとるそうじゃ。……もう二度と、右腕で、まともに刀は振れん、とな」
「そんな……!」
頭の中が、真っ白になった。
武士にとって、刀を振れなくなることは、死にも等しい宣告だ。誰よりも激しい気合を張り上げ、いつも俺たちの先頭を走っていた吉之助さぁが、剣を奪われたのだ。
「そげな……嘘じゃ! 吉之助さぁの腕が、治らんはずがなか! 俺が……俺が、別の名医を探して参りもす!」
立ち上がろうとした、そのときだった。
「周蔵、よせ」
制したのは、冷静なはずの正助だった。
正助の拳は、破れんばかりに握りしめられ、震えていた。唇を噛み、必死で涙をこらえている。
「吉之助……悔しかな。悔しかな……!」
絞り出すようなその一言で、部屋の空気が、重く沈み込んだ。
しかし——。
「……何を泣いとる、正助」
吉之助さぁの声が、静かに響いた。
ゆっくり体を起こそうとする吉之助さぁを、俺と正助が、慌てて支える。
吉之助さぁは、痛みに顔をゆがめながらも、じっと己の動かない右腕を見つめた。
そして、その大きな瞳に、ふつふつと熱い光を宿らせたのだ。
「天が……おいから、刀を奪うたんじゃ」
「吉之助さぁ……?」
「刀が振れんなら、振れんでよか。武士の役目は、人を斬ることだけではなか」
吉之助さぁは、包帯を巻いた右腕を、左手でぎゅっと抱いた。
「刀が振れんなら、学問をする。書を読み、世の仕組みを知り、筆と知恵で、この薩摩の役に立つ人間になればよか。天が『刀を捨てて、学べ』と、おいに言うとられるんじゃ!」
その言葉に、絶望も悲壮もなかった。
己の不運を丸ごと受け入れ、それを未来への糧に変える、圧倒的に強い魂。
俺は、息を呑んだ。
目の前で傷つき、刀を失った男は、少しも負けていなかった。むしろこの瞬間、「ただの強い者」から「人を率いる者」へ、脱皮しようとしていたのだ。
「……吉之助」
正助が、深く、深く頷いた。
「わかった。おはんが筆と知恵で立つなら、おいもどこまでも共に行く。二人で、この薩摩のために働こう」
「ああ、頼むぞ、正助」
二人が、熱い視線を交わし合う。
その傍らで、涙を拭うことも忘れて立ち尽くしていた俺は、気づくと、二人の手の上に、自分の左手を重ねていた。
「おいも……おいも、おりもす。吉之助さぁと、正助さぁの傍に、ずっと」
吉之助さぁが、にっと笑った。
「ハハ……泣き虫が、一人増えたわい」
「周蔵が泣いとっては、世話なかな」
正助も、涙のたまった目で、小さく笑った。
三つの手が、重なっていた。
下加治屋町の小さな部屋で交わされた、この名もない誓いが、のちに日本という大きな国を揺り動かすことになるとは、そのとき誰も知らなかった。
傷ついた兄貴分の背中は、刀を差していた頃よりも、何倍も大きく、神々しく、俺の目に映っていた。
(第8話へ続く)
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