第6話:座学と「詮議(せんぎ)」
**『薩摩の風と城山』**
**第6話:座学と「詮議」**
妙円寺詣りから、一年が過ぎた。
天保十一年(一八四〇年)の冬。下加治屋町に、冷たい北風が吹き抜ける頃のことである。
郷中の日々は、体を動かす稽古から、頭と心を鍛える「座学」と「詮議」へと、比重を移していた。
日の暮れた夕刻。狭い集会所の畳の上に、子どもから青年までの男たちが、車座になってぎっしりと座っていた。
行灯の小さな灯りが、真剣な顔を一つひとつ、ぼんやりと浮かび上がらせている。
「——よし、これより本日の詮議を始める!」
二才の先輩の一言で、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
薩摩の詮議とは、物事を暗記する勉強ではない。
「もしこういう場面に出くわしたら、武士としてどう振る舞うか」。そんな厳しい問いに、その場で自分の考えを述べ、議論をたたかわせるのだ。答えに詰まったり、卑怯な考えを口にしたりすれば、容赦なく先輩の叱責が飛ぶ。
数えで十になった俺——周蔵も、正座した膝の上に拳を置き、唾を呑み込んで、問いを待っていた。
「第一の問い!」
先輩が、座中を見渡した。
「おはんが一人で道を歩いておる。目の前で、大勢の敵が、一人の弱い者をなぶっておる。おはんの手には、刀が一本。飛び込めば、返り討ちに遭って死ぬ公算が大きか。逃げて助けを呼びに行けば、弱い者は死ぬかもしれん。……おはんなら、どげんする!」
部屋の中に、静けさが落ちた。
稚児の何人かが、息を詰まらせる。正しさを取って死ぬか、現実を取って生き延びるか。
「はい」
真っ先に手を挙げたのは、大久保正助(十一歳)だった。
正助は、行灯の光の中ですっと背筋を伸ばし、よく通る声で言った。
「おいなら、まず大声で『火事じゃ』と叫び、町の者を呼び集めて、敵の動揺を誘いもす。その隙に一人を斬り伏せ、弱い者を背にかばって、狭か路地へ引き込みもす。敵が大勢でも、狭か路地なら、一人ずつしか斬りかかれもはん。無策で命を捨つるは『義』にあらず、『無駄死に』でございもす。知恵を尽くして弱い者を守り、生きて勝つのが、まことの武士道と心得もす」
「む……むう……」
先輩たちが唸った。鮮やかな筋道だった。この男の賢さと冷静さが、遺憾なく出た答えだった。
「なるほど、筋は通っとる。……では吉之助、おはんならどげんする」
指された西郷吉之助(十四歳)が、巨躯をゆっくりと起こした。
吉之助さぁは、しばし目をつぶり、それからカッと見開いた。
「おいなら——考える前に、チェストーッ! と叫んで、敵のど真ん中へ飛び込みもす!」
座中が、「おおっ」とどよめいた。
「吉之助! それでは返り討ちに遭って死ぬぞ!」
先輩が咎めた。
「死んでもよかです!」
吉之助さぁの声には、腹の底から響くような熱があった。
「目の前で弱い者が踏みにじられとるのを見て、頭で損得を数えて足が止まるような心なら、そげな命は、端からなかも同じでございもす! 勝てるか勝てんかではございもはん。『助けたか』という誠の心ひとつで突っ込んでこそ、初めて天が味方し、道が開けるのでございもす!」
理屈を超えた「情」と「気迫」が、部屋を震わせた。
正助の答えが「氷」なら、吉之助さぁの答えは「火」だ。
まったく違う、けれどどちらも真っ直ぐな二つの答えに、十の俺は胸を熱くし、身震いが止まらなかった。
「周蔵!」
突然、先輩の視線が、俺に飛んできた。
「おはんは、正助の理を取るか! 吉之助の情を取るか! 答えよ!」
心臓が、どきんと跳ねた。
部屋じゅうの視線が、俺に集まる。吉之助さぁも、正助も、静かに俺の顔を見つめていた。
(どちらかを選べば、どちらかを裏切るような気がする)
昨年の妙円寺詣りの夜の、あのぴりっとした空気が胸によみがえった。火と氷がぶつかりかけたとき、間に立った俺の、ほんの一言。
俺は息を整え、両手を畳について頭を下げた。
「……選べもはん。吉之助さぁの火のような心で飛び込み、正助さぁの氷のような頭で、狭か路地へ敵を引き込みもす! 二人の心と知恵が揃うて、初めて下加治屋町の武士にございもす!」
一瞬の静けさのあと——
「ハハハハハ! こりゃ、うまかこと言うたもんじゃ!」
吉之助さぁが、大きな手を叩いて、豪快に笑い出した。
正助も、ふっと口元をゆるめた。
「よし! 周蔵、上出来じゃ!」
先輩も破顔し、部屋の緊張が一気にほどけた。
詮議がはねたあと、帰り道の暗がりで、吉之助さぁが、ぽつりと言った。
「周蔵。おはんは、おいと正助の間に立つのが、うまかのう」
「……そうじゃな」
正助も、前を向いたまま応えた。
「おはんがおると、話が丸うなる」
二人の何気ない言葉の重みを知るのは、ずっと先のことだった。
情熱で人を惹きつける吉之助さぁ。
冷静な知恵で、現実を動かす正助。
二人の偉大な兄貴分の間で、議論を重ねながら、俺の考え方もまた、薩摩の太い骨組みとともに、組み上がっていったのである。
(第7話へ続く)
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