↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/20

第6話:座学と「詮議(せんぎ)」

**『薩摩の風と城山』**

**第6話:座学と「詮議(せんぎ)」**


妙円寺詣りから、一年が過ぎた。


天保十一年(一八四〇年)の冬。下加治屋町に、冷たい北風が吹き抜ける頃のことである。


郷中(ごじゅう)の日々は、体を動かす稽古から、頭と心を鍛える「座学」と「詮議(せんぎ)」へと、比重を移していた。


日の暮れた夕刻。狭い集会所の畳の上に、子どもから青年までの男たちが、車座になってぎっしりと座っていた。


行灯(あんどん)の小さな灯りが、真剣な顔を一つひとつ、ぼんやりと浮かび上がらせている。


「——よし、これより本日の詮議を始める!」


二才(にせ)の先輩の一言で、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


薩摩の詮議とは、物事を暗記する勉強ではない。


「もしこういう場面に出くわしたら、武士としてどう振る舞うか」。そんな厳しい問いに、その場で自分の考えを述べ、議論をたたかわせるのだ。答えに詰まったり、卑怯な考えを口にしたりすれば、容赦なく先輩の叱責が飛ぶ。


数えで十になった俺——周蔵も、正座した膝の上に拳を置き、唾を呑み込んで、問いを待っていた。


「第一の問い!」


先輩が、座中を見渡した。


「おはんが一人で道を歩いておる。目の前で、大勢の敵が、一人の弱い者をなぶっておる。おはんの手には、刀が一本。飛び込めば、返り討ちに遭って死ぬ公算が大きか。逃げて助けを呼びに行けば、弱い者は死ぬかもしれん。……おはんなら、どげんする!」


部屋の中に、静けさが落ちた。


稚児(ちご)の何人かが、息を詰まらせる。正しさを取って死ぬか、現実を取って生き延びるか。


「はい」


真っ先に手を挙げたのは、大久保正助(十一歳)だった。


正助は、行灯の光の中ですっと背筋を伸ばし、よく通る声で言った。


「おいなら、まず大声で『火事じゃ』と叫び、町の者を呼び集めて、敵の動揺を誘いもす。その隙に一人を斬り伏せ、弱い者を背にかばって、狭か路地へ引き込みもす。敵が大勢でも、狭か路地なら、一人ずつしか斬りかかれもはん。無策で命を捨つるは『義』にあらず、『無駄死に』でございもす。知恵を尽くして弱い者を守り、生きて勝つのが、まことの武士道と心得もす」


「む……むう……」


先輩たちが唸った。鮮やかな筋道だった。この男の賢さと冷静さが、遺憾なく出た答えだった。


「なるほど、筋は通っとる。……では吉之助、おはんならどげんする」


指された西郷吉之助(十四歳)が、巨躯をゆっくりと起こした。


吉之助さぁは、しばし目をつぶり、それからカッと見開いた。


「おいなら——考える前に、チェストーッ! と叫んで、敵のど真ん中へ飛び込みもす!」


座中が、「おおっ」とどよめいた。


「吉之助! それでは返り討ちに遭って死ぬぞ!」


先輩が咎めた。


「死んでもよかです!」


吉之助さぁの声には、腹の底から響くような熱があった。


「目の前で弱い者が踏みにじられとるのを見て、頭で損得を数えて足が止まるような心なら、そげな命は、端からなかも同じでございもす! 勝てるか勝てんかではございもはん。『助けたか』という誠の心ひとつで突っ込んでこそ、初めて天が味方し、道が開けるのでございもす!」


理屈を超えた「情」と「気迫」が、部屋を震わせた。


正助の答えが「氷」なら、吉之助さぁの答えは「火」だ。


まったく違う、けれどどちらも真っ直ぐな二つの答えに、十の俺は胸を熱くし、身震いが止まらなかった。


「周蔵!」


突然、先輩の視線が、俺に飛んできた。


「おはんは、正助の理を取るか! 吉之助の情を取るか! 答えよ!」


心臓が、どきんと跳ねた。


部屋じゅうの視線が、俺に集まる。吉之助さぁも、正助も、静かに俺の顔を見つめていた。


(どちらかを選べば、どちらかを裏切るような気がする)


昨年の妙円寺詣りの夜の、あのぴりっとした空気が胸によみがえった。火と氷がぶつかりかけたとき、間に立った俺の、ほんの一言。


俺は息を整え、両手を畳について頭を下げた。


「……選べもはん。吉之助さぁの火のような心で飛び込み、正助さぁの氷のような頭で、狭か路地へ敵を引き込みもす! 二人の心と知恵が揃うて、初めて下加治屋町の武士にございもす!」


一瞬の静けさのあと——


「ハハハハハ! こりゃ、うまかこと言うたもんじゃ!」


吉之助さぁが、大きな手を叩いて、豪快に笑い出した。


正助も、ふっと口元をゆるめた。


「よし! 周蔵、上出来じゃ!」


先輩も破顔し、部屋の緊張が一気にほどけた。


詮議がはねたあと、帰り道の暗がりで、吉之助さぁが、ぽつりと言った。


「周蔵。おはんは、おいと正助の間に立つのが、うまかのう」


「……そうじゃな」


正助も、前を向いたまま応えた。


「おはんがおると、話が丸うなる」


二人の何気ない言葉の重みを知るのは、ずっと先のことだった。


情熱で人を惹きつける吉之助さぁ。


冷静な知恵で、現実を動かす正助。


二人の偉大な兄貴分の間で、議論を重ねながら、俺の考え方もまた、薩摩の太い骨組みとともに、組み上がっていったのである。


(第7話へ続く)


---



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。