第5話:妙円寺詣り(後編)〜足の豆といろは歌〜
**『薩摩の風と城山』**
**第5話:妙円寺詣り(後編)〜足の豆といろは歌〜**
丑の刻(午前二時頃)を過ぎたあたりから、記憶が途切れ途切れになった。
夜の冷気が山肌を吹き抜け、汗に濡れた着物が氷のように体を冷やす。
数えで九つの俺——周蔵の足の裏は、草履の中でとうに豆がつぶれ、一歩踏み出すたびに、針で刺されたような痛みが走っていた。
「くっ……う……」
暗い山道。前を行く二才たちの具足が擦れ合う、ガチャガチャという音だけが耳に届く。
視界が揺れ、膝ががくがくと震えた。ついに俺は、街道の端でたたらを踏み、前のめりに倒れ込んだ。
「周蔵!」
駆け寄ってきたのは、大久保正助(十歳)だった。
正助も肩で息をし、顔は汗と泥で汚れていたが、瞳だけは鋭く冴えている。
「見せてみい」
正助は手早く俺の草履を脱がせると、懐から手拭いを取り出した。ためらいもなく引き裂き、血と汁で汚れた俺の足の裏へ、手際よく巻きつけていく。
「痛かか。じゃっどん、ここで座り込めば体が冷えて、動けんようになる」
少し冷たい言い方だった。だが、手拭いを縛る指は、驚くほど優しかった。
「すんもはん、正助さぁ……俺、もう足が……」
涙がこぼれそうになったとき、ドシンと重い足音が近づいてきた。
「周蔵! 泣くな!」
雷のような声とともに、西郷吉之助(十三歳)が屈み込んできた。太い腕で俺の背を抱え上げ、強引に立たせる。
「止まるな! 止まれば闇に飲まれっど!」
「吉之助、待て」
正助が、静かに口を挟んだ。
「無理に歩かせれば、足が潰れる。少し休ませて、息を整えさせてからでも遅うはなか」
「休んどる間に、体は冷えるじゃろうが」
「冷えるからこそ、巻いた手拭いが乾くまで——」
二人の間に、ぴりっとした空気が走った。火と氷が、ぶつかりかけている。
俺は、慌てて声を上げた。
「あ、歩けもす! ゆっくりなら、歩けもす! 歩きながら、息を整えもす!」
吉之助さぁと正助は、顔を見合わせた。それから、吉之助さぁがにやりと笑い、正助が小さく息を吐いた。
「……ほう。それなら、文句はなか」
「ゆっくりなら、よか」
二人が俺を挟むように並び、肩を貸してくれた。三人の歩みが、ようやく揃った。
吉之助さぁは前を見据えたまま、低い声で語りかけてきた。
「周蔵。関ヶ原の退き口を思い出せ。義弘公を逃がすため、『捨て奸』の兵たちは、自ら死地に残ったんじゃ。おはんの足の痛みなど、あの方々の苦難に比べれば、何ほどのことがあろうか」
そう言うと、吉之助さぁは大きな胸を張り、朗々とした声で唱え始めた。
「いにしへの 道を聞きても 唱へても——」
日新公いろは歌の、最初の一首だった。
腹の底から響く重い声が、暗い山道にこだまする。
すると、周りを歩いていた下加治屋町の仲間たちが、一人、また一人と、声を合わせ始めた。
「わが行ひに せずばかひなし」
正助も唱和した。俺も、かすれた声で続けた。
唱えながら歩くと、不思議と足が前へ出る。三つの声が重なり、仲間の声が重なり、闇の中を、いろは歌の調べが渡っていった。
「チェストーッ!」
最後に誰かが叫び、笑い声が起きた。
あんなに重かった足が、痺れていた体が、内側から熱を帯びてくるのを感じた。
「歩けます……俺、歩けます! 吉之助さぁ!」
「ハハハ! そうでなくっちゃな! 行くぞ、周蔵!」
吉之助さぁに背を押され、正助と肩を並べ、俺たちは闇の中を進み続けた。
*
東の空が白み始め、深い藍色が、茜色へと変わっていく頃——。
「見えたぞ! 妙円寺じゃ!」
誰かの叫びとともに、視界が開けた。
伊集院の妙円寺の境内に、朝日が差し込んでいる。
境内にたどり着いた瞬間、俺はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
足は感覚がなくなるほどぼろぼろだったが、胸の中は、澄み切った達成感で満たされていた。
見回せば、無事にたどり着いた下加治屋町の仲間たちが、互いの健闘をたたえ合い、笑い合っている。
吉之助さぁが、境内の井戸から汲んだ冷たい水を、柄杓で差し出してくれた。
「よう頑張ったな、周蔵。おはんは、立派な薩摩の侍じゃ」
朝日に照らされた笑顔は、神様のように眩しかった。
水を飲み干した俺の手を、正助が、黙ってぽんと叩いた。
火のような吉之助さぁと、氷のような正助。
その二人の間に挟まれて歩き通した夜が、俺の骨の髄にまで、薩摩の男の心を刻み込んでくれた。
(第6話へ続く)
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