第4話:妙円寺詣り(前編)〜漆黒の街道〜
**『薩摩の風と城山』**
**第4話:妙円寺詣り(前編)〜漆黒の街道〜**
秋の夜風が、冷たく頬を撫でていく。
旧暦九月十四日の夜。鹿児島の城下は、いつもと違う殺気と熱気に包まれていた。
「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」の夜が、やってきたのだ。
慶長五年(一六〇〇年)、関ヶ原。
天下分け目の大戦で、島津義弘公は、敵の大軍のただ中へ正面から突っ込み、敵陣を突き破って薩摩へ帰り着いた。世にいう「島津の退き口」である。
その武勇をしのび、関ヶ原の戦いの日(旧暦九月十五日)の前夜、伊集院の妙円寺(のちの徳重神社)まで、往復およそ四十キロの道のりを甲冑姿で夜通し歩く。それが、薩摩武士の度胸と心を鍛える、伝統の行事だった。
「周蔵、緒は緩んどらんか」
数えで九つになった俺——周蔵の背に回り、声をかけてくれたのは、大久保正助(十歳)だった。
去年も歩いた正助は、慣れた手つきで、俺の肩に掛けた小さな胴の紐を締め直してくれる。
「かたじけなか、正助さぁ。……すこし、足が震えておりもす」
正直に白状すると、正助は薄く笑った。
「当たり前じゃ。大人でも音を上げる道のりぞ。……じゃっどん、下加治屋町の稚児が途中で引き返したとあっては、他の郷中の連中に一生笑われっど」
正助の言葉には、少し毒がある。だが不思議と、腹が据わった。
見渡せば、街道には城下じゅうの郷中から集まった男たちが、ひしめいていた。皆、兜を戴き、具足をまとい、太刀を差している。松明の炎が夜闇を赤く染め、男たちのぎらぎらした眼光を浮かび上がらせていた。
他の郷中の二才たちが、下加治屋町の連中を「あげな貧しか町に、何ができるか」と言わんばかりに睨みつけてくる。
「ハハハ! 賑やかでよか! これぞ薩摩の男の祭りじゃ!」
その視線を吹き飛ばしたのは、西郷吉之助(十三歳)の大きな笑い声だった。
吉之助さぁは、体がすでに大人並みにでかい。二才から借りた大人用の具足も窮屈そうには見えず、まるで岩山が歩いているような凄みがあった。
「周蔵! 正助! よそに遅れをとってはならんぞ! 妙円寺まで、一気に駆け抜けるど!」
「チェストーッ!」
真夜中、太鼓の音とともに、隊列が一斉に動き出した。
街道は舗装などされていない、泥道と山道だ。月明かりと松明だけを頼りに、数百人の男たちが、重い具足を鳴らして進んでいく。
最初は勢いよく走っていた俺たち稚児も、一里、二里と進むうちに、呼吸が荒くなり、足が鉛のように重くなっていった。
夜の冷気が、汗に濡れた肌を冷やす。足の裏に、じりじりと嫌な痛みが走り始めた。草履の中で、豆がつぶれたのだ。
「ぐっ……」
俺は足をもつれさせ、暗い街道で膝をつきかけた。
「周蔵!」
差し伸べられたのは、吉之助さぁの太く温かい手だった。
ぐいと腕を引き上げられ、倒れ込むのを踏みとどまる。あの夏、甲突川の深みから俺を引き上げてくれた手と、同じだった。
「足を止むな、周蔵! 闇に飲まれっど! 関ヶ原の退き口を思い出せ! 義弘公は、敵のど真ん中を突き破られたんじゃ! この程度の道で、音を上げてどげんすっか!」
吉之助さぁの励ましが、夜の山道に響き渡る。
振り返れば、暗闇の中に果てしなく続く松明の列。必死で食らいついてくる仲間たちの息遣い。
「はい……! はい、吉之助さぁ!」
俺は歯を食いしばり、潰れた足の痛みを噛み殺して、再び一歩を踏み出した。
夜明けは、まだ遥か遠かった——。
(第5話へ続く)
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