第19話:吉之助の江戸参勤
**『薩摩の風と城山』**
**第19話:吉之助の江戸参勤**
嘉永七年(一八五四年)——正月。
桜島の上に広がる冬の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。
だが、下加治屋町の空気は、寂しさと誇らしさが入り混じった、不思議な熱を帯びていた。
西郷吉之助さぁ(二十八歳)が、藩主・島津斉彬様のお供として、江戸への参勤に加わることが、正式に決まったのだ。
出発の前夜。
狭い西郷家の座敷に、下加治屋町の郷中の仲間が、すし詰めになって集まっていた。
車座の中央には、大皿に盛られたつけ揚げと、香ばしい芋焼酎の徳利が並んでいる。
「吉之助さぁ! 天下の江戸で、薩摩の男の気風を見せてきてくだされ!」
「江戸の女に惚れられても、帰ってきてくだされよ!」
酒が入った二才たちが、次々と杯を掲げる。笑いながらも、誰もが、目頭を赤くしていた。
下加治屋町の兄貴分であり、いつも太陽のように、みんなの真ん中にいた吉之助さぁが、遠く離れた江戸へ行ってしまうのだ。
「ハハハ! 滅多なことを言うな! おいは、お殿様のお供で行くんじゃ。遊ぶ暇などあるか!」
吉之助さぁは豪快に笑いながらも、集まった一人ひとりの顔を、愛おしそうに見つめていた。
宴もたけなわの頃、正助(二十五歳)が、静かに吉之助さぁの隣へ歩み寄った。
正助は、懐から、手垢のついた一冊の手控え帳を取り出し、吉之助さぁの手に握らせた。
「吉之助。江戸には、おいたちの知らん人も、知らん決まりも、山ほどある。江戸帰りの先輩たちから聞き集めた、江戸の屋敷の配置や、人の名や、気をつけることを、書き留めた。困ったときは、開け」
吉之助さぁは、手控え帳の端に、墨のかすれた跡があるのを見た。夜遅くまで、灯りの下で、書き継いだ跡だった。
「正助……かたじけなか」
吉之助さぁは、手控え帳を、ぎゅっと握りしめて、深く頭を下げた。
そして、吉之助さぁの視線が、俺——周蔵(二十四歳)へ向けられた。
「周蔵」
「はい、吉之助さぁ」
俺は膝を進め、吉之助さぁの前に正座した。
幼い頃、甲突川の深みから、俺を引き上げてくれた大きな手。刀を失っても、絶望を吹き飛ばして、俺たちを引っ張ってくれた広い背中。
涙が、喉の奥につかえて、声が出そうになかった。
「周蔵。おはんに、頼みがある」
吉之助さぁは、声を落とした。
「正助を、頼む。あいつは、何でも一人で背負い込む。折れそうなとき、おいの代わりに、傍におってやってくれ。それから——おいが江戸から書いた文は、まず、おはんに送る。おはんから、正助に、読んで聞かせてほしか」
「……おいが、でごわすか」
「おはんにしか、頼めん」
吉之助さぁの大きな瞳が、まっすぐに、俺を見ていた。
そのとき、後ろから、静かな声が重なった。
「周蔵、おいからも、頼む」
正助だった。
「吉之助は、情にあつい。じゃっどん、情に流されることもある。おいが傍におらん場所で、あいつが突っ走りそうになったら、誰かが、止めてやらんといかん。……おいが書く文も、おはんに預ける。吉之助に、渡してくれ」
二人の顔を、交互に見た。
吉之助さぁは、正助を頼む、と言った。正助は、吉之助さぁを頼む、と言った。
二人が、互いを心から案じていた。そして、その二人の思いを、どちらも、俺に預けたのだ。
胸の奥が、熱く、そして重く、締めつけられた。
俺は、畳に額をすりつけた。
「……お任せくだされ。吉之助さぁの文も、正助さぁの文も、おいが、命に代えても、お届けいたしもす。お二人が、どこにおられても、おいが、つないでおりもす。だから……だから、吉之助さぁは、日本のために、お殿様のために、思い切って行ってきやんせ!」
腹の底から絞り出した叫びに、座敷が、一瞬で静まり返り、やがて「そうじゃ! 行ってきやんせ!」と、大きな歓声が起こった。
正助も、目を潤ませながら、静かに頷いていた。
十三になった岩次郎が、鼻をすすりながら「吉之助さぁ、おいも、いつか、江戸へ追いかけもす!」と叫び、吉之助さぁが、その頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
その隣では、十二になった信吾が、唇を噛みしめて、兄の背中を見つめていた。
*
翌朝。
城下の外れ、甲突川のほとりには、吉之助さぁの門出を見送る人々が、ずらりと並んでいた。
旅装束の吉之助さぁは、一歩一歩、噛みしめるように、薩摩の土を踏んで歩いてきた。
橋のたもとで足を止めると、吉之助さぁは振り返り、深々と頭を下げた。
「行って参る!」
「「「チェストーッ!!」」」
下加治屋町の男たちの、地鳴りのような叫び声が、冬の朝の甲突川に響き渡った。
吉之助さぁは、一度も振り返らず、大きく手を振りながら、街道を歩み去っていった。
その背中は、朝日に照らされて、どこまでも、どこまでも、大きくなって、やがて見えなくなった。
川の水は、澄んだ音を立てて、流れ続けている。
幼い頃、素足で駆け回り、鰻を追い、妙円寺まで夜通し歩いた、あの輝かしい子ども時代は、いま、完全に終わりを告げたのだ。
俺たちは、もう「ただの薩摩のガキんちょ」ではない。
懐には、二人から預かった、見えない文が一通ずつ、すでに重く、収まっていた。
遥かな江戸と、この薩摩とをつなぐ、細い細い糸。その糸が切れないように、俺は、これから、走り続けるのだ。
(第20話へ続く)
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