↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/20

第19話:吉之助の江戸参勤

**『薩摩の風と城山』**

**第19話:吉之助の江戸参勤**


嘉永七年(一八五四年)——正月。


桜島の上に広がる冬の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。


だが、下加治屋町の空気は、寂しさと誇らしさが入り混じった、不思議な熱を帯びていた。


西郷吉之助さぁ(二十八歳)が、藩主・島津斉彬様のお供として、江戸への参勤に加わることが、正式に決まったのだ。


出発の前夜。


狭い西郷家の座敷に、下加治屋町の郷中(ごじゅう)の仲間が、すし詰めになって集まっていた。


車座の中央には、大皿に盛られたつけ揚げと、香ばしい芋焼酎の徳利(とっくり)が並んでいる。


「吉之助さぁ! 天下の江戸で、薩摩の男の気風を見せてきてくだされ!」


「江戸の女に惚れられても、帰ってきてくだされよ!」


酒が入った二才(にせ)たちが、次々と杯を掲げる。笑いながらも、誰もが、目頭を赤くしていた。


下加治屋町の兄貴分であり、いつも太陽のように、みんなの真ん中にいた吉之助さぁが、遠く離れた江戸へ行ってしまうのだ。


「ハハハ! 滅多なことを言うな! おいは、お殿様のお供で行くんじゃ。遊ぶ暇などあるか!」


吉之助さぁは豪快に笑いながらも、集まった一人ひとりの顔を、愛おしそうに見つめていた。


宴もたけなわの頃、正助(二十五歳)が、静かに吉之助さぁの隣へ歩み寄った。


正助は、懐から、手垢のついた一冊の手控え帳を取り出し、吉之助さぁの手に握らせた。


「吉之助。江戸には、おいたちの知らん人も、知らん決まりも、山ほどある。江戸帰りの先輩たちから聞き集めた、江戸の屋敷の配置や、人の名や、気をつけることを、書き留めた。困ったときは、開け」


吉之助さぁは、手控え帳の端に、墨のかすれた跡があるのを見た。夜遅くまで、灯りの下で、書き継いだ跡だった。


「正助……かたじけなか」


吉之助さぁは、手控え帳を、ぎゅっと握りしめて、深く頭を下げた。


そして、吉之助さぁの視線が、俺——周蔵(二十四歳)へ向けられた。


「周蔵」


「はい、吉之助さぁ」


俺は膝を進め、吉之助さぁの前に正座した。


幼い頃、甲突川の深みから、俺を引き上げてくれた大きな手。刀を失っても、絶望を吹き飛ばして、俺たちを引っ張ってくれた広い背中。


涙が、喉の奥につかえて、声が出そうになかった。


「周蔵。おはんに、頼みがある」


吉之助さぁは、声を落とした。


「正助を、頼む。あいつは、何でも一人で背負い込む。折れそうなとき、おいの代わりに、傍におってやってくれ。それから——おいが江戸から書いた文は、まず、おはんに送る。おはんから、正助に、読んで聞かせてほしか」


「……おいが、でごわすか」


「おはんにしか、頼めん」


吉之助さぁの大きな瞳が、まっすぐに、俺を見ていた。


そのとき、後ろから、静かな声が重なった。


「周蔵、おいからも、頼む」


正助だった。


「吉之助は、情にあつい。じゃっどん、情に流されることもある。おいが傍におらん場所で、あいつが突っ走りそうになったら、誰かが、止めてやらんといかん。……おいが書く文も、おはんに預ける。吉之助に、渡してくれ」


二人の顔を、交互に見た。


吉之助さぁは、正助を頼む、と言った。正助は、吉之助さぁを頼む、と言った。


二人が、互いを心から案じていた。そして、その二人の思いを、どちらも、俺に預けたのだ。


胸の奥が、熱く、そして重く、締めつけられた。


俺は、畳に額をすりつけた。


「……お任せくだされ。吉之助さぁの文も、正助さぁの文も、おいが、命に代えても、お届けいたしもす。お二人が、どこにおられても、おいが、つないでおりもす。だから……だから、吉之助さぁは、日本のために、お殿様のために、思い切って行ってきやんせ!」


腹の底から絞り出した叫びに、座敷が、一瞬で静まり返り、やがて「そうじゃ! 行ってきやんせ!」と、大きな歓声が起こった。


正助も、目を潤ませながら、静かに頷いていた。


十三になった岩次郎が、鼻をすすりながら「吉之助さぁ、おいも、いつか、江戸へ追いかけもす!」と叫び、吉之助さぁが、その頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。


その隣では、十二になった信吾が、唇を噛みしめて、兄の背中を見つめていた。


*


翌朝。


城下の外れ、甲突川のほとりには、吉之助さぁの門出を見送る人々が、ずらりと並んでいた。


旅装束の吉之助さぁは、一歩一歩、噛みしめるように、薩摩の土を踏んで歩いてきた。


橋のたもとで足を止めると、吉之助さぁは振り返り、深々と頭を下げた。


「行って参る!」


「「「チェストーッ!!」」」


下加治屋町の男たちの、地鳴りのような叫び声が、冬の朝の甲突川に響き渡った。


吉之助さぁは、一度も振り返らず、大きく手を振りながら、街道を歩み去っていった。


その背中は、朝日に照らされて、どこまでも、どこまでも、大きくなって、やがて見えなくなった。


川の水は、澄んだ音を立てて、流れ続けている。


幼い頃、素足で駆け回り、鰻を追い、妙円寺まで夜通し歩いた、あの輝かしい子ども時代は、いま、完全に終わりを告げたのだ。


俺たちは、もう「ただの薩摩のガキんちょ」ではない。


懐には、二人から預かった、見えない文が一通ずつ、すでに重く、収まっていた。


遥かな江戸と、この薩摩とをつなぐ、細い細い糸。その糸が切れないように、俺は、これから、走り続けるのだ。


(第20話へ続く)


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。