ep.6 二度目の眠りはお断りします
「もう一度、眠っていただきます」
その言葉が、謁見の間の高い天井に吸い込まれていった。
誰も、身じろぎひとつしない。
リディエルは、自分の手を見下ろした。
震えていた。さっき廊下で止まらなかったのと、同じ震え方だった。
「あなたの眠りが支えていた錨が外れ、ヴリューナスの気配が北で強まっています。このままでは、百年前の災いの再来です」
バルドーの声は静かだった。
責めるでも脅すでもなく、ただ避けられない結論を読み上げるように。
「責めているのではありません。事実を申し上げているのです。方法はひとつ。定められた手順に従い、氷姫様に、再びお眠りいただく」
謁見の間の隅で、小さな子供を抱いた母親が、不安そうにこちらを見ていた。
北から逃げてきた家族だと、誰かが小声で囁くのが聞こえた。
その視線の重さを、リディエルは知っていた。
それは百年前とまったく同じ重さだった。
国のために、民のために。気高く、清らかに。
頭の中で、子供たちの読み上げる声が響く。
唇が、勝手に動きかける。
承知しました、と。
わたくしが参ります、と。
百年前のあの日も、こうやって言ったのだ。
震える膝を隠して、背筋だけはまっすぐに伸ばして。
誰もがほっとした顔をした。お父様も、大臣たちも。
そしてわたくしは、一人で氷の中に入った。
また、同じことを言うの?
焼き菓子の甘酸っぱさが、ふっと舌の上によみがえる。
硝子の天井に浮かんだ月。如雨露に添えられた硬い手。好きなものを探そうと交わした約束。
まだ、何もできていない。
まだ、何ひとつ。
「……お断りします」
その声で、謁見の間がしんと凍りついた。
「……今、何と?」
ヴェッセルの声が、初めて揺れた。
リディエルは顔を上げた。
膝はまだ笑っている。指先も震えている。
でも、もう下は向かなかった。
「お断りします、と言ったのよ。わたくしは、もう眠りません」
ざわめきが、さざ波みたいに広がった。
玉座の少年が、目をまんまるにしてリディエルを見ている。
「理由を、伺ってもよろしいか」
バルドーが、ゆっくりと尋ねた。
「わたくしだって……生きたいからよ!」
叫んでいた。もう止まらなかった。
「百年眠ったのよ!? 百年経って、ようやく目覚めたの。まだ焼き菓子だって一つしか食べてないし、好きなものを探す約束だってしたわ! この世界のこと、まだ何も知らないのに……どうしてまた、あの冷たくて暗いところに戻らなきゃいけないの?」
ぼろぼろと涙がこぼれた。
拭う余裕なんてなかった。
「あの中が、どれだけ冷たいか知ってる?どれだけ暗くて、静かか。知らないでしょう!知らないから、眠るのは自分じゃないから…そんな簡単に、もう一度なんて言えるのよ!」
「では……ご自分の欲望のためだけに、十万の民を賭けると?」
ヴェッセルが、低く言った。
その一言は、胸の真ん中に突き刺さった。
「……分かってるわ。わたくしが眠れば、北の人たちは助かるんでしょう。あの子だって」
隅の母子に目をやる。
母親が、びくりと子供を抱き寄せた。
「でも、本当にそれしかないの?わたくしが眠る以外の方法を、この百年間、氷結院の誰か一人でも、本気で探したの?」
「院長」
カインが、一歩前に出た。
「我が家の術式があります。結晶を育て、氷姫様の眠りに代わる錨とする方法です。まだ、試したことはありませんが…」
「存じておる。氷結院に何度その話を持ち込まれたことか。しかし、五代もかけて一度も試されなかった術式だぞ」
バルドーは、静かに首を振った。
「失敗すれば、北の十万が消える。実証のない術に、それは賭けられん。紋章のもとでは、氷姫様のお力を使う術は、院長の許しなく試すことも許されておらんのだ」
「その結晶の術が駄目でも、です」
リディエルは言った。
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「今ここで、はいと頷くことだけは、しません。ほかの道は、わたくしが探します。見つからなかったら……そのときは、そのときに考えるわ!」
むちゃくちゃだ。自分でも分かっている。
代わりの方法なんて、まだどこにもない。手の中には、何もない。
それでも、ここで頷いたら、わたくしはきっと一生後悔する。
たとえその一生が、氷の中だとしても。
隣で、低い声がした。
「護衛隊は、氷姫様のご意思に従います」
カインだった。
いつもと同じ、感情の読めない顔。
でも、その声はまっすぐに、玉座の前まで届いていた。
バルドーの目が、すっと細くなる。
「アルヴァレス卿。それは、紋章への反逆と捉えるぞ」
「承知しています」
一瞬の、迷いもなかった。
リディエルは、息を止めて彼の横顔を見上げた。
百年前。
あの人は、何も言わなかった。
止める言葉も、行くなという言葉も、ひとつも。
でもこの人は、言ってくれた。
みんなの前で。反逆になると分かっていて。
『あなたが眠るところを、黙って見ているだけの人間にはなりたくない』
手記の並ぶ机の前で、そう言っていた声が、耳の奥によみがえった。
「……院長」
ヴェッセルが、苛立ちを押し殺した声で言った。
「紋章のもとでは、眠りの儀は、ご本人の同意がなくとも執り行えるはずです」
ぞくり、と背筋が冷えた。
同意がなくても。
つまり、わたくしがどれだけ嫌だと言っても、無理やり氷の中に戻せるということ。
「儀の支度なら、二日で整います。すぐにでも」
バルドーは、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
皺だらけの指が、杖の頭を何度も握り直して考えている。
「……五日だ」
「院長?」
「儀の支度には、五日かかるでしょう。氷姫様。それまでに、お考えを変えていただきたい」
「五日など! 支度は二日で——」
「儂の判断だ。異論は挟ません」
ぴしゃりと言い切られて、ヴェッセルは口をつぐんだ。
けれどその目は、射殺すような光を帯びて、バルドーの背中を睨んでいた。
玉座の上で、エリアス王が何か言いたそうに唇を動かしているのが見えた。
けれど、結局その口から言葉が出ることはなかった。
謁見の間の扉が閉まった瞬間、リディエルの膝から、かくんと力が抜けた。
「おっと」
床に崩れ落ちる前に、カインの腕が支えてくれた。
「……言っちゃった」
「はい」
「言っちゃったわ、お断りしますって……!あんな大勢の前で……!」
笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からなかった。
心臓がばくばくして、手のひらは汗でびっしょりで、足には力がまるで入らない。
「怖かった……すっごく、怖かったのよ……!」
「はい。見ていました」
「なによ、それ。もう少し、気の利いたこと言えないの?」
「ええ……見事でした」
「……っ」
その一言で、また涙があふれた。
リディエルは彼の腕にしがみついたまま、子供みたいにしゃくり上げた。
「さっきの、反逆になるって……あなた、大丈夫なの?」
「大丈夫ではないかもしれません」
「ちょっと!」
「ですが、後悔はしていませんよ」
カインは、それだけ言った。
廊下の先に、人だかりができていた。
謁見の間から漏れ聞こえたのだろう。
侍従たちが、女官たちが、顔を寄せ合って囁き合っている。
その声が、リディエルの耳にも届いた。
「……氷姫が、眠りを拒んだって」
「まさか。あの気高い氷姫様が?」
「北の民を見捨てるおつもりなのか」
ひそひそ声は、ひとつの口から次の口へ、波紋のように広がっていく。
きっと夕方には、城じゅうに。明日には、街じゅうに。
影が第二監視塔に届くまで、あと七日。
眠りの儀まで、あと五日。
リディエルは、カインの腕を借りて立ち上がった。
足はまだ震えていた。
それでも、わたくしは自分の口で何度でも言える。
「……お断りよ。絶対に」
【続く】




