↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/10

ep.7 わがまま姫

「わがまま姫」


翌朝、城の回廊ですれ違った侍女たちの口から、その言葉ははっきり聞こえた。

聞こえるように言ったのだ。

リディエルが振り向くと、二人は慌てて頭を下げ、足早に去っていった。


「……ずいぶん、広まるのが早いのね」


「早すぎます」


隣を歩くカインが、苦い顔をした。


「謁見の間にいたのは、ほとんどが氷結院の者と大臣たちです。きっと誰かが、わざと広めているのでしょう」


「わざと?」


「あなたが自分から眠ると言い出すように。周りから、追い詰めるつもりなのです」


リディエルは、ぎゅっと唇を噛んだ。

誰の仕業か、言われなくても分かる気がした。冷たい目と、擦り切れた封筒。


「……いいわ。だったら、隠れてなんかやらない」


「氷姫様?」


「市場へ行くわ。この目で確かめる。わたくしが何を言われているのか、ちゃんと聞いておきたいの」


カインは止めなかった。

止めても無駄だと、もう分かっている顔だった。



市場は、数日前と同じように賑わっていた。

色とりどりの天幕。呼び込みの声。焼き菓子の甘い匂い。


なのに、空気がまるで違った。


リディエルが一歩踏み入れたとたん、ざわめきが、すうっと引いていく。

誰もがこちらを見て、それから、目を逸らした。


あの老婆がいた。

市場に初めて来た日、にこりと会釈をしてくれた人だ。


「あの……」


リディエルは声をかけようとした。

老婆は、リディエルと目が合うなり、顔をそむけた。そして、店の奥へ引っ込んでしまった。


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


市場の端には、前にはなかった人の群れがあった。

荷車に家財を積んだ家族。毛布にくるまれた子供。杖をつく老人。


北から逃げてきた人たちだ。

広場の隅に身を寄せ合って、配られる麦粥の列に並んでいる。


その中の一人が、リディエルに気づいた。


「……氷姫だ」


その声を合図に、いくつもの目が、一斉にこちらを向いた。


「なんで、こんなところにいるんだ」


「……北が凍ってるのに、のんきに買い物か」


「あんたが眠ってくれれば、俺たちは村に帰れるんだろう!」


一つひとつの声が、石みたいに飛んできた。

リディエルは、その場に立ちつくした。

言い返す言葉なんて、ひとつも出てこなかった。


だって、みんな本当のことを言っているのだから。


そのとき、子供の声が、ひときわ高く響いた。


「誇りをもって眠りますって、言ったくせに!」


息が、止まった。


叫んだのは、七つか八つくらいの男の子だった。

手に、小さな本を握りしめている。教科書だ。


「教科書に書いてあるもん!氷姫はお母さんに手紙を書いたんだって!わたくしは、誇りをもって眠りますって! なのに、なんで嘘つくの!」


わたくしは、誇りをもって眠ります。


その一文を、リディエルは知っていた。

知っているどころじゃない。

百年前、氷室へ向かう前の晩に、自分で書いたのだ。


泣き腫らしたお母様を、少しでも安心させたくて。

震える手で、何度も書き直して。


あれが、教科書に載っている?

あんな、精一杯の強がりが?


「……っ」


何か言おうとした、そのときだった。


男の子の後ろから、誰かが何かを投げた。

凍った泥の塊だった。まっすぐ、リディエルの顔に向かってくる。


避けられない。

そう思った瞬間、視界が、銀色に覆われた。


ごつっ、と鈍い音がした。


気がつくと、リディエルはカインの腕の中にいた。

甲冑の胸に、頭ごと抱え込まれている。

泥の塊は、彼の肩当てに当たって砕けていた。


「……っ、カイン!」


「お怪我は」


「わたくしより、あなたが!」


「甲冑がありますから」


広場が、しんと静まり返った。

泥を投げた男が、青ざめて人混みの中へ消えていく。


カインはリディエルを抱えたまま、広場を見渡した。

その目は、ひどく静かだった。怒鳴りもしない。剣にも手をかけない。

なのに、誰も、もう一言も口をきかなかった。


「戻りましょう」


耳元で、低い声がした。

抱え込まれた腕の中で、彼の心臓の音が聞こえる。思っていたより、ずっと速かった。


リディエルは、彼の外套の端をぎゅっと握った。

顔を上げたら、泣いているのがばれてしまいそうだった。



詰所に戻ると、レオンが目の色を変えて飛び出してきた。


「隊長、氷姫様!市場で騒ぎがあったって……って、隊長、肩! 泥だらけじゃないっすか!」


「たいしたことはない」


「……くそっ、泥を投げたのは誰だ?俺、今からでも行って——」


「レオン」


「……わかりましたって」


ぶすっと頬をふくらませながらも、レオンはおとなしく引き下がった。

それから、ちらりとリディエルを見て、小さく言った。


「俺は、氷姫様の味方ですからね。そこだけは、覚えといてください」


「……ありがとう、レオン」


トマスは何も言わず、カインの肩当ての泥を、黙って布で拭い始めた。


詰所の奥で、ミラが弓を手にしたまま、立っていた。


その顔を見た瞬間、リディエルは、彼女が何を言おうとしているのか分かってしまった。


「……氷姫様」


ミラの声は、かすれていた。


「故郷の母から、まだ返事が来ません。村は、第二監視塔のすぐ南です」


「ミラ……」


「分かっています。氷姫様が悪いわけじゃない。でも」


弓を握る指の関節が、白くなっていた。


「姫様が眠れば、母は助かるんですよね」


その言葉は、市場で投げられた泥よりも、ずっと重かった。


リディエルは、何も言えなかった。

はい、とも、いいえ、とも。どちらを言っても、嘘になる気がした。


沈黙が、長く続いた。


やがて、ミラは深く息を吐いた。


「……それでも」


顔を上げた彼女の目は、赤かった。でも、まっすぐだった。


「それでも、私は、姫様の護衛です」


「ミラ……!」


「誰かに眠ってもらって、それで母が助かっても。私はたぶん、母に胸を張って会えません。……だから、姫様が別の道を探すなら、私も探します」


言い終えると、ミラはふいっと目を逸らして、手にしていた弓を差し出した。


「弓。……引いてみますか。気晴らしに」


「…ありがとう」


リディエルは、泣き笑いの顔で、その弓を受け取った。


リディエルが思っていたより、弓はずっと固かった。

弦を引こうとして、指がぷるぷる震える。


ようやく放った矢は、的のはるか手前で、へなりと落ちた。


「……笑わないでちょうだい、レオン」


「わ、笑ってませんよ!?ほら、隊長だって肩が震えてます!」


「いや、そんなことはない」


「震えてるわよ!もう、みんなひどい!」


ミラまでが、口元を押さえて小さく笑っていた。

ほんの少しだけ、詰所の空気がゆるんだ。



その夜。


眠れずにいたリディエルの部屋の扉を、控えめに叩く音がした。

開けると、トマスが小さな盆を持って立っていた。湯気の立つ茶器が、ひとつ。


「夜分に失礼いたします。古い薬草茶です。冷えた体には、よく効きますよ」


「まあ……ありがとう、トマス」


「代々、この家の奥方様が受け継いでこられた配合です。氷姫様がお目覚めになったら、まずこれをお出しするようにと」


「奥方様が……?」


不思議に思いながら、器を受け取る。

湯気の向こうから、ほのかに甘い香りが立ちのぼった。

林檎と、白い花の蜜。それから、ほんの少しだけ、苦い草の匂い。


それをそっとひとくち、含んだ。



リディエルの手から、力が抜けた。

器が、かたかたと受け皿の上で鳴る。


知っている。

この味を、わたくしは知っている。


「……トマス」


自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


「このお茶は、一体誰が作ったの?」




影が第二監視塔に届くまで、あと六日。



【続く】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。