ep.5 頭を垂れる花
林檎の皮と、白い花の蜜。それから、ほんの少しだけ苦い草。
百年前、この配合を考えたのは、リディエル自身だった。
夜の見張りに立つ騎士たちが、少しでも温まるように。
眠気を覚ますんじゃなくて、冷えた指先がほどけるように。
王女の手習いだと笑われながら、厨房の隅で何度も何度も配合を変えた。
この配合をいちばんおいしいと言ってくれたのが、アルヴィンだった。
だから、あの人にだけ教えたのだ。
二人で夜の回廊に座って、同じ器から湯気を分け合って飲んだ。
「……これ、わたくしが配合を考えたお茶なの。わたくしが、アルヴィンにだけ教えた配合なの。どうして、これがここに……」
トマスは、深く目を伏せた。
それから、懐から古い紙を取り出した。
何度も折り畳まれて、端が茶色く変色している。
「茶葉の缶と一緒に、代々受け継がれてきたものです。初代の奥方様、イレーネ様の書き付けにございます。氷姫様がお目覚めになったら、茶と一緒にお渡しするようにと」
「奥方様……アルヴィンの……」
震える指で、紙を開いた。
細くて、丁寧で、どこか凛とした字だった。
《いつの日か目覚められた姫君へ。
この茶の配合は、夫から教わったものではありません。
夫は一度も、私に姫君のお話をなさいませんでした。
けれど夜中になると、夫は一人で厨房に立ち、この茶を淹れておりました。
ひと晩も、欠かさずに。生涯、ずっと。
淹れた茶を、夫は窓辺で北の空を見ながら飲んでおりました。
私はそれを扉の陰から見て、残ったものや香り、色で配合を覚えました。
私たちの婚姻は、先王陛下のお命じになったものです。
氷姫を見守る家を絶やすな。お前の血を残せ、と。
夫は断りませんでした。断れる方ではありませんでしたから。
あの方の心は、最後まで姫君が眠られている氷の中にありました。
それを承知で嫁いだのは、私の意思です。どうか、哀れまないでくださいませ。
私は私で、温室を建て、花を育て、子を育て、それなりに楽しく生きました。
ですから姫君。
どうか、あの方の約束に縛られないでください。私も、縛られずに生きましたから。
目覚めた朝に、せめて一つくらい、貴方が知っている味がありますように。
イレーネ》
読み終えたとき、紙の上に、ぽたぽたと雫が落ちていた。
「……お父様、ったら。なんてことを、命じたのよ……!わたくしを氷に入れておいて、今度はアルヴィンに、知らない人と結婚しろって……!?」
怒りが、腹の底から噴き上げた。
それから、すぐに別のものが押し寄せてくる。
イレーネ。
顔も知らない人。
わたくしのせいで、心を向けてもらえない人の妻になった人。
なのにこの人は、わたくしのために、茶の淹れ方を百年先まで残してくれた。
わたくしが毎朝通っている、あの温室を建てた人。
「ごめんなさい……ごめんなさい、イレーネ……」
それから、アルヴィン。
夜中に一人で、この茶を淹れていた。
ひと晩も欠かさず。生涯ずっと。窓辺で、北の空を見ながら。
誰かを愛して、家族を持って、その血をここまで繋いだ。
目覚めた日、そう思って泣いた。悔しくて、悲しくて。
違ったのだ。
あの人は、ずっと。
ずっと、わたくしを。
「……ばか」
嗚咽が、喉の奥からせり上がってきた。
「ばかよ、アルヴィン……!一人で、毎晩、こんなもの淹れて……!もう会えないって、分かってたくせに……っ!」
もう、止まらなかった。
リディエルは紙を胸に抱きしめて、床に崩れるように座り込み、声を上げて泣いた。
トマスがそっと茶器を下げ、静かに部屋を出ていく気配がした。
どれくらい泣いていたのか、分からない。
ふと、肩に何かがかけられた。
厚い外套だった。まだ、誰かの体温が残っている。
顔を上げると、カインが膝をついて、こちらを見ていた。
トマスが呼んだのだろう。
夜番の途中だったのか、甲冑の上に羽織っていた外套を、そのまま脱いでかけてくれたのだ。
「……カイン」
ランプの灯りが、彼の横顔を照らしていた。
伏せがちな目元。まっすぐな眉。生真面目に引き結ばれた口元。
アルヴィンの、顔だった。
手が、勝手に伸びていた。
指先が、彼の頬に触れる。ひやりとした夜気をまとった肌だった。
「あの人も……こんな顔で、毎晩、北を見てたのかしら」
カインの体が、びくりと固まった。
「一人で、茶を淹れて……わたくしのこと、待って……。ねえ、アルヴィンも、こんなふうに……」
言いかけて、リディエルは気づいた。
カインの目から、すうっと光が消えていくのを。
頬に触れた指の下で、彼の顔が、かちりと仮面みたいに固まっていくのを。
「……アルヴィンの代わりなら」
静かな声だった。
怒っているのでも、責めているのでもない。ただ、ひどく平らな声。
「いくらでも務めます。それが、私の務めですから」
カインは、そっとリディエルの手を自分の頬から外した。
そして立ち上がると、一礼して、扉の外へ出ていった。
ぱたん、と扉が閉まる。
遅すぎた。何もかも。
わたくし、今、何をしたの。
あの人の顔に触れて、あの人じゃない人の名前を呼んで。
目の前にいるのは、カインなのに。
市場で、泥から庇ってくれたのも。
謁見の間で、反逆になると分かっていて隣に立ってくれたのも。
全部、カインなのに。
「……ばかは、わたくしの方じゃない」
肩にかけられた外套を、ぎゅっと握りしめた。
まだ、かすかに温かかった。
結局その夜は、一睡もできなかった。
窓の外が白み始めた頃、リディエルは机に向かって、イレーネの書き付けをもう一度広げた。
私は私で、それなりに楽しく生きました。
その一行を、何度も指でなぞる。
政略で嫁がされて、夫の心は別の女のところにあって。
それでもこの人は、温室を建てて、花を育てて、自分の人生を生きたのだ。
「……わたくしも」
ペンを取った。
新しい紙を一枚引き寄せて、いちばん上に書く。
自分のために、やりたいこと。
一、焼き菓子を食べる
書いてから、その横に小さく印をつけた。これはもう済んでいる。
カインが買ってくれた、あの甘酸っぱいやつ。
二、朝寝坊をする
百年も寝ておいて、と自分でも思う。
でも、百年眠るのと朝寝坊は、ぜんぜん違うのだ。起きたいときに起きる。それがしたかった。
三、弓で的に当てる
今日のへなへなの一本が、悔しかったから。
四、自分の鉢で、花を育てる
イレーネの温室で、氷花を自分の手で育てたい。
五つ目を書こうとして、ペン先が止まった。
書きたいことは、ある。
でも、書いたら、なんだか全部ばれてしまいそうで。
誰に? と自分に聞き返して、顔がかあっと熱くなった。
ええい、と目をつぶって書きつける。
五、誰かと手をつないで歩く
リディエルは紙を伏せて、机に突っ伏した。耳まで熱い。
ばかみたい。
さっき、あんなひどいことをしたくせに。
夜が明けた。
影が第二監視塔に届くまで、あと五日。
顔を洗おうと立ち上がったとき、扉の下に、一枚の紙が差し込まれているのに気づいた。
拾い上げると、震えるような古い筆跡で、短く書かれていた。
《氷結院が、なぜあれほど頑なに結晶を拒むのか。お知りになりたければ、今夜、書庫へお越しください。目覚めの日に、道でお目にかかった者です。 オド》
目覚めた日、杖をついてカインに囁いていった、あの年老いた神官だ。
あのときの押し殺した声が、耳の奥によみがえった。
【続く】




