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ep.4 温室での日々


「昔はこうだったのだもの!」「ご案内すると、言いましたので」


翌朝、温室の前に着くと、硝子張りの扉の前でカインが待っていた。

いったい、いつから立っていたのだろう。肩に朝露が光っている。


扉を押し開けると、しっとり湿った空気が頬を撫でた。

土の匂いに、甘く澄んだ花の香りが混じっている。

天井から降りそそぐ朝の光が、葉の一枚一枚を透かして、床に淡い緑の影を落としていた。


「わあ……!」


氷の塔の、あの乾いた静けさとは正反対の場所だった。

葉がこすれ合う音。遠くで水の滴る音。どれも、生きているものの音だ。


「あの白い花は?」


「氷花、と呼ばれています。初代が、あなたが眠りについた翌年に植えたものの子孫です」


「アルヴィンが……?」


「氷の気配に応える花で、北に不穏があれば、真っ先に萎れてしまいます。我が家では、この花を観測の一つにしてきました」


リディエルは白い花の前に、そっとしゃがみ込んだ。


百年前、あの人が植えた花が、今もここで咲いている。

指先で花びらに触れると、朝露がころりと転がった。

冷たいはずの水滴が、なぜだか少しも冷たく感じなかった。



如雨露を手に取った瞬間、腕がかくんと下がった。


「わっ、重っ! 百年で、如雨露まで頑丈になったのね!?」


金属の縁が、記憶にある陶器のものとは違う光り方をしている。

両手で抱えて、えいっと傾けようとしたところで、背後から声が飛んできた。


「リディエル様、持ち方が違います」


すっと、カインの手が伸びてきた。


「きゃっ!? ……もう、急に近づかないで! 心臓が止まるかと思ったじゃない!」


「失礼しました。ですが、持ち方が違います」




「昔のものは、もうほとんど残っていません」


言いながら、カインはリディエルの手に、自分の手を添えた。


剣を握り続けてきた手は、硬くて、驚くほど温かかった。

指先が触れた瞬間、リディエルは思わず息を止めた。


「……っ! べ、別に、驚いたわけじゃないのよ!? 急に触られたから、その、びっくりしただけで!」


「はい。承知しています」


「し、承知しなくていいのよ!」


言い返してから、頬が一気に熱くなるのが分かった。

なのにカインは真面目な顔のまま、手を離さない。この人、わざとやってるんじゃないかしら。


「力を抜いてください。水は、押し出すものじゃなく、注ぐものです」


如雨露の口から、細い水の筋がこぼれ落ちた。

土に染み込んでいく音が、思いのほか大きく耳に届く。

乾いていた土の色が、みるみる濃く変わっていった。


「見て、カイン! ちゃんと出たわ! ふふっ、わたくし、上手でしょう?」


「……覚えが早いだけでしょう」


カインは手を離すと、少し気まずそうに目を逸らした。


「素直に褒めてくれてもいいのに」


「……褒めたつもりです」


それ、褒め言葉だったの? 分かりにくすぎるわ、この人。


リディエルは如雨露を置いて、彼を見上げた。


「ねえ、カイン。術式は、いつ試すの? わたくしの力が要るのでしょう?」


「いいえ。あなたの体が落ち着いてからです。目覚めたばかりで無理に力を使えば、力そのものが乱れてしまいます」


「でも、北が動き出す前に……」


「北の観測は、護衛隊が毎日続けています。この花もです。兆しが出たら、すぐにお知らせします」



そのとき、温室の扉が、乾いた音を立てて開いた。


入ってきたのは、痩せた壮年の男だった。

襟元で、氷の結晶をかたどった紋章が冷たく光っている。


「氷結院参事官、ヴェッセルと申します。氷姫様のご様子を、拝見に参りました」


丁寧な口調だった。けれど、声は冷たい。

その語尾に、押し殺した北の訛りが、かすかににじんでいた。


隣で、カインの肩がわずかに強張った。


「ご心配には及びません。本日より、北の観測は、氷結院がすべて引き受けます。護衛隊の観測網は、不要となりました」


「……聞いておりませんが」


「本日、通達いたしました。国の存亡に関わる件ですので、一元化するのが筋でしょう」


は?


リディエルは、思わず一歩前に出ていた。


「観測を、あなたたちだけで? ちょっと待って、カインたちは五代も、この日のために……!」


腹の底から、かっと熱いものが込み上げた。

そのとき、足元で、ぱきりと小さな音がした。


見下ろすと、まわりの鉢植えの葉が、白い霜に覆われていた。

氷花の花びらの縁まで、細かな霜の結晶が這い上がっている。


「……これ、わたくしが……?」


「あなたの力が、感情に引きずられているのです」


カインが、静かに言った。


「今、術式を試せば、あなた自身が危ない。だから、待っていただいているのです」


ヴェッセルは、霜に覆われた花を冷めた目で見つめていた。


「これが、氷姫様の今のお力ですか。この程度の揺らぎで、錨の代わりが務まるのでしょうか」


「ええ、務まります」


カインの声は低かった。でも、迷いはひとつもなかった。


「務めさせてみせます」


「……北には、十万の民がいることを、お忘れなきように」


ヴェッセルはそれだけ言い残して、温室を出ていった。

扉が閉まる直前、彼が懐の擦り切れた封筒を、そっと押さえるのが見えた。


しん、と静けさが戻ってくる。


「……ごめんなさい。綺麗な花を、凍らせてしまったわ」


「霜は、時間が経てば溶けます。あなたのせいではありません」


カインが如雨露を傾けた。ゆっくりと、霜が透明な雫に変わっていく。


「それに、あなたが怒ってくれたのが、少し、嬉しかったので」


「……嬉しい、なんて。変な人ね」


言いながら、強張っていた肩から、すうっと力が抜けていた。



数日後、リディエルは街の市場へ連れ出された。


石畳の広場いっぱいに、色とりどりの天幕が並んでいる。

呼び込みの声。荷車のきしむ音。子供たちの笑い声。

あちこちから立ちのぼる香ばしい煙が、人いきれと混じって鼻をくすぐった。


「見て、カイン! あの布、光の加減で色が変わってるわ! あっちは何? いい匂い! ねえ、あれは何を焼いているの!?」


「はぐれると探すのが大変ですから、ひとつずつ順番に……」


「あら、心配してくれるの?」


「……務めですから」


むう、とリディエルは唇を尖らせた。わざと拗ねたふりをしてみせる。

務め、という言葉が出るたびに、彼が何かをごまかそうとしているのが、もう分かるようになっていた。


「つまらない人ね。少しくらい、本音を言ってくれてもいいのに」


すれ違う人たちが、ちらちらとこちらを振り返る。

けれど、それは初日みたいな遠巻きの視線ではなかった。

目が合った老婆が、にこりと会釈をしてくれる。リディエルも、つられて微笑み返した。


広場の隅では、子供たちが小さな本を広げて、声をそろえて読み上げていた。


「氷姫は、国のために自らを氷に封じた、気高く、清らかな王女でした」


「……清らか、まで付いてるのね」


小声で呟くと、隣でカインが、咳払いで笑いをごまかした。


「教科書、ですから。少しは大げさなのでしょう」


「わたくし、朝はいつも寝坊ばかりだったのに」


「……それは、書いていないようですね」


だめだった。

笑いで肩が震えるのを、二人とも止められなかった。



屋台で売られていた小さな焼き菓子を、カインが黙って買って差し出してきた。


「これは?」


「あなたが、さっきからずっと見ていたので」


「……気づいてたの?」


紙に包まれた菓子は、まだ焼きたての熱を持っていた。

両手で包むと、手のひらからじんわりと温もりが広がる。

ひとくち、かじる。


「おいしいっ! 甘いのに、ほんのり酸っぱいのね! 百年でこんなものが生まれてたなんて、なんだか悔しいくらいだわ!」


外はさくっと軽くて、中はとろけるように柔らかい。

百年前には、どこにもなかった甘さだった。


「あなたも食べる?」


半分に割って差し出すと、カインは一瞬迷ってから受け取った。

指先が触れた場所を、リディエルはしばらく意識してしまった。


「わたくし、この焼き菓子、好きよ。好きなものが、また一つ増えたわ。……ねえ、カインの好きなものは?」


「好きなもの、ですか。……考えたことがありません」


「一つも?」


「家の務めが、先にありましたから」


「なら、探しましょう! 見つけたら、ちゃんと教えてね。約束よ!」


カインは、答えなかった。

ただ、手の中の菓子を、しばらく見つめていた。



夕方、城への帰り道。

並んで歩く二人の影が、石畳に長く伸びていた。

西の空は熟した果実みたいな橙色に染まって、市場のざわめきが背中で少しずつ遠のいていく。


「今日は、楽しかったわ。こんなに笑ったの、いつぶりかしら。……ううん、生まれて初めてかもしれない」


「それなら、よかったです」


「毎日、忙しいでしょう。付き合わせてしまって」


「務めですから」


「また、それなの?」


リディエルが笑うと、カインは黙り込んだ。

夕風が、二人の間を静かに通り抜けていく。


それから、ぽつりと呟いた。


「最近、務めだと思って始めたことの理由が、分からなくなることがあります」


「分からなくなる、って?」


「あなたに会いに来る理由が、もう……務めだけでは、足りない気がして」


どくん、と心臓が跳ねた。


「……そ、そんなこと、急に言わないで。心臓に悪いわ」


顔を上げられなかった。

何と返せばいいのか分からなくて、ただ、隣を歩く速さを少しだけ合わせた。

足音が二つ、石畳の上でゆっくり重なる。


「でも……嬉しい、って言ったら。あなた、困るかしら」


カインは何も言わなかった。

ただ、歩く速さが、ほんの少しだけゆるんだ。



城に着く頃には、日はすっかり沈んでいた。

回廊の灯りが、ひとつ、またひとつと灯っていく。


窓の外に、月が浮かんでいた。百年前と同じ形の月だった。


「変わらないものも、あるのね」


「ええ」


「よかった。この月まで違っていたら、わたくし、何も同じものがなくなって、きっと泣いてしまってたわ」


淡い月明かりが、カインの横顔を白く縁取っていた。



その夜、寝台に横になっても、なかなか眠気はやってこなかった。


手のひらには、まだ焼き菓子の温もりと、彼の手の硬さが残っている。

次に彼と話す時間が、待ち遠しい。

そんなふうに思う自分に、リディエルはその夜、初めて気がついた。


窓の外で、薄い雲が月の端をゆっくりと横切っていく。

ただ、北の空のあたりだけは、星ひとつ見えなかった。

塗りつぶしたように、真っ暗だった。



【続く】

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