ep.2 百年分の手記
翌朝。
扉を叩く音で目を開けると、カインが両腕いっぱいに古い革表紙の束を抱えて立っていた。
「……それ、全部?」
「全部です」
机の上に、どさりと置かれる。
手記が六冊。それに、丸めた大きな羊皮紙が一枚。初代の分だけで二冊あるのだという。
表紙にはそれぞれ違う筆跡で、名前が記されていた。
アルヴィン。それから、聞き覚えのない名前がいくつも。
「これが、あなたの家が続けてきたことなの?」
「はい。初代のアルヴィン・アルヴァレスから数えて、私で五代目になります。手記を読んでいただく前に、我が家が何をしてきたのかを、順を追ってお話しします」
カインは机に羊皮紙を広げた。
円い紋様が幾重にも重なって、真ん中に小さな台座の絵が描かれている。余白は細かい術式の文字と書き込みで、びっしり埋め尽くされていた。
うわ、と思わず声が出た。見ているだけで目が回りそうだ。
「まず、あなたが止めた大災厄、ヴリューナスのことから。あれは今も、北の果てで眠っています。あなたの氷の力に縛られて」
「眠って……? 倒したわけじゃなかったのね」
「はい。あなたの眠りそのものが、ヴリューナスを繋ぎ止める錨になっているのです」
「錨……。船を留めておく、あの錨?」
「そうです。あなたが眠っている限り、あれは動けない」
リディエルは、自分の指先をじっと見つめた。
ただ眠っていただけだと思っていた。この手が、百年もの間、そんな化け物を押さえつけていたなんて。
「ですが、錨は永遠には保ちません。氷は年ごとに少しずつ薄れて、百年前後で自然に解ける。それが初代の見立てでした」
「じゃあ、わたくしが今、目覚めたのは……」
「初代の計算の、ほぼ通りです。ただ、それを必ず来る日として備えていたのは、我が家だけでした。氷結院は、あなたの目覚めを、数百年先か、あるいは決して起こらない事態として扱ってきましたから」
「ひょうけついん?」
「大災厄の再来に備える機関です。昨日すれ違った神官も、以前はそこにおりました。……その話は、もう少し後で」
カインは一度言葉を切り、羊皮紙の真ん中を指先でとんと叩いた。
「我が家の務めは、その日までに、あなたの眠りに代わる錨を用意することでした」
「代わりの、錨?」
「人ではないもの。結晶です。あなたの氷の力と、我が家の血を重ねて結晶を育て、この台座に据える。そうすれば、あなたが目覚めても、ヴリューナスは眠り続けます」
「台座は、どこに?」
「塔の最上階に、すでに用意してあります」
「五代もかけて、そんなものを……」
声が、かすかに震えた。
一番古い一冊に、そっと手を伸ばす。
表紙を開いた瞬間、リディエルは息をのんだ。
若い頃のアルヴィンの字だった。
「……あの人の字だわ。少し右上がりで、急ぐとすぐ崩れるの。この癖、ちっとも変わってない……」
懐かしさで、喉がぎゅっと詰まった。
指先で、文字をそっとなぞる。インクのかすれまで、あの人の手の動きが見える気がした。
《今日も術式は進まなかった。彼女の眠りそのものが、この国を災厄から守る錨になっている。彼女がいずれ目覚めることは避けられない。だとしても、その日のために、眠り以外の錨を用意しておかねばならない。それを見つけることが、私にできる唯一の償いだ。》
「償い?」
声が、思わず尖った。
「何を償うことがあったっていうの!? あの日、眠ると決めたのはわたくしよ? あなたはただ、止めなかっただけ。わたくしの我儘に、付き合ってくれただけじゃない……!」
ページに向かって怒鳴ったって、返事なんて来ない。分かっている。分かっているのに、言わずにいられなかった。
錨、という言葉が、胸の中で重たく響く。
リディエルは自分の胸に手を当てた。
「わたくし、ただ眠っているだけだと思っていたわ。そんな重いものを、あの人に……あなたたちに、ずっと背負わせていたなんて」
「初代は、あなたが氷に入られる最後の瞬間までお傍にいて、氷の欠片をひとつ持ち帰ったそうです」
「欠片?」
「はい。その欠片のせいか、初代の血はあなたの氷によく馴染んだと、手記にあります。欠片には、まだ何かが宿っている、とも余白に書き添えられていました。欠片は今も、台座の中心に納めてあります。我が家の術式は、その血を代々受け継ぐことが前提になっているんです」
「……あの人らしいわ」
小さく笑ってしまった。笑ったのに、目の奥がかっと熱くなった。
ページの端が、丸くすり切れていた。
誰かが夜ごと、同じ場所を開いていた跡だ。
めくるたびに、字は少しずつ角が取れていく。最後の方は、震えるように乱れていた。
年を取って、手が思うように動かなくなっても、アルヴィンは書くのをやめなかったのだ。
ぽたり。
雫がページの端に落ちた。慌てて袖で拭う。
「やだ、大事な手記を濡らしちゃったわ! ……だめね、起きてから涙もろくなってばかり」
三冊目を開くと、字が変わった。
角ばった、几帳面な筆跡だった。
《父の遺言通り、術式の続きを引き継いだ。だが父が生涯かけても仕上げられなかったものを、私一代で仕上げられるとは思っていない。それでも、誰かがやめれば、彼女が目覚めるその日に、この国を守る手立てが何もないままになる。》
「二代目は、血を媒介にする方法を確かめました。三代目は、初めて小さな結晶を作りました」
「作れたの!?」
「作れました。ですが、半日ほどで砕けました」
「……ああ、もう」
四冊目、五冊目。筆跡は変わり続けた。
なのに、どの手記も同じところに辿り着いている。
まだ足りない。まだ届かない。それでも、次の代へ。
「どうして、砕けてしまったの?」
「結晶を育てるには、氷姫様ご自身の力が要るのです。ですが、あなたは眠っておられた。かといって起こすわけにもいきません。眠りが錨である以上、起こせばヴリューナスが動きます」
「……行き止まりじゃない」
「はい。四代目の父は、そこで悩み抜いたまま、この世を去りました。氷結院にも何度も協力を仰ぎましたが、実証のない夢物語だと、代々相手にされませんでした。私の代で、術式の骨組みだけはようやく形にできました。あとは、あなたご自身の力で試すだけです」
「試したことは、まだ一度も?」
「一度も。ですから、うまくいくのかどうかも、正直に言えば分かりません。間に合わせるつもりでしたが、目覚めは見立てより少し早かった。時間が足りなかったのは、我が家の力不足です」
「ちょっと、どうしてあなたが謝るのよ」
リディエルは、思わず身を乗り出していた。
「わたくしが勝手に早起きしてしまっただけでしょう。それに、間に合わなかったなんて言わないで。何も分からないまま放り出されずに済んだのは、あなたたちのおかげなんだから!」
勢いで言い切ってから、少しだけ声が小さくなる。
「五代も……。そんなに苦しい思いをしてまで、続けなくてよかったのに。そう言ったら、失礼かしら。でも、どうしてもそう思ってしまうの」
「……そう言ってくださるのは、ありがたいです。ですが、やめるという発想が、そもそも私の家にはありませんでしたから」
カインの声には、誇りとも諦めともつかない硬さがあった。
リディエルは手記を閉じて、ふと彼の顔を見上げた。
朝の光が、横顔の輪郭を縁取っている。
「ふふ……やっぱり似てるわ、アルヴィンに。本当に、そっくり」
「父や、その、高祖父にも似ているとよく言われます」
「困ってる? わたくしが、あなたをあの人みたいに見てしまうこと」
カインは一瞬だけ言葉に詰まって、それから静かに答えた。
「いいえ、困ってはいません。これが私の務めですから」
あまりにも滑らかな返事だった。
滑らかすぎて、リディエルは言葉に詰まった。
ふと見ると、彼の指先が、まだ手記の表紙を強く押さえたままだった。白くなるくらいに。
「務めだから、で全部済ませてしまうのね。……それは、少し寂しいわ」
「…………」
「ねえ、あなたは、五代目として生まれたときから、これを?」
「ええ。物心ついた頃には、もう継ぐものだと決まっていました」
「自分で選んだわけじゃないのね」
カインは答えなかった。
「それって、あんまりよ。あなたの人生なのに!」
思わず語気が強くなった。
自分が本気で怒っていることに、リディエルは少し遅れて気づいた。
机の隅に、まだ開かれていない一冊があった。
他の五冊より新しくて、表紙の革もまだ硬い。
手を伸ばそうとすると、カインの手が先にそっと押さえた。
「それも記録かしら?」
「私の代の分です。まだ、人に見せられるものじゃありませんから」
「いつか、見せてくれる?」
「……分かりません」
「中には何を書いているの?」
「今はまだ、自分でもよく分かっていないことです。……不完全ですから」
短い沈黙のあと、カインは手記と羊皮紙をまとめて抱え直した。
むう、と頬がふくらみかけたけれど、リディエルはそれを引っ込めた。
「無理には聞かないわ。でも、待ってるから。あなたが話したくなる日まで」
少しの沈黙のあと、リディエルは顔を上げた。
「ねえ、カイン。昨日、言ったわよね。万が一のことを考えて一人で迎えに来たって。あの万が一って、何のこと?」
カインは、机の上で拳を握った。
長い、長い沈黙だった。
「……氷結院には、あなたが目覚めたときのための手順が、代々形式として残されています。起こるはずのない事態への備えとして、ただ消えずに引き継がれてきた決まりごとです。……ですが、決まりごとは、動き出せば本物になります」
「手順……?」
「錨は、あなたの眠りそのものです。あなたが目覚めれば、錨は外れる。ヴリューナスが再び動き出す兆しが北に現れたときは」
カインは、そこで一度、言葉を切った。
「氷結院は、あなたをもう一度眠らせることになっています」
言葉が、耳を素通りしていった。
指先が、あの日の氷みたいに冷たくなっていく。
「……それは、国王の命令よりも、優先されるものなの?」
「大災厄の再来に備える、その一点においてのみ。歴代の国王が、そう誓っています。あなたの目覚めは、昨日のうちに氷結院へ届けてあります。ただ、北に兆しが出ない限り、彼らは動きません」
「……最初のお迎えに、一人で来たのは」
「私の判断です。氷結院の者を立ち会わせれば、あなたが目を覚ました途端、眠り直すよう迫られるのが目に見えていました。まず、今の世界を見ていただきたかったのです」
リディエルは、ゆっくりと息を吐いた。
「わたくし、また、あの氷の中に戻るかもしれないのね」
自分でも驚くほど、乾いた声だった。
「そうさせないために、この術式があります。結晶が完成すれば、あなたが眠る必要はなくなる。試すのは、あなたの体が落ち着いてからです。目覚めたばかりで力を使えば、力そのものが乱れます。それまでは、北の観測を毎日続けます。兆しが出れば、すぐにお伝えします」
「……どうして、昨日のうちに教えてくれなかったの。いいえ、責めてるんじゃないの。……言えなかったのよね」
「お伝えすれば、あなたが自分から眠ると言い出す気がして」
「……そうね。きっと、言ったわ」
苦く笑うと、頬が引きつった。
ああ、本当に、言っていたと思う。国のためなら、って。気高い王女の顔をして。
「会ったばかりなのに、わたくしのこと、よく分かっているのね」
「……手記で、何度も読みましたから」
その一言が、胸のいちばん柔らかいところに、そっと触れた。
この人は、わたくしを知っている。
百年分の文字の中で、何度も何度も、わたくしに会ってきたのだ。
なのにわたくしは、この人のことを、まだ何ひとつ知らない。
「ねえ、カイン。もし氷結院が、わたくしをもう一度眠らせると言ったら。あなたは、どうするの」
カインは、しばらく答えなかった。
窓の外で、風が硝子をかたかたと鳴らしている。
「……その答えを、私はまだ持っていません。ただ、あなたが眠るところを、黙って見ているだけの人間にはなりたくない。それだけは、決めています」
その日の午後、カインは何も言わずに、護衛隊の詰所へと歩き出した。
リディエルは、その背中を追いかけた。
答えの見つからない問いを、胸に抱えたまま。
【続く】




