ep.1 目覚めと、知らない誰か
ううん、冷たい。
冷たいなんてものじゃない。指先に氷の針を何本も刺されているみたいに痛い!
「……っ、な、に……これ……」
かすれた声が喉からこぼれて、リディエルはようやく、自分が息をしていることに気づいた。
頬だけが、燃えるように熱い。氷に閉じ込められていた体温が、少しずつ外へ溶け出しているのだ。
わたくしは、リディエル。
名前だけは、すぐに思い出せた。
この国の王女。そして、国を襲った大災厄を止めるために、自分の意思で氷の中に入った女。
それしか方法がないと、信じて。
細かいことは、まだ霧の向こうにある。
耳の奥で、水滴が石に落ちる音がしていた。ぽたん、ぽたん。
鼻をくすぐるのは松明の油の匂いじゃない。乾いた、金属みたいな匂いだ。
……ここ、どこ?
ぼやけた視界の真ん中に、誰かが立っていた。
銀の甲冑。感情の読めない横顔。生真面目そうに引き結ばれた口元。
知っている。
この輪郭を、わたくしは知っている。
眠りにつく最後の瞬間まで、そばにいてくれた騎士。
必ずまた会おうと約束してくれた、たった一人の大切な人。
「アルヴィン!」
叫んだときには、もう体が前に出ていた。
凍えた足がもつれて、甲冑の胸に額からぶつかる。ごつん、と鈍い音がした。痛い。でも、そんなのどうでもいい。
「アルヴィン、アルヴィンなのね!? 待っていてくれたのね! ねえ、わたくし、ちゃんと起きたわ!」
甲冑の主が、びくりと肩を揺らした。
「……人違いです」
え。
「私はカイン・アルヴァレス。あなたが目覚める、その時のために、ここにおりました」
ぶつけた額が、急にじんじんと痛みだした。
おそるおそる顔を上げる。
声が違う。低くて硬くて、あの人の柔らかい声とはまるで違う。
なのに輪郭も、眉のかたちも、悔しいくらいそっくりだった。
「カイン……アルヴァレス……? 待って、アルヴァレスって、その名前は……」
カインは何も答えず、ただ視線を伏せた。
その沈黙が、答えだった。
胸の奥で、がらがらと何かが崩れる音がした。
アルヴィンは、もういない。
あの人が誓ってくれた「また会おう」は、ずっと遠くに置き去りにされてしまったのだ。
「……そう、よね。そんなはず、ないわよね。わたくしったら、何を……」
笑おうとした。うまく笑えなかった。口の端が引きつって、変な顔になっているのが自分でも分かる。
頭では分かっていたはずなのに。目の前の顔が、それを許してくれなかった。
「取り乱したわ。あの人にまた会えるって、それだけを信じて眠ったものだから」
悲しいのか、ほっとしているのか、自分でもよく分からない。
リディエルは甲冑から体を離して、震える息を吐いた。
ふと、あたりを見回す。
狭い石室だった。壁にも床にも、溶けかけた氷がこびりついている。そしてここにいるのは、カインだけ。
「ねえ。ここには、あなた一人だけなの?」
「はい」
「はい、って……」
思わず眉が吊り上がった。
「わたくし、この国を大災厄から救った女なのよ? 今、自分で思い出したばかりだけれど! その女が長い眠りから目覚めたっていうのに、出迎えがあなた一人きり? さすがに寂しすぎるんじゃないかしら!」
強がりだった。
本当は、見知らぬ場所にたった一人で放り出されたみたいで、心細くて仕方がなかった。膝がまだ笑っている。
カインは、言葉を選ぶように一瞬黙った。
「氷姫様の目覚めが、いつ、どのような形で起こるかは、誰にも分かりませんでした。ですから万が一のことを考え、まずは私だけでお迎えすることにしたのです」
「万が一? なあに、それ」
「……それは、明日お話しします。今日はまず、今のこの国を見ていただきたいのです」
歯切れが悪い。ものすごく悪い。
何か隠してるわね、この人。リディエルはすぐにぴんときた。
「……分かったわ。でも約束よ、明日は必ず話してちょうだい。逃げたら承知しないから」
問い詰める気力は、まだ残っていなかった。
それに何より、自分がここにいるという状況そのものを、まだ飲み込めていなかった。
カインに促されて塔の外へ出た瞬間、リディエルはあんぐりと口を開けた。
「……なに、ここ」
記憶の中の街並みが、跡形もない。
でこぼこだった石畳は平らに整えられ、見たこともない形の建物がずらりと並んでいる。
道の両脇には、松明の橙ではなく、白く澄んだ灯りが等間隔に灯っていた。火じゃない。なのに明るい。
行き交う人たちの服は、裾が短くて袖が細い。交わされる言葉は聞き取れるのに、ところどころ外国の言葉みたいに聞こえる。
風に乗って、焼いた麦とは違う甘い匂いが流れてきた。
「ちょっと待って。ねえ、待って。あの灯り、どうなっているの? 火が入っていないわよね? あの人たちの袖、あんなに細くて腕が動くの?」
「順番にお答えします」
「全部いっぺんに知りたいのよ!」
言ってから、はっとした。
はしゃいでいる場合じゃない。こんなにも何もかもが変わってしまうなんて、いったい。
「……ねえ、カイン。あれから、どれだけの時が経っているの?」
「氷姫様がこの国のためにお眠りになられてから、百年です」
百年。
その一語が、思っていたよりずっと重く胸に落ちた。
百年。自分が知っていた誰もが、もうこの世にいない年月。
「百年……そう。では、お父様も、お母様も、もう……」
言葉が、喉の途中でつかえた。
最後に見た二人の顔が鮮やかに浮かんで、それからすうっと遠ざかっていく。
鼻の奥がつんとした。ここで泣いたら、たぶん止まらなくなる。リディエルはぐっと唇を噛んだ。
「……この国は、どうなっているのかしら」
「王家の血筋は、もう傍系に移りました」
「わたくしのことは?」
「歴史書に残っています。この国を救った偉人として。……ただ、あなたが本当に目覚める日が来ると信じていたのは、我が家の者だけでした」
偉人。
その響きは、記憶の中の自分とずいぶん遠いところにあった。
偉人って、あの、肖像画が飾られていて、子供が名前を覚えさせられるような人のこと? わたくしが?
すれ違った小さな男の子が、リディエルの古風なドレスをまじまじと見上げて、母親の袖を引いた。
母親は慌てて頭を下げ、子供を抱えるようにして足早に去っていく。
「……なんだか、見世物みたいね」
「悪気はないんです。氷姫の絵姿は、子供の教科書にも載っていますから」
「きょうかしょ? なあに、それ」
「みんなが同じことを学ぶための本、のようなものです」
「へえ……。それで、わたくしはその中で、どんな娘だと書かれているのかしら」
「国のために自分を犠牲にした、気高い王女だと」
ぴたり、とリディエルの足が止まった。
「気高い? わたくしが?」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「冗談でしょう。怖くて、震えて、それでも他に道がなかっただけよ。そんな立派なものじゃなかったわ。……それを気高いだなんて。そう教えられているのかと思うと、なんだか腹が立ってきたわ!」
言ってしまってから、しまったと思った。八つ当たりだ。この人が書いたわけでもないのに。
「……今のは、あなたに言うことじゃなかったわね」
カインは何も言わなかった。
気高い、という言葉の裏にあった孤独は、まだこの青年には届いていないようだった。
気まずくなって、リディエルはわざと明るい声を出した。
「それで? あなたの家は、わたくしの寝顔で見物料でも取っていたのかしら」
「見物料は取っていません」
真顔で返された。冗談の通じない人ね、もう。
「ただ、氷姫護衛隊という名目で、代々あの塔を守ってきた家がありました。それが私の家です」
「代々って……」
「はい。あなたが目覚めても国を危険にさらさずに済むよう、その方法を探すのが、初代からの務めでした」
初代。
その響きに、リディエルの足がまた止まった。心臓が、どくんと嫌な音を立てる。
「初代……アルヴァレス家の。それって、アルヴィンのことなのね」
カインも足を止め、ゆっくりと頷いた。
「はい。初代はアルヴィン・アルヴァレス。私の高祖父にあたります」
「……そう」
息を吸う。吐く。それでも胸の中のぐちゃぐちゃは、ちっとも静かにならなかった。
「あの人は、生きたのね。誰かを愛して、家族を持って、その血をここまで繋いだ」
リディエルは、両の拳をぎゅうっと握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
「よかったって、思うべきなのに。喜んであげなきゃいけないのに。どうして、こんなに悔しくて、悲しいのかしら。……必ずまた会おうって、言ったくせに! わたくしが起きる前に、さっさといなくなってしまうなんて!」
責める声が、笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなくなった。
目の前がにじむ。ぼやけた視界の中で、カインは何も言わず、ただ黙って彼女が落ち着くのを待っていた。
道の途中、年配の神官らしき人とすれ違った。
杖をついたその老人は、リディエルの顔を見るなり深く頭を下げ、それから押し殺した声でカインに囁いた。
「……まだ、大丈夫なのですか」
カインは短く頷いただけで、それ以上は答えなかった。
神官は何かを確かめるようにカインの顔をじっと見てから、もう一度礼をして去っていった。
「今の人は?」
「古い顔見知りです」
短すぎる。どう考えても短すぎる。
また何か隠してる。そう思ったけれど、追及するには、自分はまだこの世界のことを何も知らなすぎた。
「……ふうん」
城に戻る頃には、日はすっかり傾いていた。
案内された部屋の窓からは、見知らぬ形の屋根がどこまでも続いているのが見える。
百年前には、こんな景色はなかった。
「これが、この国が、この街が……わたくしが守ったもの」
呟いた声は、誰に聞かせるでもなかった。自分に言い聞かせるような声だった。
「誇らしいって、思えたらよかったのに。今はまだ、寂しいだけだわ」
戸口で足を止めていたカインが、振り返った。
「明日、私の家が代々続けてきたことを、すべてお見せします。……万が一の話も、そのときに」
「全部、見せてくれるのね。楽しみ、って言いたいところだけれど……正直に言うと、ちょっと怖いの」
「……はい。すべて、です」
その声には、覚悟のようなものがにじんでいた。
頷きながら、リディエルは気づいてしまった。また、彼の顔にアルヴィンの面影を探している自分に。
扉が閉まる。
一人きりになった部屋で、リディエルは窓辺に立った。
見知らぬ街の灯りが、記憶の中の松明とは違う色でまたたいている。
「……アルヴィン。わたくし、目が覚めてしまったわ。あなたのいない世界で」
返事なんて、あるはずもない。
頬を熱いものが伝って、そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。
一度こぼれたら、もう止まらなかった。リディエルは窓枠にしがみついて、子供みたいに声を上げて泣いた。
百年前、自分が選んだ眠り。
それが本当は何を支えていたのか、彼女はまだ知らない。
【続く】




