第9話 悪魔はタイミーではない
魔界の夕方は、だいたい誰かの仕事が増える気配でできている。
溶岩の川は鈍く泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走る。
髑髏をかたどった街灯は無駄に律儀に青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろ歩いていた。
翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも「今日の業務がどこまでか、もう考えたくない」という顔である。
そんな街の一角に、魔界派遣公社・召喚対応第七支部はあった。
窓口の奥で、バルタザールは書類の山を前にしていた。
正確に言えば、前にも横にも、ついでに肘の下にもあった。
向かいの席で帳簿を繰っていたリリィが、呆れた顔で言う。
「増えたわね」
「前からあった」
「見えてなかっただけで?」
「そうだ」
「増えたのと大差ないわね」
バルタザールは顔をしかめ、束の上から一枚引き抜いた。
「何で処理済みの束の中に未処理が混ざるんだ」
「あなたが混ぜたからでしょ」
「決めつけるな」
「他に誰がいるの」
「……魔界にはいたずら好きの小悪魔が多い」
「その通りなら、あなたの机はだいぶ呪われてるわね」
バルタザールが何か言い返しかけた、そのときだった。
支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、耳障りな音を立てて鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:十八時から二十時、至急一名お願いします』
沈黙。
「……願いですらないな」と、バルタザール。
「求人ね」と、リリィ。
「帰っていいか?」
「まだ出発してもいないわよ」
足元に転移陣がひらき、紫色の光がじわりとせり上がる。
バルタザールは心底嫌そうな顔で立ち上がった。
「十八時から二十時って何だ。時間指定するな」
「向こうにも都合があるんでしょ」
「知らん。こっちにもある」
「主に未処理書類の都合が?」
「それを言うな」
次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。
◇◇
転移の光がほどけた瞬間、耳に飛び込んできたのは、騒がしい店の音だった。
食器のぶつかる音。
呼び出しベル。
自動ドアの開閉音。
厨房から飛ぶ短い声。
人の足音。
子どもの声。
「取り皿お願いします」という声。
バルタザールは眉をひそめた。
そこは人間界のファミレスだった。
そして足元には、水で描かれた、ひどく雑な召喚陣があった。
線はやけに太く、ところどころ乾きかけて薄くなっている。
円は歪み、補助線らしきものは途中から怪しくなり、端のほうは靴跡でにじんでいた。
バルタザールはまず、それを見下ろした。
「……何だこの陣は」
「すみません!」と、すぐ前にいた男が反射で頭を下げた。
「謝罪ではなく説明をしろ」
「時間がなくて……」
「しかもこれ、何で描いた」
「水です」
「水」
「床拭き用のバケツが近くにあって」
「もっと他にあっただろ」
「そのときはいっぱいいっぱいで……」
「円が潰れている」
「途中でお客様を通すために避けたら……」
「召喚陣を客の前で描くな」
男は三十代半ばくらいだった。
黒いシャツに黒いエプロン。名札には「店長 榊」とある。
額には汗。顔には疲労。
バルタザールは外套の裾を払った。
召喚された以上、最初の手順は崩さない。
「――我が名はバルタザール! 深淵の焔を統べ、契約と召喚に応じて来た! 願いを述べよ、人の子よ!」
榊は勢いよく頭を下げた。
「店長の榊です! 本当にすみません、バイトが一人来なくて、もう一人も熱で休みで、今ホールが一人足りなくて――」
「足りんのだな」
「はい!」
「そこを悪魔で埋めるな」
「ほんとにそうなんですけど、もう何かがぶっ飛んで」
「ぶっ飛ぶな」
ぴんぽーん。
ホールのほうでベルが鳴る。
榊の肩がびくっと跳ねた。
「す、すみません、ただいま――あ、違う、今はこっちが」
「落ち着け」
「無理です!」
さらにもう一つ鳴る。
ぴんぽーん。
バルタザールは眉間を押さえた。
「で、我に何をさせる気だ」
「二時間だけでいいんです。お水出して、料理運んで、皿を下げて、会計を少し見てもらえたら」
「悪魔への依頼内容ではないな」
「でも切羽詰まってるので……」
榊はぐっと唇を引き結んだ。
「対価は払います」
「ほう」
その一言だけで、バルタザールの姿勢が少し変わる。
榊はそれを見逃さなかった。
「閉店後、好きなだけスイーツ作ります」
「……」
「うち、デザートの評判いいんですよ。苺のミルフィーユと、固めプリンと、チョコパフェと、焼きたてワッフルがあります」
「………」
「今月の限定も出せます」
ぴんぽーん。
ぴんぽーん。
バルタザールは目を閉じた。
「……二時間だな」
「はい!」
「十八時から二十時までだな」
「はい!!」
「終わったら甘味だな」
「はい!!!」
「最悪だ…」
「ありがとうございます!!!!」
◇◇
五分後、バルタザールは黒いエプロン姿でホールに立っていた。
「何でこうなるんだ……」
「似合ってます!」と、榊。
忙しい店は悪魔一人の不機嫌を待ってくれない。
「三番さん、お水おかわりです!」
「五番さん、取り皿!」
「十番さん、会計!」
「八番さん、デザート先で!」
「一度に言うな!!」
パスタを運び、水を足し、皿を下げたところで、榊が厨房の入り口から顔を出した。
「すごい、助かります……!」
「当然だ。我を誰だと思っている」
そのとき、窓際のボックス席から声が飛んだ。
「すみませーん」
女子高生が四人。
制服のまま、ドリンクバーとポテトを囲んでいる。
バルタザールが向かうと、一人がすぐ笑った。
「店員さん、それコスプレ?」
「悪魔だ。用件を言え」
「え、やば。なんで悪魔が働いてんの?」
別の子がメニューを開く。
「おすすめのデザートあります?」
四人がきゃっと笑う。
バルタザールはメニューを一瞥した。
「……苺のミルフィーユだ」
「美味しいの?」
「知らん」
スプーンをくるくる回しながら、一人が言った。
「店員さん、めっちゃタメ口じゃん」
「こっちは悪魔なんだよ!!」
一拍置いて、四人は揃って笑った。
「最高」
「やば、好き」
「ちゃんと設定守ってる」
「写真撮りたい」
「撮るな」
「えー」
「ミルフィーユが来るまで静かにしていろ」
「はーい、悪魔さん」
バルタザールはものすごく嫌そうな顔で踵を返した。
◇◇
忙しい時間帯の飲食店には、特別な事件がなくても普通に地獄がある。
水。
取り皿。
ケチャップ。
フォークを落とした。
会計は別。
デザートは食後。
いや、やっぱり一緒で。
榊の声が飛ぶ。
「バルタザールさん、十二番さん下げお願いできますか!」
その横でベルが鳴る。
ぴんぽーん。
「今行く!!」
どんどん店員らしくなっていった。
◇◇
十九時を回ると、今度はデザートの波が来た。
「チョコパフェ一つ!」
「プリンアラモード二つ!」
「ミルフィーユ一つ!」
「ワッフル、バニラ追加で!」
「サンデーもお願いします!」
榊が厨房から顔を出す。
「すみません、デザート集中してます!運べますか!?」
「運ぶしかないだろうが!」
トレーの上に、グラス、皿、アイス、ソース、果物がぎっしり並ぶ。
「崩さないでくださいね」と、榊。
「誰に言っている」
女子高生の卓に、苺のミルフィーユが四つ届く。
「わー、来た」
「え、うまそ」
「写真!」
一人がスプーンを持ったまま言う。
「悪魔さん、口は悪いけど仕事はちゃんとしてんね」
「不本意だ」
バルタザールはそう言い捨てて戻ったが、背中越しに聞こえた「悪魔さんまた来てほしい」という声に、露骨に顔をしかめた。
◇◇
十九時四十分を過ぎたころ、ようやく波が引き始めた。
入口の待ち客が消え、ベルの間隔が少し空く。
榊は厨房の壁に手をついて、大きく息をついた。
「た、助かりました……」
「まだ二十分あるぞ」
そこへ、会計を終えた女子高生たちがレジ前を通る。
「悪魔さん、ありがとうございましたー」
「悪魔さん、またね」
「または無いぞ」
「えー」
「次はプリン食べる」
「勝手にしろ」
最後まで楽しそうに笑いながら、四人は店を出ていった。
榊がレジの横で小さく言う。
「人気でしたね」
「やめろ」
「接客向いてるかも」
「やめろと言っている」
二十分後、時計の針が二十時を指した。
榊はホールの中央まで来て、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。ほんとに、助かりました」
「うむ」
「こんな理由で呼んでしまってすみません。本来なら絶対こんなことしないんですが…」
「だろうな」
榊は困ったように笑った。
「約束どおり、スイーツ作ります」
◇◇
閉店後の店内は、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。
厨房の灯りだけが明るく、甘い匂いが漂っている。
カウンター席に座ったバルタザールの前に、まず固めプリンが置かれた。
次に苺のミルフィーユ。
さらにチョコレートパフェ。
焼きたてワッフル。
最後に、小さなチーズケーキまで来た。
バルタザールはプリンを一口食べ、黙った。
榊が不安そうに身を乗り出す。
「どうですか」
「……うまい」
「よかった……!」
その声には、本気の安堵が混じっていた。
ミルフィーユも食べる。
パフェも食べる。
ワッフルも食べる。
どれもうまい。
腹立たしいくらい、ちゃんとうまい。
榊は少し笑って、それからまた頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うむ」
「もしまた何かあっ――」
「呼ぶな」
「はい」
足元に帰還陣がじわりと開く。
榊は最後にもう一度、深く頭を下げた。
「助かりました」
「まあな」
次の瞬間、バルタザールの姿は光に呑まれた。
◇◇
第七支部へ戻ると、リリィが帳簿から顔を上げた。
「おかえり。何だったの?」
「労働だった」
「人間界で?」
「ファミレスで」
「悪魔が?」
「そうだ」
バルタザールは席につき、羽ペンを取った。
召喚者の願望:忙しい時間帯のホール要員補充
契約内容:配膳、下げもの、会計補助、呼び出しベル対応、スイーツ一式
特記事項:悪魔を単発の穴埋め要員みたいに使うな
リリィは報告書を見て、ふっと笑った。
「でも、対価は悪くなさそうね」
「……まあな」
「何が出たの?」
「固めプリン、苺のミルフィーユ、チョコレートパフェ、焼きたてワッフル、小さいチーズケーキ」
「多いわね」
「別にいいだろ」
リリィは肩をすくめた。
「でも、当たりの案件だったんじゃない?そんなにたくさんスイーツが食べられたんだから」
「……そこは、そうだが」
「ならいいじゃない」
「労働が発生した時点で外れだ。もう二度と行かん。次に同じようなのが来ても断る」
リリィは丸眼鏡の奥で目を細めた。
「もっと甘味の強い店でも?」
「断る」
「焼きたてタルトとか」
「……」
「アイス盛り放題のワッフルとか」
「……」
「揺れてるじゃないの」
バルタザールは嫌そうな顔で羽ペンを置いた。
「検討しただけだ」
「じゃあ次に『至急一名お願いします』が来たら?」
「断る」
「焼きたてタルト」
「……内容による」
「断れてないわね」
バルタザールは顔をしかめた。
「うるさい」




