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魔界派遣公社 presents  作者: 一ノ瀬 このは


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10/11

第10話 悪魔と夏支度

魔界の夕方は、今日の仕事が終わったという顔をした瞬間に、だいたい次の仕事が来る。


溶岩の川は相変わらずごぽごぽと泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走っていた。

髑髏をかたどった街灯は青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いている。

翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも「今日はここで切り上げたい」という願いを、もう誰にも届かないと知っている顔である。


そんな街の一角、魔界派遣公社・召喚対応第七支部では、バルタザールが机の上の書類を片手で寄せ、もう片方の手で冷めた魔界珈琲を飲んでいた。


「なあ」と、彼は嫌そうな顔で言った。

「最近の人間界、悪魔の使い方雑じゃないか?」


向かいで帳簿を閉じていたリリィが、丸眼鏡の奥からちらりと見る。


「案件によるんじゃない?」

「前回は二時間だけ穴埋め要員だぞ」

「働いてたわね」

「言うな」

「でも対価は悪くなかったんでしょ」


バルタザールは顔をしかめたまま、書類の端を揃えた。


「我は本来、契約によって人の運命を狂わせ、王国を混乱に陥れ、魂を」

「最近はファミレスで水も運ぶ」

「その要約をやめろ」


ちょうどそのときだった。


支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響く。


ジリリリリリリリッ!


壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れる。


『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たぶん簡単』


「出たな」と、バルタザール。

「来たわね」と、リリィ。

「信用できん」

「いつも言ってる」

「毎回当たってるだろうが」


足元に転移陣がひらき、紫色の光がじわりとせり上がる。

バルタザールは本気で嫌そうな顔のまま立ち上がった。


「たぶん簡単、で簡単だった試しがない」

「たぶん、ってついてるものね」

「雑な保険をかけるな」

「行ってらっしゃい」

「帰ってきたら、もし今回もろくでもなかった場合は」

「どうするの」

「文句を言う」

「いつも通りね」


次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。


◇◇


転移の光がほどける。


耳に入ってきたのは、蝉の声だった。

じりじりとした夏の音が庭じゅうに満ちている。風はぬるく、土と木の乾いた匂いがした。


そこは古い家の縁側だった。


庭に面した板張りの廊下。脇には巻いたすだれ、束ねた麻紐、脚立代わりに使っていたらしい低い踏み台、半分開いた物置戸。

その足元に、水の筋や、ほどけた紐や、丸く広がった蚊帳の縁が重なっていた。


そして、その中心近くに、小柄なおばあさんが一人立っていた。

腕にはすだれを抱え、頭には手ぬぐいを巻き、いかにも「今まさに一人で家の夏支度をやっていた」格好である。


バルタザールは外套の裾を払った。

召喚された以上、最初の手順は崩さない。


「――我が名はバルタザール! 深淵の焔を統べ、契約と召喚に応じて来た! 願いを述べよ、人の子よ!」


おばあさんは一度だけ目を丸くした。


「あらまあ」


間。


「お手伝いさん?」

「そんなわけあるか」


おばあさんは、バルタザールの足元を指さした。


「そこ、すだれ踏むとささくれるから気ぃつけてね」


バルタザールが足をどけると、おばあさんは抱えていたすだれを持ち直した。


「ありがとうねえ」

「あ、あぁ…」

「あんた、さっき何て言ったんだい」

「我が名はバルタザールだ」

「バル……」

「バルタザール」

「じゃあバルさんね」

「勝手に縮めるな」


おばあさんは気にせずうなずいた。


「私はフミよ」

「フミ。まず説明しろ。これは何だ」

「夏支度よ。すだれ掛けて、蚊帳を出して、ついでに電球も替えようと思ってねえ。んで、紐ほどいて、水撒いたらあんたがいつの間にかいてね」


説明は雑だったが、現場は十分に語っていた。

打ち水の筋が縁側の上で輪を描き、ほどけた麻紐がその外周をなぞり、広げかけの蚊帳の縁がそこへ重なっている。

夏支度の途中でたまたま成立してしまった召喚陣のようだった。


バルタザールは額を押さえた。


「よりにもよって、そんな偶然が」

「よくわからないけれど、ちょっと手伝ってくれるかねえ」

「よくわからない、で終わらせるな」

「それで、届くかい?」

「何がだ」

「そこ」


フミが指したのは、縁側の上の高い位置だった。

簾を掛けるための金具が、軒のすぐ下についている。


バルタザールは嫌な顔になる。


「脚立出すの面倒でねえ」

「我は脚立ではない」

「でも、あんた身長高いし届くでしょう?」


実際届く。

翼を少し広げればなおさらだ。


「それじゃ、お願いね。ありがとうね。」

「おい、やるとは言ってないぞ」


おばあさんは全く気にせずニコニコと笑いながら、すだれを差し出す。

数秒ほどバルタザールはおばあさんと見つめ合ったが、根負けしたのはバルタザールの方だった。

バルタザールは苛々しながらすだれを受け取り、ふわりと浮いて金具に掛けた。


フミが下から見上げる。


「おやあんた、飛べるんだねえ」

「悪魔だからな…」

「もう少し左で」

「命令するな」

「そうそう、そこだよ」


すだれを掛け終えると、フミは満足そうにうなずいた。

だが、それでだけでは終わらない。


「次、蚊帳もお願いね」

「増やすな」


しかし、すでに蚊帳は出されている。

古い蚊帳で、天井の鉤に吊るさなければならないらしい。


「一人だと高いんだよ」

「それを我に言うな」

「お手伝いさんでしょう?」

「違うと言ったはずだが?」


結局、やった。


フミが下で紐を持ち、バルタザールが上で鉤にかける。

蚊帳がふわりと広がり、薄青い布が夏の匂いをはらんで揺れた。


「あらぁすごいわね」

「『あらぁ』ではない」

「夏らしくなったわね」


そのとき、バルタザールの翼が少し畳の上をあおり、風が吹く。

それを見ながら、フミが目を細めて言った。


「それじゃあ、扇風機も出してくれる?」


バルタザールは空中で止まった。


「増やすなと言っただろうが」

「ついでじゃないの」


扇風機は戸棚の上にあった。

箱に入ってはいたが、踏み台では届かない高さである。


「危ないから、いつか誰か来たときに頼もうと思ってたんだけどねえ」

「それで悪魔が来たわけか」

「便利ねえ」

「感想が最悪だな」


バルタザールは箱を抱え上げて、縁側へ降りた。

思ったより重い。


「重いではないか」

「昔のは丈夫だからねえ」


箱を置くと、フミはすぐに次を指さした。


「じゃあ今度はあそこの電球を」

「終わらんのか」

「せっかくだからねえ」

「せっかくで悪魔を使うな」


それでもやった。


電球を替え、扇風機を下ろし、ついでに高い棚の上に置いてあった風鈴まで渡した。

フミは一つ終わるたびに「ああ、さっぱりした」とうなずく。


風鈴を軒先に掛け終えたところで、表の戸口から声がした。


「あら、フミさん」


現れたのは、買い物袋を提げた近所のおばあさんだった。

こちらを見るなり、目を細める。


「あらまあ。手伝いの人?」

「違う!」

「高いとこ届く人よ」

「さらに雑になったな」

「いいねえ、うちも仏間の電球が切れてるのよ」

「やらんぞ!!」


フミはあっさり言う。


「今日はうち」

「順番待ちみたいに言うな」

「あんた、人気だねえ」

「人気商売ではない!」


近所のおばあさんは感心したようにうなずいた。


「でも立派だねえ。黒いし」

「評価軸が適当すぎる」

「羽まである」

「最近の若い人はすごいねえ」

「違う!!」


フミは満足そうにうなずいたあと、ふと思い出したように台所のほうへ引っ込んだ。

少しして戻ってくる。手には小皿が二つ乗った盆があった。


「ほれ、お礼だよ」

「何だ」

「水ようかん」


眼の前に、涼しげな透明の器が差し出される。

小豆色の水ようかんはよく冷えていて、表面にうっすら汗をかいていた。


バルタザールは器を受け取ると、一口食べる。


冷たい。

なめらかで、甘さがしつこくない。夏の暑さにちょうどいい。


「どうだい」

「……悪くない」

「そうかい」


近所のおばあさんがそれを見て、にこにこする。


「じゃあ次、うちでも水ようかん出すよ」

「来るわけがあるか!」

「黒糖まんじゅうもあるよ」

「条件を足すな!」

「フミさん、この人甘いもの好きみたいよ」

「うるさい!!」


その瞬間、バルタザールの足元に赤い線がにじんだ。

バルタザールの外套の裾がふわりと持ち上がった。


「帰還陣だ」

「あらぁ」

「本当にわかっているのか…?」


フミは最後に思い出したように言った。


「そうだ、ついでに納戸の上の箱も」

「もう帰るぞ」

「じゃあうちの仏間の電球は」と、近所のおばあさん。

「帰ると言っているだろうが!」


光が一気に立ち上がる。

蝉の声と、二人のおばあさんの「またねえ」が重なって、景色が反転した。


◇◇


第七支部へ戻ると、リリィが帳簿から顔を上げた。


「おかえり」

「……」


バルタザールは乱暴に椅子へ腰を下ろした。

羽ペンを取り、報告書を書く。


召喚者の願望:夏支度の完了

契約内容:すだれ掛け、蚊帳設置、電球交換、扇風機搬出、風鈴設置、水ようかん

特記事項:高齢者偶発召喚案件では、悪魔であることより高いところに手が届くことが優先される場合がある


リリィはその最後の行を読んだ。


「……脚立」

「違う」

「そうね」


リリィは帳簿を閉じて言った。


「あと、右肩」

「何だ」

「紐」


バルタザールは無言で肩にかかった麻紐をむしり取った。


「最悪だ」

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