第8話 悪魔の契約よりたちが悪い
魔界の午後は、昼休みが終わったのかどうかを確認する間もなく、次の仕事が始まっていることが多い。
溶岩の川はごぽごぽと気だるく泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走る。
髑髏をかたどった街灯は昼でも律儀に青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いていた。
翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも「今が何時で、どこまでが今日の仕事なのか、もう少しでわからなくなる」という顔である。
そんな街の一角に、魔界派遣公社・召喚対応第七支部はあった。
バルタザールは窓口の奥で書類の束をひっくり返し、半端な位置に挟まっていた一枚を引き抜いた。
それを見て、向かいの席のリリィが言う。
「それ、昨日なくしたって騒いでたやつ?」
「なくしてない。埋もれてただけだ」
「それを一般に、なくしたって言うのよ」
リリィは帳簿を閉じ、丸眼鏡の奥からちらりと見た。
「まぁ、見つかったならよかったじゃない」
「見つかったのが、提出済み書類の山の下からだけどな」
「あなた、自分で自分の仕事を遭難させるのやめたら?」
「その言い方は傷つくな」
そのとき、支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
「うわっ」と、バルタザールが肩を跳ねさせる。
壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:解約したいです』
沈黙。
「……何を?」と、バルタザール。
「さあ?」と、リリィ。
足元に転移陣が広がり、紫色の光がじわりとせり上がる。
バルタザールは嫌そうな顔のまま、水晶板を見上げた。
「三分で終わるといいな……」
「その願い、今日も危なそうね」
「縁起でもないこと言うな」
次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。
◇◇
転移の光がほどけた瞬間、まず耳に飛び込んできたのは、妙に明るい電子音声だった。
『ただいまお電話が大変混み合っております。しばらく経ってからおかけ直しください』
ぶつっ。
「……切れた」
バルタザールは顔を上げた。
そこは人間界の、こぢんまりしたワンルームだった。
白い壁。低いテーブル。ソファ。
テーブルの上には、ノートパソコン、スマートフォン、開きっぱなしのブラウザ、それに飲みかけのカフェラテが置いてあった。
ソファの前に座り込んでいた女性が、転移の光に気づいて顔を上げた。
二十代後半くらいだろうか。
髪はひとつにまとめているが、ところどころ崩れている。
女性はバルタザールの姿を見て、一瞬だけ目を見開いた。
バルタザールは外套の裾を払った。召喚された以上、最初の手順は崩さない。
「――我が名はバルタザール! 深淵の焔を統べ、契約と召喚に応じて来た! 願いを述べよ、人の子よ!」
女性はこくりとうなずいた。
「動画配信サービスを解約したいです」
「なんだそんなことか。解約くらいすぐ終わるだろう」
「私もそう思ってたんですが…」
言い淀む女性に、バルタザールは少し眉をひそめた。
「まあいい。まず名を名乗れ」
「加奈です」
「よし。状況を説明してみろ」
加奈はノートパソコンをくるりとこちらへ向けた。
「見たいドラマがあって、一か月だけ入ったんです。昨日、最終話まで見終わったので、今日のうちにやめようと思って、マイページを開いて、会員情報を見て、FAQを見て、ヘルプを見て……」
「多いな」
加奈は画面を指さした。
「ヘルプには“ご契約内容に応じてお手続きが異なります”って書いてあって、出てくるのはプラン変更とか一時停止とかばっかりなんです。で、すごく小さいリンクを押した先で、ようやく解約手続きが見つかったと思ったら」
「思ったら?」
「電話してください、って」
「少し面倒だな」
「しかも平日十八時までです」
「今何時だ」
「十七時十四分です」
「のんびりしてる場合じゃないな」
◇◇
「もう一回かけろ」と、バルタザールが促す。
加奈がスピーカーフォンにして電話をかける。
発信音。
数秒の無音。
それからまた、あの明るい声。
『ただいまお電話が大変混み合っております。しばらく経ってからおかけ直しください』
ぶつっ。
「うわ、切れた!」
「何回やってもこうなんです…」
二回目。切れる。
三回目。切れる。
四回目。切れる。
バルタザールは腕を組み直した。
「何回かけさせるんだ」
「今ので五回目です」
「お前、よく心折れてないな」
「折れかけです」
六回目で、ようやく変化があった。
『お電話ありがとうございます。このまましばらくお待ちください』
「あ」と、加奈。
「つながったか」
保留音が流れ始める。
明るい。
やけに明るい。
一分。
三分。
五分。
「腹立つな、この音」
「わかります」
「何でこんな陽気なんだ。煽ってるだろ、これ」
七分ほどで、ようやく人の声が出た。
『お電話ありがとうございます。お問い合わせ内容をお伺いします』
加奈が身を乗り出す。
「解約したいんですけど」
『かしこまりました。まず、ご登録のお電話番号を――』
番号。
名前。
生年月日。
メールアドレス。
契約プラン。
視聴端末。
「多いな」と、バルタザールがぼそっと言う。
加奈は小さくうなずく。
ようやく終わったと思った次の瞬間、相手が言った。
『ありがとうございます。こちらは視聴サポート窓口となりますので、担当へおつなぎいたします』
「違うのかよ」
『少々お待ちください』
保留音。
「何で最初に解約担当に繋がないんだ」
「私、最初に『解約したい』って言いましたよね?」
「言ったな」
「じゃあ何でですか」
「知らん。向こうに聞け」
十分後。まだ保留。
十五分後。まだ保留。
十七分を過ぎたあたりで、保留音がぶつりと途切れた。
『お待たせしております。混雑のため、このままおつなぎできません。恐れ入りますが、お時間をおいておかけ直しください』
ぶつっ。
「今のは……」
「切られました……」
「ここまで来て、また切るのか」
「そうみたいです」
「最悪だな」
加奈がWebページを見て、ふと画面を止めた。
「あ、新規入会の番号がある」
「今は解約したいんだろ」
「でもさっきの番号だとつながらなかったじゃないですか。試しに」
「かけるのかよ」
発信音。
一発でつながった。
『お電話ありがとうございます。新規ご入会窓口です』
「早っ」と、バルタザール。
加奈が恐る恐る言う。
「解約したいんですけど」
『恐れ入りますが、こちらは新規ご入会窓口となりますので、解約窓口の方へお電話をお願いいたします』
結局電話は切られた。
「こっちはすぐ出るんですね……」
「差が露骨すぎるだろ」
◇◇
再挑戦、七回目。
今度は視聴サポートから切れずに、そのまま別の担当につながった。
相手はやけに穏やかな声で言った。
『ご解約をご検討中とのことですが、差し支えなければ理由をお伺いしてもよろしいでしょうか』
「見たい動画が見終わったからです」と、加奈。
『左様でございますか。それでは、月額を抑えたライトプランはいかがでしょうか』
バルタザールが顔を上げた。
「は?」
「いや、やめたいんですけど」と、加奈。
『長期ご利用が難しい場合、一時停止というお手続きもございまして』
「だから、やめたいんです」
『お気に入り作品や視聴履歴を保持したままお休みいただけます』
「いらないです」
『今なら二か月――』
「いらないって言いましたよね?」と、加奈の声が少し強くなる。
バルタザールが横でうなずいた。
「いいぞ」
「よくないです、すごい疲れてきました」
『……かしこまりました。それでは、受付を進めさせていただきます』
「これで解約できる……」
「そうだといいが、な」
◇◇
ようやく、本当に話が進んだ。
加奈は本人確認に答え、契約プランを確認し、月末まで視聴可能であることの説明を受けた。
履歴が残るかどうかの説明も聞いた。
このへんまで来ると、もうバルタザールも口を挟まない。怒るのにも体力が要る。
そして、ついに担当者が言った。
『それでは、お電話での受付は完了となります。最後に、お客様ご自身でマイページよりアンケートのご回答と、最終お手続きをお願いいたします』
沈黙。
「……は?」と、加奈。
「……は?」と、バルタザール。
『えー、マイページ上部の“各種お手続き”より、“登録情報”へ進んでいただき、その中の“ご契約内容の確認・変更”から――』
「これで終わりじゃないのか!?」と、バルタザール。
『その後、"解約に関するご案内"の下部にございます灰色のボタンを押していただき、アンケートへご回答後、"解約を確定する"ボタンを押していただきますと、解約されます』
「今までの電話は何だったんですか!?」と、加奈。
『ご本人確認と受付です』
「まだ解約そのものは終わってなかったんですか!?」
『以上でお電話でのご案内は終了となります。ありがとうございました』
通話が切れた。
加奈はスマホを見た。
バルタザールもスマホを見た。
「……まだ続くのかよ」
「そうみたいです」
そこからは、電話口で読み上げられた手順をそのままたどるだけだった。
各種お手続き。
登録情報。
ご契約内容の確認・変更。
そして、そのページに、さっきまでは見えていなかった小さな灰色のボタンが出ていた。
「出たな」
「電話のあとで出るんですね」
押した先にはアンケート。
解約理由をお聞かせください。
料金が高い。
利用頻度が低い。
見たい作品がない。
その他。
「その他だな。『たちが悪い』って書け」
「流石に書けないですよ」
回答。
確認。
さらに確認。
最後に、やっと出てきた。
[解約を確定する]
マウスをクリックする。
読み込み。
数秒の沈黙。
それから、画面が切り替わる。
解約手続きが完了しました
加奈はしばらく画面を見つめていた。
それから、机に突っ伏した。
「終わった……」
「長かったな……」
「最初からこれを出してくれればよかったのに……」
「電話、保留、たらい回し、引き留め、最後に灰色の小さいボタンだぞ」
「途中で本気で“もう今月分は仕方ないか”って思いました」
「そこを狙ってるんだろうな」
「たった一か月だけのつもりだったのに」
「悪魔の契約よりたちが悪いぞ、これ」
加奈は顔だけ上げた。
「そんなにですか」
「こっちは少なくとも、欲しいなら契約、いらないなら終わりだ。こんな回りくどくはしない」
「それはちょっと安心します」
「安心するな。悪魔と比較されてるんだぞ」
◇◇
加奈は立ち上がり、冷蔵庫から小さな箱を持ってきた。
「これ、対価です」
「うむ」
箱の中には、レモンケーキが二つ入っていた。
焼き色は控えめで、上に薄くアイシングがかかっている。
バルタザールは一口食べて、目を細めた。
「……うまい」
「よかった」
「少し酸味があるな」
「さっぱりしていいですよね」
加奈はようやく深く息を吐いた。
「助かりました」
「まあな」
「もう気軽に無料体験って押しません」
「そうしろ。あと、次からは入る前に退会方法を見ろ」
「覚えておきます」
足元に、帰還陣がじわりと開く。
加奈は姿勢を正し、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うむ」
次の瞬間、バルタザールの姿は光に呑まれた。
◇◇
第七支部へ戻ると、リリィが帳簿から顔を上げた。
「おかえり。何だったの?」
「動画配信の解約」
「簡単そうじゃない」
「それが、そうでもないぞ。まず、電話が繋がらない」
「あら」
「つながったと思ったら、やめたいって言ってるのに軽量プランだの一時停止だのすすめてくる」
「そう…」
「最後に、解約確定はマイページからアンケート回答をしないとできない」
「最悪ね」
「最悪だった。悪魔の契約よりたちが悪い」
バルタザールは席につき、羽ペンを取った。
召喚者の願望:動画配信サービスの解約
契約内容:電話窓口突破、担当部署到達、引き留め突破、最終確認手続き、レモンケーキ二個
特記事項:悪魔の契約よりたちが悪い
リリィはその一文を見て、ふっと笑った。
「悪魔の契約も人間界のサブスク解約を参考にしてみるのはどう?」
「寄せるな」
「まず三十分つながらなくして」
「やめろ」
「次に担当が違うって回して」
「やめろ」
「やっと解約できると思わせて、軽量呪詛プランをおすすめして」
「やめろって言ってるだろ」
「最後に、解除の誓句だけ別に唱えさせて」
「最悪の知恵を持ち帰るな!」
リリィは肩をすくめた。
「でも、引き留めとしては優秀なんじゃない?」
「そんな感じの悪い優秀さ、悪魔に持ち込むな!」
第七支部には、しばらくバルタザールの声と、リリィの小さな笑い声が響いていた。




