第5話 好きピに送る一文で召喚するな
魔界の夕方は、だいたい人間界より理不尽だ。
溶岩の川はごぽごぽと赤黒い泡を噴き、黒い空には細い稲妻が縫うように走る。
髑髏をかたどった街灯が青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いていた。
翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも「今日はもう帰っていいだろ」と訴えている。
そんな街の一角、魔界派遣公社・召喚対応第七支部では、下級悪魔バルタザールが、書類の山に半分埋もれていた。
机の上には、未処理の報告書が三束。 その脇には、インク壺と羽ペンと、誰が置いたのかよくわからない「クレームは宝」と書かれた標語板。 宝なわけがない、とバルタザールは毎回思っている。
「なあ」と、彼は机に頬をつけたまま言った。
「最近の人間界、悪魔の使い方おかしくないか」
向かいで帳簿を閉じていたリリィが、丸眼鏡の奥からちらりと見る。
「最近に限らないでしょ」
「いや、前はもっとこう……野望とか、呪いとか、背徳とかあっただろ」
「今もあるんじゃない?」
「あるなら俺の担当に回してくれ」
リリィはくすりともせず、書類を一枚めくった。
「あなた、生活支援案件を引き寄せる体質なんじゃない?」
「呪いみたいに言うな」
「実際、ちょっと呪いっぽいし」
「否定しろよ」
そのときだった。
支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
「うわっ」と、バルタザールが椅子ごと跳ねる。
「来た!」
壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たぶん簡単』
「だからその文面がいちばん怖いんだっての!」と、バルタザールは即座に叫んだ。
リリィはいつものように、分厚い現地対応マニュアルを差し出す。
「はい、現地対応マニュアル」
「またそれか」
「何も持たずに行くよりは、気分の問題になるでしょ」
「気分でどうにかなる職場なら、とっくに心を閉ざしてないんだよ!」
足元に転移陣がじわりと広がり、紫色の光が床の罅を這う。
ぬめりのある魔力が靴底にまとわりつき、内臓の位置が少しずれるような嫌な感覚が走った。
バルタザールは肩を落とし、冊子を脇に抱える。
「……せめて、人間界の常識で処理できる範囲であってくれ」
次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。
◇◇
転移の光がほどけた瞬間、鼻を刺したのは、油と香水と甘いシロップが混ざったような匂いだった。
「……ん?」
目を開ける。
そこは人間界の、妙に明るい個室だった。
紫とピンクの照明。壁一面のモニター。テーブルの上には食べかけのポテト、メロンソーダ、スマートフォン二台、そしてラメ入りのペンで描かれたらしい、やたらキラキラした召喚陣。
「……カラオケ?」
バルタザールは一度だけ瞬きをした。
召喚陣の向こうにいたのは、制服のスカートを短く着崩し、ルーズソックスを履いたギャルだった。
髪はふわふわに巻かれ、まつ毛はばっちり上がっている。爪もきらきらしている。
だがその見た目に反して、表情は真剣そのものだった。
彼女はバルタザールの姿を見るなり、ばっと両手を合わせた。
「来た! え、マジで来た! やば!」
「来た、じゃないんだよ」と、バルタザールは即座に返した。
「呼んだのそっちだろ」
それでも彼は胸を張る。悪魔として威厳を示す、大事な場面だ。
「我が名はバルタザール! 深淵の焔を統べ、絶望の帳をまとい、千の契約を――」
「好きピに送る文、考えて」
「は?」
沈黙。
遠くの部屋から、誰かの音程の外れたバラードがかすかに響いていた。
バルタザールは眉間を押さえ、ゆっくり聞き返す。
「……今、なんて?」
「好きピに送る文、考えてほしいんだけど」
「用件のスケールが小さすぎるだろ!」
「いや小さくないし。うちの中では今これが世界の終わりなんだけど」
「世界の終わりが軽いな!?」
ギャルはテーブルの上のスマホをひったくるように持ち上げ、画面をバルタザールに突きつけた。
「これ見て。今日、好きピとちょっとしゃべれて」
「好きピって何だ」
「好きな人」
「略すな、感情を」
「で、そのあと『おつかれー!』って送ろうと思ってるんだけど」
「送ればいいだろ」
「そのあと何つけるかで悩んでんの!」
「知らんがな!」
彼女はそこで、はっとしたように胸元へ手を当てた。
「あ、うちミユ」
「今かよ」
ミユはバルタザールのツッコミを無視し、心底深刻な顔で言った。
「『おつかれー!』だけだと軽すぎる気がするじゃん?」
「そうか?」
「でも『今日ありがと!』だと、ちょい重いかもじゃん?」
「そうか?」
「で、『また話そー!』だと圧ある気するし」
「そうか?」
「『また話せたらうれしー!』は、もっと重くない?」
「知らん」
バルタザールは頭を抱えた。
「なんで悪魔が文面の温度調整しなきゃならないんだよ!」
「人間に相談したら秒でスクショ回るし」
「友達を信用しろよ」
「信用してるけど恋バナは別」
「面倒くさい文化だな……」
ミユはぐい、と顔を近づけた。
「お願い。対価払うから」
「へえ」と、バルタザールは腕を組む。
「何を差し出すんだ?」
「限定の桜フラッペと、高いやつのマカロン」
「軽いな!」
そう言いながらも、彼の耳はぴくりと動いた。
「……ちなみに、マカロンは何味だ」
「ピスタチオとラズベリー」
「くっ」
悪魔は、焼き菓子だけでなく映える菓子にもわりと弱い。
◇◇
「状況を整理する」と、バルタザールは不本意そうに椅子へ座った。
「相手は何者だ」
「同じ学年」
「どういう関係だ」
「クラスは違うけど、友達の友達」
「話した回数は」
「ちゃんと話したのは三回くらい」
「少なっ」
「でも目は何回か合ってる」
「そこを加点要素にするな」
ミユはスマホを握りしめながら、早口でまくしたてた。
「この前は廊下ですれ違ったとき、『おはよ』って言ってくれたし」
「おう」
「で、今日たまたま同じカラオケ来てて」
「偶然か?」
「半分くらい」
「怖いな」
「で、ちょっとしゃべれたの」
「それで」
「ここで送る一文をミスると、全部終わる気がする」
「まだ始まってもいないだろ」
ミユは真顔で首を振った。
「始まる前がいちばん大事なの」
「面倒くさいな、人間の恋愛」
バルタザールはスマホ画面をのぞき込んだ。
トーク画面はまだ白く、入力欄には『おつかれー!』だけが入っている。
その短い一文の後ろで、ミユの親指が落ち着きなく震えていた。
「候補はあるのか」と、バルタザール。
「ある」
「言ってみろ」
ミユは咳払いをひとつして、指を折りながら並べ始める。
「『おつかれー! 今日は話せてうれしかった』」
「いいんじゃないか」
「『おつかれー! 今日ありがと』」
「無難だな」
「『おつかれー! また話そー』」
「それもいい」
「雑すぎない!?」
「知らん!お前が気にしすぎなだけだ!」
ミユはテーブルに突っ伏した。
「むり……恋愛むり……」
「そのくらいで召喚するなよ」
「だって送信ボタン押すの怖いし!」
「世界征服より?」
「今はそれより」
「比較対象がおかしいんだよ!」
◇◇
しばらくして、バルタザールは腕を組んだまま、低くうなった。
「お前、何がしたいんだ」
「は?」
「この一文で、何を狙ってる」
「え」
「好意を伝えたいのか。会話を続けたいのか。とにかく存在を残したいのか」
「……えーと」
「目的が曖昧だから、文章が決めきれないんだよ」
ミユはぽかんとしていたが、やがて少しだけ真顔になった。
「……会話、続いたらうれしい」
「なるほどな」
「でも露骨なのはやだ」
「贅沢だな」
「だって重いって思われたら死ぬし」
「死にはしない」
「する」
「しない」
バルタザールはスマホを指差した。
「なら、『今日しゃべれてよかった』でも、『また話したい』でもない。返しやすさを優先しろ」
「返しやすさ」
バルタザールは少し考え、渋い顔で言った。
「会話のきっかけになった何かはなかったのか」
「……あ、曲入れるとき、あっちがリモコン取ってくれた」
「それだ。『おつかれー! さっきは助かった笑』でいいだろ」
ミユは入力しかけて、すぐ止まる。
「いや待って。『助かった』って、なんか変じゃない?」
「変か?」
「ちょい他人行儀じゃない?」
「難しいな、お前」
彼女はまた別案を出す。
「『おつかれー! さっきリモコンありがと笑』」
「無難だな」
「でも無難すぎ?」
「無難でいいだろ」
「いやでも、無難って刺さらなくない?」
「刺す必要あるか?」
ミユは唇を尖らせた。
「バルたんってさ」
「おい何だバルたんって」
「恋愛したことないでしょ」
「悪魔に何を求めてるんだ」
「なんか、欲望とか誘惑とか得意そうじゃん」
「それと現代恋愛の文面調整は別分野だ!」
そこでミユのスマホが、ぶぶっと震えた。
「ひっ」と、ミユが固まる。
「どうした」
「友達から。『送れた?』って来た」
「外堀が埋まってるな」
「この子たち、見届け人みたいな感じで別室いるから」
「最悪の環境だな……」
ミユは顔を覆った。
「むり、やっぱ送れない」
「ここまで来てか」
「なんか全部変な気がしてきた」
「人間、直前で弱くなりすぎだろ」
バルタザールはため息をつき、テーブルに指先をとんとんと打ちつけた。
紫の小さな火花が、爪先でぱちりとはじける。
「……なら、飾るな」
「え?」
「お前が言いたいのは、『しゃべれてうれしかった』じゃなくて、『話せてよかった、また話したい』だろ」
「う、うん」
「なら、それをそのまま送れ」
バルタザールは、心底不本意そうに言った。
「『おつかれー! さっき話せてよかった笑 また学校でも話そー』」
「……お」
「これ以上は知らん」
「え、ちょっと待って」
「何だ」
「それ、ちょうどいいかも」
「ほんとか?」
「うち単独だと一生出なかった」
「悪魔の知恵の使い道が終わってるな……」
ミユは画面を見つめたまま、親指を送信ボタンの上で止める。
押さない。
止まる。
三秒。
五秒。
十秒。
「長い!」と、バルタザールが叫んだ。
「そのボタンひとつ押すのに何分かける気だ!」
「いやでも、送った瞬間全部始まるじゃん!」
ミユは息を吸い、吐き、目をぎゅっと閉じた。
「……よし」
「おう」
「いく」
「おう」
「いく、ほんとに」
「早く押せ!」
ぴっ。
送信。
トーク画面に、吹き出しがひとつ現れた。
沈黙。
ミユが固まる。
バルタザールも、なぜかつられて画面を見つめる。
カラオケの明るい照明がテーブルに反射し、溶けかけた氷がグラスの中でからんと鳴った。
「……返事、いつ来るんだ」
「知らない」
「普通どれくらい待つ」
「相手による」
一分。
二分。
三分。
「遅い」と、ミユが言う。
「まだ三分だぞ」
「三分って長いし」
「瞬き二回分だろ」
「恋愛は時間の流れ違うの!」
その瞬間だった。
ぶぶっ。
スマホが震えた。
ミユの肩が跳ねる。 バルタザールの翼の先までぴくりと動く。
「来た」
「見ろ」
「むり」
「なんでだよ」
「怖い」
「いいから見ろ!」
ミユは半泣きで画面を開いた。
そこには、短い一文が表示されていた。
『こちらこそー! また話そ笑』
沈黙。
次の瞬間、ミユがソファの上で跳ねた。
「来たぁぁぁぁ!!」
「うるさっ!」
「え、待って、『また話そ』って来たんだけど!?」
「来たな」
「笑もついてる!」
「そうだな」
「これ、よくない!?」
「たぶん悪くはないんじゃないか!?」
「やばい、やばい、無理、しぬ!」
「だから死なない!」
ミユは両手でスマホを抱え、きゃあきゃあ小さく叫びながら、その場でばたばたしている。
まつ毛の先に涙がにじんでいるのに、口元は満面の笑みだった。
バルタザールは呆れながらも、ふっと肩の力を抜いた。
◇◇
しばらくして、ミユは落ち着きを取り戻し、テーブルの端に置いてあった小箱とカップを差し出した。
「これ、対価」 「おう」
箱を開ければ、つややかなマカロンがきれいに並んでいる。
淡い緑のピスタチオ、鮮やかな赤のラズベリー、薄桃色の桜クリーム。
表面はつるりと丸く、間にはさんだガナッシュはやわらかく艶めいていた。
その横には、淡い桜色のフラッペが入った透明カップがある。ホイップの上には細かな桜色のチップが散り、ストローのまわりに溶けかけた甘い香りがふわりと漂っていた。
バルタザールはごくりと喉を鳴らす。
「……ちゃんと両方あるのか」
「言ったじゃん」
「駅前の人気店のやつだから」
「お前、恋愛で命削ってるくせに金は使うんだな」
「こういうときのために貯めてるの」
ひとつ口に入れる。
さく、と表面が割れ、中のクリームが舌の上でとろりとほどけた。
ピスタチオの香ばしさと、やわらかな甘みがふわりと広がる。
「うま……」
「でしょ」
バルタザールはそのまま桜フラッペのストローにも口をつけた。
冷たい甘さが喉を滑り、後からほんのり塩気のある桜の香りが抜ける。
「……こっちもうまい」
「よかった。バルたん、甘いのちゃんと喜ぶタイプなんだ」
「その呼び方はやめろ」
「でも似合ってるし」
「似合わなくていい」
ミユはけらけら笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、助かった」
「まあ、桜フラッペとマカロンのためにだからな」
「え?」
「送らずに終わられたら、対価をもらえないだろ」
ミユは一瞬だけ目を丸くして、それから、笑った。
「じゃ、今回はバルたんちょい有能ってことで」
「『ちょい』をつけるな」
「満点あげると調子乗りそうだし」
「誰のせいでここにいると思ってる」
ちょうどそのとき、バルタザールの足元に淡い紫の帰還陣が浮かび上がる。
契約終了だ。
「じゃあね」と、ミユは言った。
「二度と呼ぶな」と、バルタザール。
「えー、次は返信の間隔で迷うかも」
「人間に相談しろ!」
「でも人間、すぐ『脈ありじゃん』って雑に言うし」
「それでも悪魔よりは適任だ!」
紫の光が強まる。
カラオケの照明も、溶けた氷も、ポテトの油の匂いも、少しずつ遠のいていく。
最後に、ミユがスマホを胸に抱えたまま笑った。
「ありがと。好きピに送る一文、地獄みたいに悩んだけど、ちょっと楽しかった」
「その地獄に悪魔を巻き込むな!」
その叫びとともに、バルタザールの姿は光の中へ消えた。
◇◇
魔界派遣公社・召喚対応第七支部。
転移陣から戻ってきたバルタザールを見て、リリィが顔を上げた。
「おかえり。今度は何だった?」
「メッセージ」
「……は?」
「好きな相手に送る一文」
「そんなことある?」
バルタザールは椅子にどさりと座り、魂が半分抜けた顔で報告書を見つめる。
記入欄にはこうある。
召喚者の願望:
契約内容:
特記事項:
「なんて書くんだよ、これ……」
震える手で羽ペンを取り、彼は書き込んだ。
召喚者の願望:好きピへの初手メッセージ最適化
契約内容:文面調整、送信前精神安定補助、桜フラッペ一杯とマカロン一箱
特記事項:既読は呪いより意味がわからない
それをのぞき込んだリリィが、ついに吹き出した。
「だめ、面白すぎ」
「笑うな……」
「で、どうだったの。脈あり?」
「知らん」
「そこはわからないのね」
「人間の恋愛、情報のわりに確定要素が少なすぎるんだよ!」
リリィは肩を震わせながら、机の上の空箱をつついた。
「でも、だいぶ働いたみたいじゃない」
「働きたくて働いたんじゃない」
「はいはい」
そのときだった。
支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、またしても無慈悲に鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
「は?」と、バルタザール。
「早いわね」と、リリィ。
壁の水晶板が淡く光り、機械音声が流れる。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応を検出。召喚者名、ミユ。内容:ハートひとつの意味を確認したい』
沈黙。
バルタザールはゆっくりと天井を見上げた。
「恋愛って滅びないのか……」
「がんばって、バルたん」と、リリィが言った。
「お前まで言うなァ!!」
バルタザールの叫びだけが、薄暗い支部の中に虚しくこだました。




