第4話 悪魔、ぬいぐるみを救出する
魔界の午後は、昼休みがあってないようなものだ。
溶岩の川はごぽごぽと気だるく泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走る。
髑髏をかたどった街灯は昼でも律儀に青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いていた。
翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも「休憩に入った記憶はあるのに、なぜかもう仕事をしている」という顔である。
そんな街の一角に、魔界派遣公社・召喚対応第七支部はあった。
「……最近、案件の規模が小さくなってないか」
窓口の奥で、下級悪魔バルタザールは書類の束をめくりながらぼやいた。
机の上には、ここ数日の報告書が積まれている。
召喚者の願望:生活の立て直し(たぶん)
契約内容:可燃ごみ二袋、不燃ごみ一袋、月見うどん一食
特記事項:プリンはうまかった
召喚者の願望:客室内怪異の沈静化
契約内容:硫煙ネズミの住み分け交渉、温泉まんじゅう一箱
特記事項:食いかけは対価に含めない
召喚者の願望:夕飯の最適解の決定
契約内容:豆腐入り鶏だんご和風あんかけ一式、献立メモ作成、クッキー缶一個
特記事項:『何でもいい』は呪詛に近い
「最後のやつ、今見てもじわじわくるわね」と、向かいの席でリリィが言った。
「笑うな」と、バルタザールは顔をしかめた。
「こっちは一応、『災厄の黒翼』だぞ」
「最近は『台所の黒翼』って感じだけど」
「定着させるな」
そのときだった。
支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
「うわっ」と、バルタザールが肩を跳ねさせる。
「今度は何だよ!」
壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たすけて』
沈黙。
「雑!」と、バルタザールは即座に叫んだ。
「情報が少なすぎるだろ! 『たすけて』で何がわかるんだよ!」
「でも切実そうではあるわね」と、リリィ。
「それはそうだけどな」
「はい、現地対応マニュアル」
バルタザールは冊子を受け取りながら、水晶板をにらんだ。
足元に転移陣が広がり、紫色の光がじわりとせり上がる。
内容:たすけて
「……こういう簡素な案件名ほど、ろくでもないんだよな」
「その勘はだいたい当たってるわね」と、リリィが言う。
「うるさい!」
次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。
◇◇
転移の光がほどけた瞬間、鼻をくすぐったのは、洗いたてのタオルみたいなやわらかい匂いだった。
「……ん?」
バルタザールは一度だけ瞬きをした。
そこは人間界の、明るい居間だった。
窓からやわらかな午後の日差しが差し込み、床には色とりどりのジョイントマット。
低いテーブル。絵本の棚。転がった積み木。
壁際には大きめのチェストがあり、その前の床には、クレヨンで描いたらしいいびつな円がある。
星の先には、なぜかうさぎといちごのシールが貼られていた。
「……召喚陣にかわいさを足すな」と、バルタザールは第一声で言った。
その直後だった。
「ももちゃああああん……!」
部屋の隅から、切羽詰まった泣き声が飛んできた。
バルタザールが振り向くと、小さな女の子がチェストに半分しがみつくみたいにうつ伏せになり、腕をすき間に突っ込んでいた。
ふわふわした髪は乱れ、ほっぺは涙でぐしゃぐしゃ、鼻まで赤い。
いちご柄のTシャツの肩はずり落ちかけ、片足の靴下はいつのまにか半分脱げている。
「とれないぃ……っ、ももちゃん、とれないぃ……!」
「うわっ」と、バルタザールは思わず一歩引いた。
「泣いてる! しかも全力で!」
女の子はそこでようやく彼の存在に気づいたらしい。
涙で濡れた顔を上げ、黒い翼と角を見て、一瞬だけぴたりと固まる。
「…………」
バルタザールも固まる。
「…………」
次の瞬間、女の子はさらに大きな声で泣き出した。
「こわいのきたぁぁぁ!!」
「だよな! そりゃそうだよな!」と、バルタザールは叫んだ。
「でも呼んだのそっちだろうが!」
女の子はしゃくり上げながら、必死で首を振った。
「ちがうもん……まほうのひと、よんだもん……」
「結果として来たのは悪魔なんだよ」
「やだぁ……でも、ももちゃんぃ……」
「泣くのか頼るのかどっちかにしろ!」
女の子はしばらく「ももちゃん」「とれない」「やだ」を繰り返しながら泣いていたが、やがて鼻をすすり、ひっくひっく言いながらバルタザールを見た。
「……とって」
「やっと本題に入ったな」
バルタザールはしゃがみこみ、チェストのすき間をのぞきこんだ。
壁と家具のあいだの細い暗がりに、たしかにうす桃色の何かが見える。
長い耳の先だけが、かろうじて引っかかっていた。
「ぬいぐるみか」
「うさぎさん……ももちゃん……」
「名前ついてるんだな」
女の子はぐずぐず泣きながらうなずく。
「いっしょに、ねるの……」
「なるほどな」
「まま、ごみ、だし……」
「親はいないのか」
「すぐ、くる……でも、そのまえに、もどすの……」
「なんでその前に」
「おちたら、かなしいから……っ」
四歳児なりの理屈だった。
母親がごみを出しに行っている、ほんの数分。
そのあいだに大事なぬいぐるみが落ちた。
世界は終わっていないが、本人の中では終わりかけている。
バルタザールは小さく息をついた。
「……わかった。取ってやる」
「ほんと……?」
「ほんとだ。ただし少し泣きやめ」
「むり」
「即答するな」
◇◇
「まず、名前」と、バルタザールは言った。
「なまえ?」
「お前のだよ。召喚者の確認は必要なんだ」
「……まい」
「まい」
「まい、よんさい……」
「よく言えた」
「ひっく……」
まいはまだ泣き止んではいなかったが、さっきよりは少し落ち着いていた。
涙はぼろぼろ落ちているし、声もところどころ裏返る。
それでも、一生懸命に話そうとしているのがわかる。
「我が名はバルタザール!」と、バルタザールは胸を張った。
「深淵の焔を統べ、絶望の帳をまとい、千の契約を――」
「バルしゃーるさん……」
「惜しいな」
「ももちゃん、とって……」
「自己紹介の最後まで待て」
まいはひっくひっくしながら、ぬいぐるみの見えるすき間を指差した。
「さっきまで、ここで、おすわりしてたの」
「ふむ」
「でも、おちたの」
「ふむ」
「で、て、のばしたら、とれなくて……」
「ふむ」
「ももちゃん、ひとりで、くらいところ……」
「それ以上言うな。情景がつらくなる」
バルタザールはチェストに手をかけた。
「よし。動かせば――」
「だめっ!」
まいがすぐに叫んだ。
「は?」
「ままが、これ、うごかしちゃだめって、いってた!」
「今は非常時だろ」
「でも、だめっ」
「規律が強いな、お前」
「あと……」と、まいは鼻をすすりながら続けた。
「ももちゃん、みみ、いたいの、だめ」
「耳を引っ張るなってことか」
「やさしく」
「注文が多いな…」
バルタザールは床に片膝をつき、すき間へ腕を入れてみた。
だが、悪魔の手は人間の四歳児よりだいぶ大きい。
途中でつっかえて、奥まで届かない。
「くっ……狭い」
「とれる?」
「静かにしてろ」
「とれる?」
「だから静かに――」
「ももちゃん、さみしそう」
「情緒を足すな!」
バルタザールは翼の先を細くして差し入れてみた。
だが羽がふわふわして、余計に邪魔である。
「なんなんだこの家具のすき間は」と、彼は低くうめいた。
「人間界は悪魔の腕の長さを考慮して設計されてないのか」
「ばるしゃーるさん」
「何だ」
「ももちゃん、こわくない?」
「俺よりは怖くないだろ」
「でも、まっくら」
「……たぶんな」
まいはその一言で、また目に涙をいっぱいためた。
「やっぱり、かなしい……」
「泣くな泣くな。増水するな」
バルタザールは額を押さえた。
世界征服を企む王を前にしたときよりも、どうしていいかわからない。
泣き止ませる魔法なんて使ったら母親が戻ってきたとき説明が面倒だ。
「……よし」と、彼は低く言った。
「力技はやめだ」
「うん……」
「代わりに、もっと細いのでやる」
「いたくない?」
「いたくないようにやる」
「やさしく?」
「やさしくだ」
彼の指先に、淡い紫の火花がともる。
そこから、糸みたいに細い影がするすると伸びた。
まるで小さな黒い手のように床を這い、チェストのすき間へ入りこんでいく。
まいは涙で濡れた顔のまま、息を止めて見つめていた。
「……わるいの?」
「悪魔の力だ」
「こわいの?」
「本来はな」
「いまは?」
「今は、ぬいぐるみ回収用だ」
「ふーん……」
影の手は、ももちゃんの耳ではなく、胴の下へ回りこむ。
だが、そこでぴたりと止まった。
「どうしたの」と、まいがすぐ聞く。
「引っかかってる」
「えっ」
「タグか何かが、チェストの脚に挟まってる」
「ももちゃん……!」
まいの目にまた涙がぶわっと盛り上がる。
バルタザールは即座に言った。
「泣くな!無理とは言っていない!」
「ひっく……」
「今のは報告だ。敗北宣言じゃない」
「ほうこく……」
彼は床に腹ばいになる勢いで顔を寄せた。
暗いすき間の奥で、桃色のうさぎがたしかに挟まっている。
しかも、耳のリボンがチェストの裏の金具にひっかかっていた。
「なんでそんな細部にトラップがあるんだよ」
「ももちゃん、いたい?」
「引っ張ったら痛いな」
「やさしく!」
「わかってる!」
バルタザールは舌打ちし、指先にもう一筋、別の影を生み出した。
一本はうさぎの体を支え、もう一本は金具に引っかかったリボンをほどく。
まるで極細の針仕事だ。
「悪魔に裁縫技能まで求めるなよ……」
「がんばって……」
「応援はいいが泣くな」
影の先が、ようやくリボンを外した。
同時に、支えていた影がうさぎの胴を少しずつこちらへ引き寄せる。
ずる、ずる、ずる。
桃色の耳が見え、丸い頭が現れ、最後にふわふわした足がすき間から抜けた。
「――取れた」
一拍の沈黙。
次の瞬間、まいがぱっと顔を輝かせた。
「ももちゃあああん!」
さっきまでの絶望が嘘みたいな勢いで、まいはうさぎのぬいぐるみをひったくるように抱きしめた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を、そのふわふわの頭に埋める。
「よかったぁ……」
まいはももちゃんをぎゅうぎゅう抱きしめたまま、しゃくりあげながら何度も言った。
「ごめんね……ごめんね……」
「ぬいぐるみに謝るの、ちゃんとしてるな……」
◇◇
そのとき、玄関のほうで鍵の音がした。
「まま!」
まいが顔を上げる。
バルタザールは反射で床を見た。
帰還陣はまだ出ていない。契約は終わったはずだが、召喚者の安心が完全に落ち着くまでは切れないのかもしれない。
居間の入口に、若い母親がごみ袋用のトングを持って現れた。
そして、目の前の光景にぴたりと止まる。
桃色のうさぎを抱えた泣き顔の娘。
その前にしゃがみこんだ、黒翼で角のある悪魔。
「…………えっ」
「だよな」と、バルタザールが言った。
「普通はそうなるよな」
母親は数秒固まり、それから娘のほうへ駆け寄った。
「まい!? どうしたの、泣いて――」
「ままぁ……ももちゃん、おちたの……」
「えっ、ももちゃん?」
「バルしゃーるさんが、とってくれたの」
「誰さん?」
母親の視線が、そろそろとバルタザールへ戻る。
バルタザールは面倒くさそうに片手を上げた。
「バルタザールだ」
「バルタザールさん……?」
「召喚に応じて来た」
「召喚!?」
「それはそうなるよな」と、バルタザールは二回目を言った。
母親は床のクレヨンの円を見た。
うさぎといちごのシールつきの、妙に本気っぽい図形である。
それから絵本棚の最上段に開いたまま差さっている一冊を見て、額を押さえた。
「……あの子、絵本のまねを」
「たぶんな」と、バルタザール。
「最近の人間界、子ども向けのものに何が混ざってるんだ」
まいはももちゃんを抱えたまま、母親の服を引っ張った。
「まま、ももちゃん、まっくらだったの」
「そうだったのね」
「それで、まほう、した」
「した結果が悪魔だ」
「とってくれた」
「……まあ、そこはそうだな」
母親は深々と頭を下げた。
「本当に、すみません。助けていただいてありがとうございました」
「礼は受け取る」と、バルタザールは言った。
「だが――」
彼が言うより先に、母親はまいの前にしゃがみこんだ。
「まい」と、母親は静かに言った。
「困ったからって、知らないことを勝手にやったらだめ」
まいはぴくっと肩をすくめる。
「……うん」
「ももちゃんが大事なのはわかる。でも、こういうのはだめ」
「……うん」
「次に何かあったら、まずママを呼ぶの」
「うん……」
「泣いてもいいけど、変な丸は描かない」
「へんなまる……」
「そう。へんなまる」
まいはももちゃんを抱きしめたまま、しゅんとうつむいた。
さっきまでの大泣きとは別の、ちゃんと叱られているときの顔である。
バルタザールは腕を組み、少しだけうなずいた。
「そういうことだ」と、彼は言った。
「まず人間を呼べ。悪魔は最後の最後だ」
「はい……」と、母親。
「ほんとに最後まで行かないようにします」
「それがいい」
まいがそろそろと顔を上げる。
「でも、ももちゃん、たすかった」
「それはよかった」と、母親は言って、娘の頭を撫でた。
「でも、たすけてもらったから、していいことだった、にはならないの」
「……うん」
「わかった?」
「わかった……」
四歳児には少し難しい顔だったが、それでも、なんとなくは伝わったらしい。
まいはぬいぐるみの耳を撫でながら、小さくうなずいた。
「……ごめんなさい」
「誰にだ」と、バルタザールが聞く。
「ままと……ばるしゃーるさんと……ももちゃん」
母親が苦笑したあと、戸棚を開け、小さな丸缶をひとつ取り出した。
「こんなものでよければ、お礼に」と、母親は言った。
「子どものおやつなんですけど」
缶の中には、どうぶつの形をしたバタークッキーが入っていた。
うさぎ、くま、ぞう、ねこ。素朴な焼き色がついている。
バルタザールの耳がぴくりと動く。
「……バターは」
「ちゃんと使ってます」
「ほう」
すると、まいが缶をのぞきこんで、真剣な顔で一枚選びはじめた。
そしてしばらく悩んだ末、うさぎ型の一枚を取り出し、両手で差し出した。
「これ、ばるしゃーるさんの」
差し出されたうさぎクッキーは、小さくて、少しだけ端が欠けていた。
でも、まいにとってはたぶん『いいやつ』なのだろう。
バルタザールはしばらくそれを見てから、そっと受け取った。
「……礼は受け取った」
「ありがと、ばるしゃーるさん」
「惜しいな」
「ばるさん」
「…もうそれでいい」
足元に、淡い紫の帰還陣が浮かび上がる。
契約終了だ。
母親はもう一度、今度はきっぱりと頭を下げた。
「今回は本当にありがとうございました。でも、次はこんなことにならないようにします」
「頼む」と、バルタザールは即答した。
「こっちもそのほうが助かる」
「はい」
まいも、ももちゃんを抱えたまま小さく頭を下げた。
「もう、へんなまる、かかない」
「その約束は守れ」
「うん」
紫の光が強まる。
明るい居間も、うさぎのシールつきの召喚陣も、泣きはらした四歳児の顔も、ふわりと遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは、まいの少し鼻にかかった声だった。
「ももちゃん、よかったねえ」
その言葉とともに、バルタザールの姿は光の中へ消えた。
◇◇
魔界派遣公社・召喚対応第七支部。
転移陣から戻ってきたバルタザールを見て、リリィが顔を上げた。
「おかえり。どうだった?」
「……幼児だった」
「えっ」
「現地に着いたら、四歳くらいの泣いてる子がいた」
「そんなことある?」
バルタザールは椅子にどさりと座り、しばらく天井を見た。
いつもの薄暗い事務室。黒い空。赤い稲妻。ごぽごぽいう溶岩の川。
「で、用件は?」と、リリィ。
「ぬいぐるみ」
「……は?」
「ぬいぐるみが家具の後ろに落ちた」
「それで召喚?」
「それで召喚」
「人間界、いよいよ自由ね」
「幼児の『たすけて』は規模のわりに重いぞ」と、バルタザールは真顔で言った。
「世界征服より泣き声のほうが効くかもしれん」
リリィは報告書を一枚差し出した。
「はい、今回の分」
「書くのか……」
「書くのよ」
バルタザールは羽ペンを取り、しぶしぶ記入欄を見つめた。
召喚者の願望:
契約内容:
特記事項:
「なんて書くんだよ、これ……」
それでも、震える手で書き込んでいく。
召喚者の願望:ぬいぐるみ“ももちゃん”の救出
契約内容:チェスト裏からの回収、うさぎ型クッキー一枚
特記事項:『やさしく』の要求あり
それをのぞき込んだリリィが、ついに吹き出した。
「やだ、すごい好き」
「笑うな」
バルタザールはポケットから、さっきのうさぎ型クッキーを取り出した。
少し欠けているが、ちゃんと甘い匂いがする。
「それ、対価?」
「そうだ」
「ずいぶん小さいわね」
クッキーをひと口かじると、さくり、と軽い音がした。
素朴な甘さが、舌の上でほろりとほどける。
「どう?」と、リリィ。
「うまい」
「よかったじゃない」
「……まあな」
バルタザールはそう答えてから、少しだけ黙った。
「で、幼児案件ってどうなの」と、リリィ。
「二度とごめんだ」
「そんなに?」
「泣くし、急ぐし、説明できないし、でも要求だけはいっちょ前だ」
「ずいぶん厄介ね」
「下手な貴族より厳しい」
彼は報告書を見下ろし、深々とため息をついた。
「……世界征服より気を遣った気がする」




