3話
あっという間に時間は流れ、早いもので1学期の期末試験が近付いてきた。
教室の空気も、どこか落ち着かない。
休み時間になれば、あちこちでノートや参考書を広げる音がする。
問題を出し合ったり、教え合ったり。
「なあ、今日放課後どっかで勉強する?」
「いいね、どっか空いてる教室あるかな」
「ばーか、ズタヴァでやるんだよ! 新作飲みながらやろうぜ?」
そんな会話が、あちこちから聞こえてくる。
……ほんと、分かりやすい。
どうせ勉強なんて口実で、集まって遊ぶだけだろ。
雑談して、だらだら時間潰して、やった気になって満足する。
「いや、勉強しろよ……」
ぼそっと呟いて、机に突っ伏す。
誰がどうなろうと、俺には関係ない話だ。
その気になれば、勉強だって何とかなるし。
——そもそも、群れないと何もできない時点で、俺とはレベルが違う。
あいつらが群れるイワシなら、俺はカジキマグロだ。
「ふぁぁ……」
そのまま目を閉じる。
ざわざわとした声が、遠くに流れていく。
* * *
何度目か分からない居眠りから目覚めると、HRは既に終わっていて教室は静かになっていた。
顔を上げると夕方の光がカーテン越しに差し込み、起き抜けの暗闇に慣れた瞳に突き刺さる。
「うぐっ……目が……ッ!」
涙が滲み、何度も目を擦りながらようやく教室内を見回すと、俺の他にもまばらに人が残っていた。
机を寄せ合い、それぞれノートを広げて何やら真剣に話し込んでいる。どうやら試験勉強をしているようだ。
男女入り混じる集団の中心に——奈々の姿があった。
さらりと艶やかな長い濡れ羽色の黒髪が揺れ、さり気なく髪を耳にかける仕草は、同級生であることを忘れてしまいそうなくらい、色っぽくて魅力的だった。
時々誰かが言う冗談にコロコロと表情を変え、輝くような笑顔から、子供っぽく拗ねて見せたり。
ずっと彼女を見ていても飽きないだろう。
……まあ、奈々は誰にでも優しいしな。
微笑みを湛えて視線を細める。
奈々が、男子に何かを説明している。
身を乗り出すようにして、ノートを指で示して。
その距離に、教わっている男子は頬を染めて視線を彷徨わせている。
「……近いな」
ぼそりと呟く。
まあ、仕方ないか。
奈々も真剣に教えてるんだし。
……あいつ、距離感ちょっとバグってるところあるからな。
そんなところも可愛いんだけど。
ちょっぴり嫉妬を交えた不機嫌そうな顔をして奈々を見つめていると、ふと顔を上げた奈々と目が合った。
一瞬だけ、彼女の動きが止まる。
すぐに奈々は小さく会釈して——元のやり取りに戻った。
……ほらな。
ちゃんと、俺のこと見てる。
あの勉強会の中にいても、正面に男子が居ても、意識はこっちにある。
俺はその事実に口元が緩むのを感じていた。
「……無理しなくていいのにな」
大丈夫、俺にはちゃんと伝わってるよ。
奈々は無理して周りに合わせてるだけで、本当は——
……まあ、いいか。
俺はカバンを静かに机の上に置き、机の中に入れっぱなしだった教科書類をカバンへと詰め込んでいく。
これ以上いると、あいつも気を遣うだろうしな。
俺は俺で、やることあるし。
俺はもう一度だけ、奈々の方へ振り返った。
奈々は、誰かのノートを覗き込みながら、何かを説明していた。
その表情は——さっきよりも少しだけ、硬かった気がした。
俺がいなくなりそうで寂しいのか?
ほんと、不器用な子だな……奈々って。
……ったく、仕方ないなぁ……。一芝居打ってあげるか
「あーあ、勉強どうするかな……」
独り言のつもりだった。
ただ、ほんのちょっと声が出ただけだ。
そのまま、机に手をついて勢いよく立ち上がる。
「このままだと、ちょっとまずいかもな」
そう、これは別に誰に向けたわけでもない言葉だ。
ただ、俺が自分の為に声に出して状況を整理しただけだ。
――教室の空気が変わった気がした。
和やかに続いていた会話が途切れ、いくつかの視線がこちらに向いた。
「白井くん」
鈴を転がすような可憐な声で呼ばれて、俺は顔を上げた。
奈々が立ち上がり、俺の事を真っ直ぐに見つめていた。
手には、何枚かのプリントが。
「これ、さっき配られてた範囲のまとめ。余分にあるから」
差し出される紙。
きれいに整理された要点の一覧だ。
「あと、こっちの問題集のこのページから問題出るかもって、先生が言ってたよ」
指で、ページ番号を示す。
――でも俺は、奈々のピンク色のつやつやした爪と、細く伸びる白魚のような美しい指に目が移ってしまっていた。
この手を握りたい。恋人繋ぎで絡ませたい。
自然と顔が赤くなっている事に自分でも気付いてしまって、思わず苦笑いを浮かべた。
「時間なかったら、ここだけでも見ておくといいと思う」
「……ありがと、な……委員長」
受け取ると、奈々は小さく頷いた。
「うん。無理しないでね」
それだけ言ってすぐに視線を外し、元の席に戻っていった。
その横顔は、どこか切なそうに口元をきゅっと結んでいた。
また小さく会話が動き出す。
さっきまでと同じように、ノートをめくる音と、くすくすと漏れる小さい笑い声。
……なるほどな。
手元のプリントに目を落とす。
要点がきれいにまとまっていて、分かりやすい。
(俺が寝てるの、奈々が見ていて余分に持っていてくれたんだ)
奈々の優しさに、健気な気遣いに胸が熱くなり、自然と鼓動が高鳴っていく。
(ああ、やっぱり……奈々は天使だな)
愛しさで口元が少しだけ緩む。
別に、俺は逃げたりしないのに。
行かないで、一緒にやろう? って。恥ずかしくてそう言えないのも奈々らしい。
プリントを軽く折って、カバンにしまう。
本当は早く帰って月の相手をしてあげなきゃいけないんだけど……。
(やれやれ……仕方ない。少しくらい、付き合ってやるか)
カバンを肩に掛け直してゆっくりと歩き、グループの外側——机の端にそっと立つ。
「……ちょっといい?」
声をかけると、数人が驚いたような表情で顔を上げた。
「……あ、白井くん。えっと……一緒に勉強する?」
奈々が微笑みながら提案してくれる。
その動きは自然で無駄がない。まるで俺がこうするって分かっていたかように。
「あー、白井、そこ座る?」
男子——こいつの名前覚えてないな……モブでいいか。
モブが提案するも、俺はクールに断る。
「いや、立ったままでいい。今通り過ぎ際に見えて気になったんだけどさ」
軽く答えて、ノートを覗き込む。
問題は……さっきもらった範囲のやつか。
「ここさ——」
置いてあった誰かのシャーペンで、該当の式を指す。
「その変形、ちょっと遠回りじゃない? この形から一気に——」
さらさらと迷いなく書き足す。
瞬時に頭の中で組み立てた手順を、そのままなぞっているだけだが。
「……こうすれば、早く解けるだろ」
一瞬、皆が静かになる。
モブが、書いた式と見比べて——
「あー……うん、でもこの問題は、公式に当てはめる形で解くって言われてるから」
別のモブ2が、プリントの端を指で示した。
「ほら、ここの指定の解法でってとこ」
……ああ。
本当に無駄ばかりだ。
「……そっか」
軽く肩をすくめる。
「ま、どっちでも答えは出るしな。非効率だし俺がやったみたいにすれば早く解けるだろ?」
場の空気を崩さないように、笑って流す。
それに合わせるように、奈々が小さく頷いた。
「うん。考え方としてはいいと思うよ」
やわらかい声。
角が立たないように整えられた言い方。
……ほらな。
奈々はちゃんと、分かってる。
「サンキュ、さすがな……委員長」
サムズアップをして軽くウインクを飛ばし、視線を外す。
気分が良いからそのまま、もう一問教えてやるか。……仕方ないなぁ。
「これもさ?」
今度は、少しだけ冗談めかして、茶化すように言う。
「ここ、計算ミスってない? 今暗算でパッと解いたけどさ。さすがにそれは……初歩過ぎてネタでやってるでしょ?」
じっと皆が問題を見て、奈々がサラサラとシャーペンで数式を書いて問題を解くと、くすっと笑みを漏らした。
「……嫌だなぁ、もー、白井君違うよー。ほら、ちゃんと計算したら合ってるでしょ?」
奈々はノートをこちらに向けて、指で一行をなぞった。
「ここ、符号ね。マイナスが一回ひっくり返ってる」
さらりとした声で、俺を責める感じはない。
……ああ、そういうことか。
「……なるほど」
軽く頷いて、肩をすくめる。
「誰にでも失敗はあるってな」
場の空気を崩さないように、笑って流す。
誰かが小さく「あるある」と言って、空気が少しだけ緩む。
奈々も、合わせるように微笑んだ。
「やっぱちゃんと式計算しようって思ったわ」
はは。やっぱこういうの、必要なんだよ。
ピリピリしてるだけじゃ、効率も落ちるしな。
(よし、場……和んだな)
俺の仕事は終わった。後はクールに去るのみだ。
ずり落ちかけていたカバンを肩にかけ直し、手を軽く上げた。
「邪魔したな」
背を向けて去っていく俺に、誰かが小さく「おつ」と言った気がした。
教室の扉から出る前に、ふと振り返ると……奈々が誰かのノートを覗き込みながら説明していた。
その顔は、さっきよりも少しだけ表情がやわらいで見えた。
「……頑張れよ、奈々」
そう独り言ちて、俺は皆に背中を向けて歩き出した。




