20話 月
私は、スマホを握ったまま固まっていた。
画面には、さっきから何度も同じ動画が流れている。
『学校前でケンカしてて草』
見たくないのに、目が離せない。
——私の兄が、誰かと殴り合っている映像。
血が飛んで、周りが騒いで、女の子が泣きながら止めに入って。
……これ、本当にお兄ちゃん?
嘘だよねって、何度も思った。
でも、何回見ても——同じだった。
指先が、震える。
スマホを落としそうになるのを、ぎゅっと握り直す。
その時だった。
「……ただいまー」
声。
ドアが開く音。
反射的に顔を上げた。
そこに立っていたのは——
「……え」
声が、勝手に漏れた。
視線が、顔じゃなくて、服に吸い寄せられる。
シャツにこびりついた、赤黒い染み。
乾いた血。
顔にも、拭ききれてない跡。
「……なに、その……」
言葉が出てこない。
さっきまで画面の中にいたそれが、目の前にいる。
現実と動画が、ぐちゃぐちゃに混ざる。
「ちょっとな」
兄は、肩をすくめた。
「邪魔されちゃって」
ケラケラと笑ってる。
なんで笑えるの。
「……は?」
声がかすれる。
手の中のスマホが震えているのが、自分でも分かった。
兄の視線が画面に向く。
まだ流れっぱなしになっている動画。
「……ああ」
軽い声。
もう回ってんのかよ。早いな——とでも言いたげな顔だった。
「本当だったんだ……」
自分でもびっくりするくらい小さい声が出た。
「ああ、俺がやった」
あっさり。
本当に、何でもないみたいに。
「ちょっとしたイベントだって」
イベント。
またイベント。
何それ、意味が分からない。
頭が追いつかない。
「イベントって……何それ……」
やっと出た言葉は、それだった。
兄はもうこっちを見てなくて、キッチンに向かっていく。
「いやさ、昨日相談した奈々の事なんだけど。誘おうとしたら邪魔が入ったんだよ」
軽い口調。
さっきの映像と、全然繋がらない。
「でも大丈夫。ちゃんと勝ったから」
勝った?
どこが?
「……勝ったって……どこが……?」
気付いたら立ち上がっていた。
怖い。
距離を取りたくて、無意識に後ずさる。
「奈々との距離、今日でかなり縮まったからさ」
ごくごくと音を立てて、コーラを飲む。
口の端から零れた黒い液体がシャツに零れ、染みを作っていく。
「はぁ……っ!?」
思わず声が裏返った。
「何言ってんの……!?」
本当に分からない。
同じものを見てたはずなのに、どうしてそんな結論になるの。
「明日、奈々の家行ってくるわ」
「はぁ!?」
頭が真っ白になる。
「ちょ、ちょっと待って……!」
慌てて首を振る。
「本当にやめた方がいいって!!」
声が震える。
止めなきゃいけないって、はっきり分かった。
「なんでだよ」
きょとん、とした顔。
本気で分かってない顔。
……うそでしょ?
「むしろ今が一番いいタイミングだろ? 今日でだいぶ距離詰まったし、吊り橋効果もあるし」
違う。
違う違う違う。
「向こうも、もう俺を意識して夢にも見てくれるはずさ。俺が奈々の夢いつも見てるんだから」
「違うって!!」
ほとんど叫んでた。
「それ、そういうのじゃないから!! それ以上その奈々さん? に関わらないで!」
怖い。
このまま行ったら、絶対に何か起きてしまう。
直感で分かる。
(お願いだからやめて)
「……はぁ」
返ってきたのは、ため息だけだった。
それも、心底呆れたようなため息。
「やっぱり月にはまだ難しいか」
……あぁ。
「いいから気にすんなって。上手くやるからさ」
終わった。
何を言っても、もう止まらない。
そう、分かってしまった。




