19話 奈々
終業式の朝。正直、教室にいるのが怖かった。
昨日のことが頭から離れなくて、ほとんど眠れていない。
それでも委員長だから、逃げるわけにはいかない。
机の下で、ぎゅっと手を握り締めていた。
ガラリと教室の扉が開く音。
始業時間ギリギリに入ってきたのは——白井くんだった。
視界の端に入ったその姿に、反射的に身体が強張った。
こっちを見ている。目が合いそうになって、慌てて逸らす。
笑えない。
いつもみたいに「おはよう」が言えない。喉が閉じて、声が出ない。
……無理。
そのまま隣の子に話しかけるふりをしてやり過ごす。
背中に刺さる視線が、ずっと消えなかった。
その後のホームルームも、ほとんど何も覚えていない。
先生の声は遠くて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
早く終わってほしい。
でも終わったら終わったで、外に出るのが怖い。そんなことばかり考えていた。
チャイムが鳴った瞬間、周りは一気に騒ぎ出した。
「夏休みだー!」なんて声が飛び交う中で、私はすぐに立ち上がれなかった。
「奈々、大丈夫?」
美香が小さな声で聞いてくる。
「……うん」
嘘。全然大丈夫じゃない。でも、そう言うしかない。
「一人で帰らない方がいいよ」
佳奈が真顔で言う。
私は一瞬迷って、頷いた。
一人は、無理。
そのまま三人で教室を出ようとすると、男子の方からも自然と人が集まってきた。
「よっす、お困りかい?」
調子の良い工藤くんと、体の大きい富樫くん。それに……快人もいた。
「お、いいところに! 奈々を守るよっ!」
「よっしゃ任せとけ!!」
美香と工藤くんがハイタッチを交わし、楽しそうにはしゃぐ。
富樫くんは腕を組みながら、頷いて佳奈と視線を交わしている。
快人は何も言わなかったけど、目が合うと『心配するな』と言うように口元を緩め、さりげなく周りを見る。
……守られてる。そう感じた瞬間、情けないけれど……少しだけ安心した。
校門を出ると、すぐに視線を感じる。
多分、昨日ぶつかった……あの位置にいる。
心臓が跳ね、足が止まりそうになり、ぎゅっと隣を歩く美香の腕を握ってしまう。
「……奈々、大丈夫?」
美香が腕を引いてくれる。
「……うん」
そのまま歩みを進めると、物陰から白井くんがゆっくりと姿を見せ、口元をにやけさせながら、こっちへと歩いてくる。
「ひっ……! ごめん、美香……佳奈、助けて……」
「大丈夫、私達がいるからね」
しっかりと手を握ってくれる美香と佳奈の手の温もりが、震える手をそっと鎮めてくれる。
二人が目配せをすると、工藤くんが白井くんを迎え討つようにまっすぐ歩いていった。
「白井」
工藤くんが白井くんを少し離れた場所に誘導してるのが分かる。
何を話してるかまでは聞こえない。
……思ったよりも穏やかに済みそう。
笑顔で白井くんが工藤くんに何かを話して、軽く手を挙げて――こちらへ歩いてくる。
「ちょ……工藤の馬鹿ッ」
焦った声で美香が呟き、私も身を固くする。
「……清川さん」
名前を呼ばれ、肩が勝手に震えた。
反射で視線を向けてしまうが、すぐ逸らす。
「ちょっといいか?」
(無理……)
一歩下がる。
その瞬間、美香と佳奈が前に出た。
「あの……何? 奈々怖がってるんだけど?」
声が震えてるのは、私だけじゃない。
美香だって、怖いんだ……。
富樫くんと快人も私を守るように立つ。
でも白井くんは止まらない。
「いや、ちょっと大事な話があってさ」
彼の目が、こっちを見てる。
「清川さん……いや、奈々もいいよな?」
空気が凍る。
(無理。無理無理無理……!!!)
余りの嫌悪感に言葉が出ない。首も振れない。
その間に、距離が詰まる。
「おい、白井!」
工藤くんが白井くんの腕を掴む。でもすぐに振り払われる。
「ッ……塚田、冨樫!」
怖い。
逃げたい。
でも足が動かない。
「なんで邪魔するんだ? 俺は奈々と——」
……聞きたくない。
名前で呼ばれたくない……気持ち悪い……。
「悪いけど、もう先約入ってるんだよ」
「お前さ、妄想も大概にしろよ。清川は」
「と、富樫くんっ!! それはいいから!」
思わず叫んでいた。
違う。そんな言い方してほしいんじゃない。
でも止めないと。
でもどうすればいいのか分からない。
「奈々も言ってるだろ?」
違う。
言ってない。
何も言えてない。
そのまま男子達は押し合いになって——
「いいから――離せっ!!」
鈍い音。富樫くんが……倒れた。
誰かが上げた悲鳴で、空気が一気に壊れる。
もう、限界だった。
「奈々! 行こ!!」
美香に腕を引かれ、逃げるようにそのまま後ろへ下がる。
「ま、待って! 奈々! 俺とっ」
視界の端で、殴り合いが始まっていた。
白井くんを殴ったのは――快人だった。
「お、まえ……邪魔するなよ! 何の権利があって」
「奈々はっ! 僕の大事な……幼馴染だ!」
「……っ! 快人っ!」
逃げようとしたのに、身体が動かなかった。
快人が……あの優しい快人が、人を殴った……。私の為に……?
白井くんは、顔から血を流しても、余裕そうな笑みを崩さなかった。
「奈々、大丈夫だから。俺がちゃんと」
「もうやめろ」
快人のその声に、ほんの少しだけ空気が変わる。
これで止まるかもしれない。
そう思った——次の瞬間。
白井くんは、笑った。
……なんで。
状況が悪くなってるのに、
どうしてそんな顔ができるのか分からない。
「奈々は……お前のおもちゃでも彼女でもないんだ。奈々の意思を尊重しろよ」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
——助けられてる。
嬉しくて、でも同時に……怖かった。
その言葉を聞いてもなお、白井くんの表情が崩れないことが。
「……分かってるさ」
軽い。
あまりにも軽い返事だった。
ぞわ、と背中に冷たいものが走る。
分かってない。
絶対に、分かってない。
「いいよ、今日は、ここまでにしとく」
白井くんの視線がこちらに向き、ひゅっと息を呑む。
「またな、奈々」
細い目だから今まで気付いていなかったけど、ウィンクしてる……?
……気持ち悪い。
もう、拒絶感しか沸いてこない。
「で、いつまで触ってんの?」
声色が冷たい。快人に視線を戻した白井くんは、刺すような目で彼を睨みつけた。
「離せよ、噛ませ犬」
白井くんの挑発にも、快人は乗らなかった。
その後小競り合いが起きるも無力化され、白井くんは悔しげに捨て台詞を吐き捨てていた。
「今日はこれで許してやるよ」
その一言で、完全に確信した。
——この人、何も見えてない。
誰も。
何も。
私の気持ちも。
何一つ。
「でも勘違いすんなよ」
視線が、突き刺さる。
「奈々の気持ちは——こっちに向いてるから」
息が止まった。
否定したいのに、声が出ない。
怖い。
怖すぎて、言葉が出ない。
違うって言わなきゃいけないのに。
何も言えないまま、ただ立っていることしかできない。
その間に——殴り合いが始まった。
白井くんが不意打ちで快人の顔を殴って、快人が殴り返したのだ。
もう何が何だか分からない。
やめて。
やめてやめてやめてやめて。
頭の中で何度も繰り返すのに、現実は止まらない。
白井くんが倒れて、それでも笑っていて、また立ち上がって——
もう、限界だった。
「やめてっ!!」
気付いたら、走り出していた。
自分でも分からないくらい大きな声が出た。
二人の間に、無理やり身体を割り込ませる。
怖い。
でも止めないと。
これ以上、誰かが傷つくのを見たくない。
「もうやめて……!」
声が震える。
涙が止まらない。
「お願いだから……やめてよ……」
息が詰まる。
胸が苦しい。
それでも——
やっと、止まった。
白井くんの拳が、ゆっくり下がる。
その瞬間だけ、ほんの少しだけ安心した。
でも——
次に向けられた顔を見て、
背筋が凍った。
笑ってる。
優しく。
まるで、全部うまくいったみたいに。
「奈々がそう言うなら、やめる」
違う。違う違う違う。
そうじゃない。そういう意味じゃない。
「ありがとな」
そのまま背を向けて去っていく。
周りのざわめきが戻ってくる。
誰かが何か言っている。
でももう、私には何も聞こえなかった。
「いてて……、もう大丈夫だよ、奈々」
口元から少し血を滲ませた快人が、優しく微笑む。
「——快人っ!!」
思わずそのまま快人を抱き締めていた。
触れて分かった……快人も、震えていた。
ケンカするような子じゃなかったのに、私の為に……頑張ってくれたんだ。
トクンっと、恐怖ではない胸の高鳴りを感じていた。
やっぱり……そうだったんだ。
私、快人の事が――




