14話 月
学校から帰ると、家には誰もいない。
……いつものこと。
お父さんもお母さんも、海外赴任で滅多に帰ってこない。
でも、独りぼっちじゃない。……いや、最近は独りの方が良かったとさえ思う。
だって……あの兄がいるからだ。
初めからあんな兄だったわけじゃない。
小さい頃からアニメや特撮が好きだった兄は、明るくやんちゃだった。
私が物心ついた頃には、よく泣かされていた思い出がある。
でも……ある日、兄は傷だらけで帰ってきた。
ケンカをしたと言っていた。それがきっかけで、長い長いいじめが始まったらしい。
それから、兄は変わってしまった。
誰かと積極的に関わるのを避け、すぐに家に帰るとライトノベルという薄い小説を読み始めた。
……日に日に、兄の部屋にライトノベルが増えていった。それと同時に漫画も増えていった。
話し方も人が変わったようになった。
今まではハキハキと喋っていたのに、ボソボソと口をあまり動かさず、何を言っているのか聞き取れないようになった。
笑顔も、にっこりと歯を見せて笑っていたのが、どこか粘着質なニチャッとした卑屈そうな笑顔に。
……何より、私を見る目が……キモい。
今まではちゃんと妹として見てくれていたはずなのに、最近は……異性として見られている気がする。
……私の自意識過剰ならそれでいい。でも……視線は間違いなく私の胸や手足に向いているのは分かっている。
時々見せる荒い息遣いが……怖い。
……どうして、こうなってしまったんだろう。
あのやんちゃだけど優しかった兄は、どこへ行ってしまったんだろう。
脂っこく味の濃い物ばかりを食べて、太って……髪も伸びてぼさぼさ。
本当に……同じ兄だと思いたくなかった。
* * *
私は帰ってから特に何もすることもなくて、ソファに座ってスマホをいじるのが日課。
動画を流して、時間を潰す。
音を少し大きめにしているのは、ただ静かすぎるのが嫌だから。
……もうすぐ受験なのも分かってる。でも、貴重なリビングで過ごせる時間だからやめる気はない。
時計を見る。
もうすぐ、兄が帰ってくる時間だ。
——カチャ。
玄関から鍵の開く音がした。
びくっと、肩が揺れた。
でもすぐにスマホへ視線を戻す。
「……ただいまー」
聞き慣れた声。
分かってたのに……どうしてか、少しだけ息を止めてしまった。
顔は上げない。
スマホを見たまま、視線だけ一瞬向ける。
目が合いそうになって——逸らした。
……見られたくない。
理由は、分かってる。
……でも、それを考えるのはやめた。
考えたら、きっと——普通にいられなくなるから。
「おっす」
……いつも通り兄が声をかけて来る。……少しだけ距離を取りたくなる。
スマホを見るふりを続ける。
視界の端で、カバンをリビングに置く動きが見えた。
「ちゃんと飯食ってんのか?」
身体を心配する問いかけ。
言葉だけを取れば、良い兄だと思うかもしれない。
でも……足や胸に感じるねっとりとした視線が……キモい。
「……別に。関係ないでしょ」
出来るだけ短く返す。会話を広げないように。
視線は合わせない。
合わせたら、何かを読み取られそうで。
「夕飯、適当に作るけど食う?」
「いらない」
即答した。
でもどうせ何か作って持ってくるんだ……私の意思は無視して。
「……あとで、食べるから」
嘘じゃない。
ただ、兄の食事を食べるとは言っていない。
両親が海外に行ってから、兄が食事を作るようになった。
脂っぽい、肉や炭水化物だらけのご飯。
栄養も何も考えていない、脂ぎった料理。
ご飯は無駄にしちゃいけない、その心は十二分に理解しているつもり。
でも……あのご飯は、どうしても食べたくない。
だって……。
視線の端で、冷蔵庫を開けるのが見える。
「そっか。じゃあ月の好きな炒飯にするからな」
——やめて。
喉まで出かけて、飲み込む。
何も言わない。言わない方が、良い。
包丁の音が響く。
トントン、トントン。
規則的な音が、やけに大きく感じる。
スマホの画面をスクロールする。
何も頭に入ってこない。
ちらりと視線を上げると、キッチンに立つ兄の姿。
——時々、兄の視線は感じていた。
(まだ見てる……)
そのまま、すぐに視線を逸らした。
……見てるって思われたくない。
でも、料理もそこそこにずっと見られているのは気分が悪い。
「……何?」
思わず、声が出た。
「別に。見てただけ」
飄々としたその返しに、背中が少しだけ強張る。
「……キモ」
小さく吐き捨てる。
心からの言葉だが、それ以上何も言わない。
怒らせたら、怖いから……。
ごま油の匂いが広がる。……匂いは悪くない……けど。
——逃げたい。
ふいに、そう思った。
スマホを握る手に、力が入る。
このままここにいたくない。
でも、立ち上がるタイミングが分からない。
——いや、やっぱり無理。
ソファーから立ち上がろうとした時、足がぶつかって音が思ったより大きく鳴った。
びくっと、自分で驚く。
でも、そのまま立ち上がり、視線を向けないようにして何も言わずに、リビングを出る。
廊下。
空気が、少しだけ軽くなる。
そのまま、足早に自分の部屋へ。
ドアを閉め、鍵をかける。
カチ、という音。
私を守ってくれる結界の音。
それだけで、少しだけ安心した。
ベッドに座り、スマホを見下ろす。
画面は、変わらず真っ暗のまま。
何も、見ていなかった。
……ため息が漏れる。
「……なんなんだろ」
小さく呟くが、分からない。
でも、このままじゃ、いけない気がする。
理由は分からないけど……ただ、なんとなく。
嫌な感じが、ずっと残っていた。
* * *
廊下から足音が聞こえてくる。
コツ、コツ、と階段を上がる音。そして、私の部屋の前で止まった。
「おーい、月ー?」
声。反射的に布団を引き寄せる。意味なんてないのに。
返事は、しない。
「……おい、炒飯できてるぞ」
少しだけ強くなる声。……無理。喉が動かない。言葉を返したら、開けられる気がした。
だから、黙る。
——ガチャ。
ドアノブが回る音。
心臓が跳ねる。
(なんで、鍵……!?)
——かけてなかった。緩く回したせいで、ちゃんとかかってなかった。
頭が真っ白になる。次の瞬間、ドアが開いた。
光が差し込む。反射的に目を見開く。
——入ってきた。
「ちょっと!! 勝手に入らないでって言ったでしょ!!」
声が裏返る。思ってたより大きな声が出た。でも、兄は止まらない。
「おーおー、可愛い妹の為に炒飯持ってきてやったのに。お兄ちゃん悲しい」
……その言い方。軽い。何も分かってないみたいに。舌打ちが漏れる。
「……いいから、出てってよ」
できるだけ短く。それ以上、会話を続けたくない。
「……はいはい」
机に何かを置く音。
出来立ての炒飯の匂い。
……私は視線を逸らした。危険な獣が徘徊しているから。
(早く出てって……お願いだから……!)
でも——動く気配が消えない。
部屋を、見てる。
(やめて……!!)
何も言えない。
兄の視線が机に向かい——引き出しの鍵を撫でた。
「触んないで!!」
反射だった。
自分でも驚くくらい大きな声。まだ心臓がバクバクしてる。
……見られたら、だめ。絶対に……だめ。
苦笑する声で軽く流される。……分かってない。全然。
少しでも身を小さくしようとして、ベッドが沈む。
まだ近くにいる……身体が固まる。
逃げたい。でも、動けない。
ねっとりと視線が降りてくる。
(……やだ、見られてる。どこ見て……ッ!! やだ……!)
「な……なによ!」
声が震える。
「ちゃんと食えよな。大きくならないぞ」
違う。そういうことじゃない。
その視線。意味が分かる。分かるから——
「……ッ!!」
枕を掴み投げる。
何でもいいから、距離を取りたかった。
手当たり次第に物を投げ付ける。
「うるさいバカッ!! 死ねッ!!」
言葉が荒れる。止められない……だって、怖い……!
「ごめん! 出ていくから! タンマ!!」
ようやく離れる気配。
慌ててドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
しばらく、動けなかった。
心臓の音だけがうるさい。呼吸が浅い。
まだ、手が震えてる。
……大丈夫。何もされてない。ただ、入ってきただけ。……それだけなのに——喉が詰まる。目の奥が熱い。
ベッドの上で膝を抱えてスマホを握る。
画面が……揺れて見える。
思わずスマホを床へ投げ付けてしまった。
ドンッと大きな音がして、肩が跳ねる。
自分でやったのに。
……はぁ、と息を吐く。このままじゃだめだって分かってる。でも、どうすればいいのか分からない。
スマホを見る。誰かに連絡する?……誰に。指が止まる。画面が暗くなる。
そのまま、私は何もできずに——ただ、時間だけが過ぎていった。




