11話
当日。
朝から、妙に気分が良かった。
目覚めもいいし、体も軽い。
まるで、何かが上手くいく日だと、最初から決まっているみたいな——そんな感覚。
「……よし」
今日は、決める日だ。
クローゼットを開け、並んだ服の中から迷いなく一着を取り出した。
黒を基調にしたシャツと、同じく黒のパンツ。
無駄な装飾はないが、シルエットで魅せるタイプのやつだ。
鏡の前で、軽く整える。
「いいね。決まってる」
口元が、自然と緩む。
(完璧だろ)
髪に手を通す。
少しだけ癖のある前髪を、指で整える。
ワックスをほんの少し。
やりすぎないのがポイントだ。
ナチュラルで、それでいてちゃんとキマってる。
ラノベの主人公ってのは、こういうさりげなさが大事なんだ。
「……よし」
もう一度、鏡を見る。
そこにいるのは——間違いなく主人公だった。
鼻歌が、自然と零れる。
軽く肩を回して、体の動きを確かめる。
準備は万端だ。
* * *
時計を見る。
まだ、少し早い。
焦る必要はないが、こういう日は流れに乗ることが大事だ。
机の上に置いてあった本に手を伸ばす。
愛読しているラノベ。
何度も読み返している、お気に入りの一冊。
パラリと捲って癖のついたページを開く。
ちょうど、あのシーンだ。
夏祭りの花火シーン。
ヒロインとの距離が、一気に縮まる場面。
人混みの中ではぐれそうになって手を引いて、そのまま二人っきりになれる場所へ。
ページをめくると挿絵には浴衣姿のヒロイン。
「……やっぱり、奈々だ」
思わず、息が漏れる。
「ほんと、似てるなぁ」
いや、似てるんじゃない。
これが、奈々なんだ。
そう思うと、胸の奥が熱くなる。
ページを指でなぞる。
流れは、もう分かっている。
打ちあがる花火を眺めながら、ふと何かを主人公の耳元で呟くヒロイン。
聞こえずに耳を寄せた主人公へ、不意打ち気味のキスをする。
「……」
口元が、自然と緩む。
いつ読んでも胸が締め付けられる名シーンだ。
……問題ない。全部頭に入っている。
タイミングも。距離も。囁く言葉も。
今日、この通りに動けばいい。
それだけで、間違いなく上手くいくんだ。
「……よし」
本を閉じて静かに立ち上がり、カバンも持たずに部屋を出る。
階段を降りる足取りは軽い。
「月ぃー! お兄ちゃん行って来るからなぁーっ!!」
返事はない。いつもの事だ。
スニーカーを履き、玄関を出る。
夏らしいもんわりとした暑い空気がクーラーで冷えた身体を温めていく。
目を差す夕焼けの光が、やけに眩しく見えた。
さぁいこう。シナリオ通りに。
* * *
夏祭りの会場となっている神社の境内は、人で溢れかえっていた。
子供は走り回り、カップルは浴衣デート。
暗いはずの夜闇を赤い提灯が照らす幻想的な非日常感に、皆浮足立っているのだろう。
俺もその一人だ。
お囃子の小気味良い調子に足取りは軽く、屋台から漂う香ばしい匂いは食欲を掻き立てる。
だが、食い気より色気。
これから奈々とキスするのに、下手な物食べたら嫌な思いをさせてしまう。
だからこそ、俺は途中のコンビニで買った口臭予防のガムを噛み続けているのだ。
「……喉が渇いた」
ふと屋台のラムネに目が留まる。
氷がたっぷり浮かんだクーラーボックスに沈んだラムネは見るからに清涼感が漂っている。
(ラムネならいいか……)
「……あの、すいません。これ一つ……」
「おっちゃん! これ4本!!」
「あいよーっ!!」
俺の声が陽キャの声にかき消され、横入りをされてしまう。
思わず舌打ちをして陽キャを睨みつけるが、剃り込みの入った髪を見てそっと目を逸らした。
……だからああいう奴等は嫌いなんだ。
人の事を全く考えていない。周りも見えていない。自己中心的で自分さえ良ければ何でも良いと思っているゲス野郎だ。
「せいぜい仲間達の輪の中でキャンキャン吠えてろよ。雑魚が」
俺の恨み節も陽気な喧騒に飲まれて消えていく。
やっと気付いてもらえた俺は萎えた心でラムネを受け取り、一息で半分以上飲み干した。
「……っ」
喉に刺激が走る。炭酸が強くて、少しむせた。
一気に気分が悪くなった俺は、ふらふらと参道をあてもなく彷徨っていた。
奈々の姿はまだない。
いや、見つけられていないだけだ。花火が打ちあがる前に必ず遊ぶはずだ。
……本当なら今、俺は奈々とこの祭りを回っているはずだったのに。
塚田、工藤……あとモブ。
あいつらにはお礼をしてやらなきゃな。イベントはありがたいけど、大事なイベントを潰されたら堪った物じゃない。
続けて瓶を傾け、ラムネを飲み干してゴミ箱へと投げ入れる。
さぁ、奈々を探さないと。
* * *
しばらく彷徨う事一時間は過ぎただろうか。
ようやく……ようやく奈々の姿を見つけた。友人の女子と、塚田と工藤、モブも一緒だ。
後ろから人混みに紛れて近付いていく。
話通り浴衣姿で、ポニーテールに束ねた黒髪が美しい。それに……うなじが……そそる。
「な――」
声を掛けようとした時、アナウンスが鳴り響いた。
『大変長らくお待たせいたしました。まもなく、花火が打ち上げられます。皆様夜空へご注目下さい!』
案内を聞いた人々が進行方向を変え、奈々達から反対方向へ押されて流される。
「くそっ……!」
人波を掻き分けるようにして無理やり奈々のグループへと近付こうとするが、多勢に無勢。人の圧に負けて遠回りをせざるを得なくなってしまう。
(こんな事している場合じゃないのに……っ!!)
焦れば焦る程、人の波からは抜け出せない。半ば強引に人を押しのけて先程まで奈々達が居た場所まで戻るも、奈々達もどこかへ移動してしまっていた。
「————ッ!!!」
思わず声にならぬ声を上げてしまう。運命のいたずらか、それとも神の試練か。
もう目前。手に掴んだと思った幸せが、俺を嘲笑うように指の隙間からすり抜けて逃げていく。
怒り・恨み・焦りが胸の奥底から間欠泉の如く吹き出してくる。
もうなりふり構っていられなかった。
「どけぇっ!!!」
人々に体当たりするように無理やり前へ前へ進み、あの後ろ姿を探した。
まだ遠くに行っていないはず。
探せ、探すんだ。
俺の祈りが届いたのか、見覚えのある浴衣が目に入った。
奈々ではないが、彼女と同じグループの女の姿。
——見つけたッ!!
人の波を泳ぐように、小さい子供を押しのけ、人混みの隙間からチラリと見える姿を見失ってたまるかと足を早めた。
一人、また一人と自分と彼女を隔てる人の壁を抜いていく。
ようやくあと僅かで追いつく――その時になってようやく気付いた。
あの後ろ姿がいない。
(奈々は……?)
目の前が真っ暗になるような感覚を覚えながらその場で立ち止まってしまう。
嘘だ。見失った……?
いや待て……人混み……花火……?
「奈々達、上手くいくかな?」
「さぁな~。これで男見せなかったら皆に奢らせようぜ」
喧しい喧噪の中でも、スッと耳にモブ達の会話が入り込んできた。
奈々達。
上手くいく。
男を見せる。
脳が拒絶していたが、無理やり理解し、咀嚼し、飲み込む。
——喉が、ひくつく。
「——まさか」
人混み。花火。高台。
もう、あのエピソードのクライマックスだ。
「……あそこだ」
神社の裏手。少し高くなった山道の入り口。
見晴らしがよくて、人が少ない——二人きりになれる場所。
俺が見つけた場所。穴場だったはずの場所。
でも、直感でそこだと思った。
「っ……!」
弾かれたように走り出す。
人を押しのけ、身をねじ込み、無理やり押し通る。
境内を外れ、裏へ回る。
『——それでは、カウントダウンを始めます!』
背後で歓声が上がり始める。
息が荒い。肺が焼ける。足がもつれる。
それでも止まれない。
登る。登る。登る。
視界が滲む。汗が流れる。心臓の音がうるさい。
——もうすぐだ。
木々の隙間、暗い山道の先。開けた場所。
そこに——影が、二つ。
「……っは」
足が止まる。脳が理解を拒む。
(まさか……違う、そんなはず——)
『——3』
声が遠い。影が、重なる。
『——2』
近い。
近すぎる。
やめろ。
やめろやめろやめろやめろ——
『——1』
——ドンッ。
夜空に花が咲いた。光が闇を裂く。
奈々の顔。閉じた瞳。わずかに上がった顎。
快人と——重ねられた唇。
……。
音が消える。
花火も、歓声も。
何も聞こえない。
ただ——
心臓だけが、耳元で叩きつけるみたいに鳴っている。
そっと、名残惜しそうに離れる二人。
でも次は快人の方から顔が寄せられ、再び唇が重ねられる。
視界が、歪む。
世界が、崩れる。
立っている感覚が消える。
光が遠ざかる。
音が途切れる。
何もかもが——引き剥がされていく。
目の前が、真っ暗になった。




