「盤上の理」
アシュリーが去った後の執務室には、言葉にし難い静寂が沈殿していた。
つい先ほどまでそこにいた少女の気配――それは、あまりにも静かで、あまりにも異質で、そして確かに”何かを決定的に壊した後の空気”だった。
ヴィンセントは、しばらく動かなかった。
机に置かれた書類を見つめたまま、何かを深く噛み砕くように、ゆっくりと息を吐く。
「……アロイス」
「はっ」
影から這い出るように、側近が姿を現した。ヴィンセントは顔を上げぬまま、短く、だが拒絶を許さぬトーンで命じた。
「西棟の件だが――回収を行え」
その言葉に、アロイスの表情が一瞬だけ強張る。
「『灰被り』三個小隊、二十四名だ。夜陰に紛れて、速やかに行え。……いいか、絶対に“見せるな”」
「……もしあれが他国の耳に入れば、王宮内で王直属部隊が壊滅したと解釈されます。軍事的な威信が……」
「違う」
ヴィンセントは即座に、冷徹な声で否定した。
「“王が後宮を制御できていない”と見なされるのだ。それは軍事問題ではない。統治能力の崩壊だよ、アロイス。……そうなれば教会が動き、諸侯がつけ入る。そしてメネスは、我が国に軍を向ける“正当な理由”を得る。……分かったら急げ」
アロイスは言葉を失い、ただ無言で深く跪いた。
王宮最強の隠密部隊が、「回収対象の不用品」として扱われる現実。その異常事態の重みを背負い、側近は音もなく退室した。
再び訪れた静寂の中で、ヴィンセントはゆっくりと目を閉じた。
(……盤外、か)
駒ではない。戦力でもない。
あれは、チェス盤をひっくり返す者ですらない。盤上のルールそのものを、無自覚に透過し、前提から壊してしまう存在だ。
ヴィンセントは、扉の外に控えていたもう一人の側近を呼んだ。
「マシュー」
「はっ」
「西棟に食事を運ばせろ。……いいか、魔導具は使うな。直火を使え。人の手で、泥臭く調理させろ。運ぶのも人間だ。隠さず、目に見える形で持っていけ」
魔法大国エシャンにおいて、非効率の極致とも言えるその指示に、マシューの眉が僅かに動く。
「……毒を疑わせないための、信頼構築でしょうか」
「違うな」
ヴィンセントは小さく首を振った。
「あれは、“目に見えない形のないもの”を認識しないのだ。完璧な管理システムも、不可視の護衛も、彼女にとっては“無いもの”と同義。……だからすべてがすり抜けた。ならば、こちらが変わる。あれを教育するより、こちらが適応する方が早い」
「……承知いたしました」
「それと、東の離れを再構築しろ。遮光を徹底し、魔導具は全停止だ。人力だけで運用可能な、原始的な設備だけを残せ」
「王族区画としては異例ですが……」
「構わん。“住めない豪華な宮殿”より、“住める倉庫”の方が価値がある。……ただし」
ヴィンセントの視線が、窓の外、夕闇に沈む西棟の暗がりへと向く。
「西棟には、今は手を出すな。あそこから移動させることも、掃除させることも許さん」
「……よろしいのですか?」
「今のあそこが、最も安定している。……無理に動かせば、あれがどう“反応”するか分からんからな」
それは恐怖による停滞ではなく、理解不能な「災害」を前にした、最も冷静なリスク管理であった。
マシューが去り、執務室には再び王一人が残された。
ヴィンセントは椅子に深く沈み込み、指先でこめかみをなぞる。
(……理解不能ではない。むしろ、あまりにも道理が通りすぎている。だからこそ、厄介だ)
「……面白い」
ぽつりと、乾いた笑みが漏れた。
それは王としての屈辱でも、弱者への軽視でもない。対等な、あるいは上位の「未知」に遭遇した学者のような、純粋な関心だった。
一方その頃。
西棟の、完璧な闇の中。
「……今日は、静かね」
アシュリーは、年季の入ったソファに身を預け、サリーが汲んできた一番水をゆっくりと傾けていた。
その瞳は、暗闇の中で微かに凪いでいる。
「少し減ったかしら。ネズミ」
くすり、と。
鈴を転がすような笑い声が、埃っぽい部屋に響く。
それは年相応の少女のような無邪気さであり――同時に、決定的に何かが”ズレている”者の響きだった。
「まあ、いいわ。静かなのは、良いことだもの」
アシュリーは穏やかに目を閉じた。
国が揺れていることにも気づかずに。
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